さようなら、いばら姫
奥山柚惟
第1話 盗賊キリルと眠りの城
霧の漂う深い森。
すらりと高く背筋を伸ばす木々には苔が生し、下草の少ない地面は湿っている。森の枝葉と深い霧のせいで日光はほとんど差し込まず、時折唸るような風と葉擦れの音も相まって、森の中は不気味な雰囲気で満ちている。
その森の奥、傾斜を上へ上へと登って行けば、木々の間には町の痕跡が見え始め、やがて古い石壁が見えてくる。頑強な壁は無数の巨大な茨に覆われ、
その茨の前で足を止める者があった。薄汚れた外套に荷物を斜めに肩掛けし、背丈ほどもある長い杖を携えている。
襟巻が顎下までずり下げられ、ガサガサに荒れた唇が口笛を吹いた。
「ヒュウ。でっけえ」
太く掠れた声、次いでフードが僅かに持ち上がる。奥から覗く切れ長の黒い目が茨を追って空を見上げ、
「……ぅいっくし」
くしゃみした。あまり上品なくしゃみではない。
くしゃみの主の名はキリル。出立ちや仕草は性別を感じさせないが、女盗賊である。
どこか遠くから響いてきた鳥の鳴き声に、キリルはビクリと肩を震わせた。この森は昔から不吉な地として知られているので、キリルとしては早く引き上げたいところだった。ならば来なければいいだろうという話だが、そうはいかない。
何しろ金がない。糧も底をつきた。それもこれも先日、情報屋にガセネタを掴まされたためである。お返しに何でもいいから有用な情報を寄越せと
キリルもよく知っている。大昔に眠りについたという王国、その城跡だ。
その王国にようやく生まれた赤子を祝うため、名高い十二人の魔女たちが招待されたが、なぜか残る十三人目は招待されなかった。招かれなかった魔女は腹いせに宴会場に乱入し、「生まれた赤子は大人にならずに死ぬ」と呪いをもたらすも、魔女の一人が何とか効力を弱め「死ぬのではなく長い眠りにつく」とした。
そして赤子が成長したある日、紬車の針に触れた途端、ぱったりと倒れて眠り込んでしまい、つられるようにして城全体が眠りに落ち、茨がそれらをすべて覆いつくした……。
読み書きのできない子供でも知るこの「眠りの城」のおとぎ話では、眠った王女は
その話がどうしたとキリルが情報屋に詰め寄ると、胸倉を掴み上げられた彼は脂汗の浮く顔でニヤリと笑った。
『茨に挑んだ男どもがこの数百年でごまんといたワケだが、ってェことは、そいつらの“忘れ物”は手付かずなんじゃねえのかい?』
なるほど、それは盲点だ――そういうわけで、キリルはこの不気味な森を突っ切り山を登り、伝承の元だとされるこの場所までやって来たのである。
「さてさて、“城”なだけあって、流石に塀が高ェな。こりゃ茨がなかったとしても越えられやしねえ。死体も見当たらねえし……ってこたァ、まずは門を探すところからだ」
キリルがひとまず右へ右へと進んでいくと、樹木の根や腐葉土ばかりだった地面に確かな手ごたえを感じた。よく見れば、それは苔に覆われた石畳で、往時は人が通る場所であったことを窺わせる。
「近いな。こっちでアタリか。……お、あれか?」
キリルは見つけたものへと早歩きで歩み寄った。門扉だろうか。棘だらけの茨が絡むそこに、夥しい数の白骨死体が引っ掛かっている。中にはまだ分解されきっていない死体もあり、異臭を放っているが、キリルは顔色一つ変えず品々の物色を始めた。
「おーおー、あの情報屋、いいネタ持ってんじゃん。ざっと見た感じ、こいつは二百年モノに百五十年モノ、こっちは……おやおや、こりゃあたまげた。この剣の紋章、“
剣の鞘に刻まれた紋章を眺め、キリルはニヤリと笑んだ。
「こんなところで死んでたのか。欲深ェこって。どいつもこいつも馬鹿な男どもだ、中にいる姫さんより、目の前のお宝だろ」
低くかすれた野太い声でそう独り言ち、すっかり満悦顔になったキリルは、斜めに肩掛けしていたベルトの留め具を外した。外套と同じく薄汚れた荷袋に負い革が取りつけられ、それを背負っていたのだった。荷袋の紐を解いて口を開いたキリルは、次々と遺品を詰め込み始めた。取り敢えず全部持ち帰り、鑑定は後に回すという算段だ。
ところが、骨の手から指輪を抜き取ろうとしたはずみで、キリルの手が茨に触れてしまった。
(やっべ……)
茨には念のため触れるなよ、ありゃ間違いなく魔術絡みの代物だ──そんな情報屋の言葉がキリルの脳裏をよぎる。咄嗟に品物から手を放し、後ろに跳躍して距離を取ったが、しかし時既に遅し。
茨が生き物のように蠢くのが見える。きっと新たな欲深い獲物を捕えんとしているのだ。走れば逃げ切れるだろうか? 元より足に自信はある、体力もある、いいやしかし相手は実態不明の魔法の茨、本当に逃げ切れるのだろうか。この茨はよもや、地の果てまでも触手を伸ばすのではないか――。
(あー、ロクでもねえ人生だった)
キリルはうねうねと動く茨を前に、観念して目を閉じた。これまでに越えてきた幾つもの死線を思い出して、何とつまらない死に方だろうと嘆いた。こんな死に方をするくらいならもっと安全な仕事を選ぶべきだったのだろうか、いやそもそも盗賊なんて道を選んだ時点で結末は決まっていたのだろうか。
(それにしてもつまらねえ。こいつァあたしらしい死に方じゃねえや)
一通り人生の反省をしたところで、いっちょ足掻いてみようかと、固く閉じた瞼をキリルは開けた。
「……あれェ?」
すっとんきょうな声が上がった。
茨はキリルを捕まえるどころか、左右に広がってぽっかり口を開けていた。それはちょうどキリルが通れるくらいの隙間で、その奥に目を凝らせば、やはり人一人分の広さに通路が出来ている。
「はァ? どういうことだ、来る奴みんな拒絶するんじゃねえのかよ」
不審に思いながらも立ち上がり、及び腰で茨の様子を窺う。
「何だよ、入れってことか? やいイバラ、このあたしを罠にかけようってんじゃねえだろうな」
問いかけにもちろん返事はない。はあと溜息をついたキリルは、先ほど放り投げた荷物をまた背負い、まずは長杖の先っちょでコツンと茨を突っついてみた。
「……な、何ともねえか?」
動きがないのを確かめて、今度は恐る恐る左腕を隙間に差し込んでみた。――動かない。
そろり、と肩まで入れてみた。――やっぱり動かない。
そのまま上半身、片足と入れるが茨はピクリともしない。とうとうキリルの全身が門の向こう側に入ったが、茨はもう動く気配はなかった。
「こりゃあ……更なるお宝を狙ってもいいぞっていうことかい? んじゃあ遠慮なく入っちまおうかね。まずい状況になっちまったら、その時はその時さ」
前向きに考えたキリルは杖を肩に担いで、そのまま茨の作った道を進んで行った。
* * *
城壁の門をくぐると、城へと続く前庭が広がっていた。綺麗に植木や芝の刈られた庭を割るようにして道が続いているが、庭も道も、向こうに
人っ子一人、鳥一羽、虫一匹の気配もない。自分の息使いがやたら近くに感じられて胸が詰まるようだ。キリルの足が段々と早まる。茨が道を開けるままに進むうち、城の入り口まで辿り着いた。
両開きの大きな扉は茨でぴったりと閉じられている。扉の左右では見張りの騎士が立っていたようだが、革鎧を着たまま膝から崩れ落ちたのか、地面にゴロリと転がって動かない。
(白骨化してねえ。まだ温かいだと……?)
「まさかこれ、眠ってるってのか?」
信じられない気持ちでキリルは呟いた。よく考えてみれば、城壁の外の廃墟はほとんど崩れて森に侵食されていたというのに、内部の様子はまるで年月を感じさせない。
「じゃあ何だ、“眠りの城”の話ってのァおとぎ話なんかじゃねえ、事実そのまんまってことか……?」
そう呟いてキリルが扉の方を見やると、茨がまたずるずると動いて、重そうな両扉を開けた。
前向き思考のキリルも、さすがにここまで来ると不信感をあらわにした。
「なあ。どういうつもりだ? 何百年も誰も入れなかったくせに、この女盗賊はホイホイ奥まで招き入れてよ。気味悪いったらありゃしねえ」
やはり誰も答えない。それもそうか、と諦めて嘆息し、キリルは城の中へと足を踏み入れた。
城の中もやはり静まり返っていた。キリルの履いている男物の編み上げ靴が石床を踏むたび、茨がずるずるにょきにょき蠢いて、通れるように道を開けた。いくつもの廊下や部屋を歩き回り、中庭を抜け、階段を上っていく中、至るところに眠りこける者たちが転がっていた。しかし肩を揺すってもあらん限りの力で引っ叩いても、彼らは唸り声一つ上げることはない。眠っているというよりは「時間が止まっている」ようだ、とキリルは思った。
ひと際豪奢な大扉の前で寝こける、警備の騎士と思しき人物を揺さぶるのをやめ、キリルは力いっぱい扉を押し開けた。
ここまでくる間に通った部屋の中でも一番広い場所だ。天井も高く、壁の装飾も凝っている。これは謁見室か玉座の間だろうか。キリルの足元から深紅の絨毯が長く伸び、その先に立派な
(王と王妃ってとこだろうな)
息を詰めて、茨の絡みつく玉座へと忍び足で歩み寄る。近づいても二人が目覚める気配はない。
廊下で倒れている者たちもそうだったが、彼らからは生者の気配がする。口元に耳を近づけると、かすかにだが息がかかる。生きているのだ。ただ眠っているだけなのだ。
(じゃあ……眠る原因になった姫さんはどこにいる?)
広い謁見室を見回すと、視界の隅で何かが横切った。ハッとそちらを見やると、白く透けた──鳥のようなもの、それがひらひらと誘うように宙を舞っている。
小鳥は広間を横切り、西側の扉の前でヒラリと止まった。
「あ? 何だよお前。そこ開けろって?」
宙に滞空したまま小鳥は頷くように羽ばたいた。
催促されるがままに大扉を引き開けたキリルは、ひゅうっと息を呑んだ。
石造りの渡り廊下、その一面に、革の鎧を着た騎士が倒れ伏している。
「あ……ああそうか、眠ってんだな。脅かすなよ、こちとら盗賊だぜ、一国の騎士団なんてのは一応敵なんだよ。……って、まさか向こうへ行けってのか?」
小鳥がまるで先導するかのように、ヒラリと先へ進んだところで、また止まってキリルの方を振り向いた。こちらへ来いとでも言っているかのようだ。
「いやいやいや。待てって。何してんだあたしは、もう十分大漁だろ? さっさとお宝だけ持って帰ろうぜ」
キリルも内心では分かっている。この奥には恐らく、呪いの元凶となった姫がいる。何故かそこへ自分は招かれている……らしい。
果たしてそれをしてもいいものか。卑しい身の、手癖の悪い女盗賊が?
「やっぱ帰るわ。こいつらがうっかり起きちまったら、盗人のあたしは即座にお縄だ。――おい、帰るっつってんだろ、そんなパタパタされても行かねえからな!」
キリルが回れ右しようとしたのを見てか、慌てたように小鳥が激しく羽ばたきを繰り返した。あまりに悲痛な訴えにも見えたので、キリルはとうとう根負けして片手を上げた。
「……はいはい、分かったよ、めんどくせえ。ここまで来たら姫さんの美貌拝んでやろうじゃねえの」
半ば自棄になったキリルは、扉をくぐり、渡り廊下へと小鳥を追って行った。
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