第2話 塔の上の王子様

 眠る騎士や茨を跨いで乗りこえ、謁見室から伸びる渡り廊下を過ぎると、今度は細い螺旋階段が上に伸びていた。いくつか建っている塔の一つに繋がるのだろう。この階段にも無数の茨が這っているが、徐々に収束していき、一番上に差し掛かる頃には数えられる本数になっていた。


(伝承からすると、眠りの呪いの発動源は“塔の上の紬車”だ。……ならこの茨は何だ? 外敵を寄せ付けないためか? 年月が成長させたのか? それにしちゃあ妙だ)


 思考しながら段を上ること数分。

 高い高い塔のてっぺん。古い型の木の扉。石と扉の間には割れ目が生じて、茨が中へ通じている。キリルは小さな取っ手をカチャリと動かし、押し開けた。


 簡素な小窓から光が差し込んでいる。部屋を明るくするその光は、窓の傍に置いてある紬車と、寝台で眠るその人物を柔らかく照らしていた。


(あった、“紬車”だ)


 伝承の通りだ、とキリルは頷く。そして寝台の上を見た。

 天使がいたらこんな顔なのだろう、とキリルは思った。滑らかな陶器のような肌に整った鼻梁、形の良い唇。閉じられた瞼を金色の長い睫毛が縁取り、寝台の上に広がる髪の毛は一筋ひとすじが金糸でできているようだ。


 キリルはふと違和感を覚えた。姫にしては髪が短い。というより、この長さはまるで……。

 疑念を晴らそうと胸元に視線を移す。胸の中央で組まれた指はやはり美しく、ほっそりと長い。しかし女性に一定以上みられる膨らみがない。そして何より、長い脚を覆っているのはドレスやスカートといったものではなく、上等な生地で仕立てられた──スラックスだ。


「男ォ!? 嘘だろ、この顔で!?」


 自分のことを思いっきり棚の上に押しやった女盗賊は絶叫した。顔は間違いなく絶世の美人、しかし体つきは見れば見るほど男のものだ。


 困惑したキリルは後ずさった。危険を告げるかのように心臓が早鐘を打っている。

 キリルは自分の生存本能を信じることにしていた。こういった勘が外れたことは、数えられるほどもないのだ。

 もう帰ろう。金目のものは十分手に入った、眠りの姫が実は絶世の美男子だというネタも手に入った、これでしばらくは金に困らないはずだ……。


 ──しかし、退避を許さない者がいた。

 先程の白い小鳥がどこかからヒラリと舞い込み、キリルの視線を惑わすようにチラチラと飛び回ったのだ。


「うわっ、何だよお前、どけよ。邪魔すんな、あたしは帰るぞ!」


 追い払おうとすると、白く光る鳥はますます激しく、キリルの周囲を飛び回った。


「おいやめろ! 危ねえだろうが、こんな狭い部屋で……あっ」


 手を払った拍子に、足が茨に取られて蹴躓いた。

 咄嗟に壁に手をつき、寸でのところで倒れるのは阻止したが、キリルはさあっと顔を青ざめさせた。




 唇が触れたのだ。

 眠る王子の――唇に。




「――……ッ!?」


 驚くべき身体能力でもって、キリルは後ろ宙がえりで飛び退いた。茨の支配するこの狭い部屋で、その動きはまるで軽業師のようでもある。

 夢であれ。夢だと誰か言ってくれ――キリルは刹那の間、何者かに祈った。しかし自分の唇に残る柔らかな感触が、今の出来事は現実だと否応なしに突き付けてくる。ああそうだ、自分は間違いなくこの若者の唇にぶつかったし、そのはずみにちょっとばかり吐息も吹き込んでしまっただろう。


「おいおいおい、どんなミラクルだよ、冗談じゃねえ。坊ちゃんがぐっすりで助かったぜ。バレたらソッコーで死刑モンだ……あ? 何だ、揺れてる?」


 地面が小刻みに振動している。初めは気付くかどうかという程度だったのが、徐々に激しさを増し、窓枠までがたぴしと音を立て始めた。

 キリルの表情が凍りついた。


「まずいぞ……こりゃ大層まずい。接吻キスは魔法解除の定番だ。おいトリてめえ、今のわざとだろ、どう落とし前つけてくれんだよ」


 そこら中から空気が震えるような音が響いてくる。改めて見てみれば、茨は若者が眠る寝台に収束していて、部屋の外から窓の外から、ずるずると物凄い勢いで寝台に吸い込まれていく。茨の量が増えるにつれ地揺れが激しさを増していき、とうとう立っていられなくなったキリルは尻もちをついた。


 ……やがて静かになり、地揺れも治まった。

 茨はすっかり消えた。唐突な静寂にキリルは耳鳴りを覚えた。



 寝台に眠る若者の目が、ふっと開いた。



 静寂の中、キリルは暫し息を忘れて若者に見とれた。

 磨き上げたガラス玉のような淡いブルーの瞳が、透明な光を写し取って世界を眺めている。その瞳を縁どる金色の睫毛が、瞬きに合わせて動くたび、星が煌めく音がするように思えた。

 そしてそのガラス玉は、呆けたまま動かない女盗賊へ向けられた。


「あなたが解いたのか」

「……へぁっ」


 思わずだらしのない声が出、誤魔化すように咳払いをしてキリルは捲し立てた。


「こっ、こりゃあ失礼、殿下の眠りを妨げる気などこれっぽっちもなかったんですがね、何の間違いか起こしてしまったようで、いえいえ、ワタクシはしがない盗ぞ……じゃなくて、まあ卑しい身分でございますが、決してそのお体に危害を加えようなどとは」

「あなたがこの眠りを解いたの?」


 歌うような問いかけが再び発せられた。と思うとその身をがばっと起こして、尻もちをついた姿勢のままのキリルに詰め寄った。


「どうしてこのまじないを解けたんだい? 僕は時が来れば自然と目覚めるはずだったのに」

「おい離しやが……離せくださいよ。言ったろ、起こす気なんざこっちはサラサラなかったんだっつーの! あたしよりその辺飛んでるトリに訊く方がずっと分かると思いますぜ」

「トリ……?」


 ちょうど寝台の傍らへと飛んできた白い小さな鳥に、若者は小首を傾げて見せた。


「そう、コイツっすよ、コイツが無理やりあんたにキスさたんで、呪いが解けちまったってワケで……」


 突然、小鳥がまばゆい光を放った。

 二人が視界を眩ませる向こうで、小鳥はその姿を変えていき、人間の形をかたどった。


「何だコレ……魔法か……?」


 キリルがゆっくりと呟く。光の粒で出来たそれは実体を持たないようで、薄っすらと向こう側の壁が透けて見え、顔が判然としない。

 そのぼやけた唇が開かれたと思うと、幽かな声が紡がれた。


『眠りの王子よ。われらの計画は改めざるを得ぬ事態に至った。急ぎその城を出られよ。十三を数えるわれらのうち、いずれかの元をおとなわれたし』


 それだけ発すると、ふっと塵のように消えてしまった。

 ぽかんと口を開けていたキリルは、ハッと我に返った。


「お、おい、今の何だ? 言うだけ言って消えたぞ、あたしに起こさせといて何の説明もねえだと? ふざけんじゃねえ、おいコラ、戻って来やがれ!」

「今のは魔女の魔法だ。本物はずっと遠いところにいて、“目”や“口”の役割をするんだよ」

「へえそうかい、あんた物知りだなあ……って、何の説明にもなってねえじゃねえか! くそ、厄介なことになる前にあたしはトンズラするぜ、あばよ坊ちゃん」

「待ってくれ、そっちは危険だよ」


 「こうなりゃどこもかしこも危険だろ」と言い返そうとしたキリルは、はたと立ち止まった。眠りのではなかったにせよ、身に着けている品や所作からして、この男は間違いなく、王族だ。その王子から何故「危険」という言葉が飛び出るのか……ふと、キリルの脳裏に渡り廊下の光景がよぎった。


「……そういや、ここに続く道、騎士で埋まってたな。鎧までつけて完全武装キメてたが、まさか城内で練兵なんて訳ねえよな」


 キリルの目が鋭く眇められる。


「あいつらの体はこの塔を目指して倒れてた。この塔へ続くのは見たところ一本道……違いねえか」

「その通りだよ」

「騎士どもの狙いは何だ? 呪いをかけに来た魔女を退治しようってんじゃねえんだろ。さっきの口ぶりからすると、王子あんたと魔女とやらは親しい間柄みてえに見えたが?」

「その話は長くなる。今説明できるのは、僕は狙われているということと、このままだとあなたも巻き込まれることくらいかな」

「ハア……王族って嫌いだよ。つまりはこうだろ?『助かりたけりゃ自分も連れてけ』と」


 王子はにっこりと笑んで、「そう取ってくれても構わないよ」と頷いた。

 キリルは頭を抱えた。丁重にお断りしたいところだが、この笑顔で肯定されては無下に断ることも出来ない。美貌とは何と世にも恐ろしい武器であろうか。


「あのな。あんたを捨て置いて逃げるぐらい、こっちは訳ないんだ。頼む相手を間違えたな」

「そう言わずに。貴女は盗人でしょう? 僕を手助けしてくれたなら、その袋からはみ出ている我が城の値打ち物は見過ごそう」

「なッ……ちゃんと仕舞い込んだはず……!」

「おっと、僕の見間違いだったようだ。安心してくれ、袋はきっちり閉じられているよ」


 王子が悪戯っぽく笑うのだが、これもまたおとぎ話のお姫様かと夢見るほどに美しい。ぎりりと奥歯を鳴らしながら「この坊ちゃんを敵に回すのは良くない」とキリルは判断した。仕方なく荷袋の口を開いて、親指で中を示した。


「この袋は見た目よりずっと中が広くてね。どんな大きさのものも、生き物でも、簡単に持ち運べる魔道具なのさ。さあ王子サマ、この中へ」

「……どうやって」

「いいからつべこべ言わずに入んな」


 およそ一国の王子に言い放っていい口調ではないが、王子はさして気にした風もなく、片足、両足と差し入れ、全身を折りたたんだ。キリルが再び袋の口を手早く閉じると、荷袋は男一人が入っているとは思えない、元の大きさになった。それを斜め掛けに背負って胸の前でベルトを留めると、キリルは窓を開け放った。


「さて、来た道が使えねえんなら、窓から行くしかねえな」

「窓……飛び降りるの? この塔は城で一番高い場所だけれど、平気かい?」


 袋の中から王子が問いかけた。


「心配すんな。あたしは体が丈夫なんだ。……チッ、もたもたしすぎた、追手が来ちまったじゃねえか」


 木の扉の向こうから、慌ただしい足音が届く。外していたフードを元のように目深に被って、出窓によじ登ったちょうどその時、荒々しく扉が開け放たれ、武器の切っ先がキリルに向かって構えられた。


「いつの間に賊が……ここにいた王子はどうした!」

「よっ、おはようさん。何百年ぶりの寝起きのわりに頭シャッキリしてんのな」


 騎士たちは面食らった。キリルはフードの向こうでニヤリと笑った。


「あんたらの王子はこの盗賊様が盗んでやった。名乗ってやる名も見せてやるツラもねえが、まあヨロシク。それじゃ――」


 そう言い捨てるや、キリルは思い切り体を屈ませた。

 そして、窓の縁を、


「あばよ、寝坊助どもッ!」


 ――しなやかな跳躍と共に蹴って、宙へと躍り出た。

 ほんの一瞬、空中で停止を見せ、すぐさま物理法則に従って落下運動に転ずる。だがキリルは全身にかかる重力を、なぶる風を、豪快な笑い声で向かい入れた。


「ひゃーーーっほーーーう! どうだい王子サマよ、あんたにとっちゃ何百年ぶりの娑婆シャバの空気だぜェ! はっはァ!」

「笑っている場合じゃないよ。ねえ、着地はどうするの」

「あんたなあ、飛び降りなんて人生で滅多にあるイベントじゃねえんだから、ちったァ楽しんどけよ。まあ見てな。あたしは魔法こそ使えねえが、その分魔道具はいっぱい持ってんだ」


 遥か下にあった地面がぐんぐん近づく中、キリルはすり切れた外套のボタンをすべてはずした。

 すると次の瞬間、自由落下に従って落ちていた体が、ふわふわと浮遊を始めた。裾の自由になった外套が風を孕んで、キリルを宙に留めている。


「もしかして、飛んでいる?」

「ボロに見えて、この外套コートも魔道具なのさ。このまま町の門外まで出ちまおう」


 キリルは眼下に門を見つけると、そちらの方へふわりと脚を踏み出した。まるで地面を歩くように、風を足場にして空を歩くキリルは、荷袋に向かって呼び掛ける。


「んで? 取り敢えず飛び出して来ちまったが、この後のこと、あんたは何か考えてんのかい」

「あなたと少し話がしたい。聞きたいことも、頼みたいこともある」

「頼みごとねえ……やんごとなき方の思し召しとありゃ、従うっきゃねえだろが」


 空飛ぶ外套はキリルの意に従って城の上を通り抜け、茨の消えた壁を越えた。門も飛び越えてしまうと、キリルは一つずつ外套のボタンを留めていった。一つ留めるごとにどんどん高度が下がって行き、すべて留めてしまうと落下に転じた。


「よ、っと」


 地面を転がって衝撃を流し、難なく着地したキリルは、すっくと立ちあがって襟巻を元のように直した。そして元来た道をずんずん進んで、薄暗い不気味な森へと姿を消した。


 その背後では、茨と眠りから解き放たれた城が、ずんとのしかかるような存在感をもって佇んでいた。

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