さよなら風たちの日々 第7章ー1 (連載18)

狩野晃翔《かのうこうしょう》

さよなら風たちの日々 第7章ー1 (連載18)       


              【1】

 師走がまたたく間に過ぎて、新しい年になった。ぼくは無事高校を卒業したのだけれど、複数の大学の複数の学部受験はことごとく失敗した。つまり一浪してしまったというわけだ。

 時はいつだって駆け足で通り過ぎる。それに気づかないふりをしていても、いつの間にか重ねてしまった虚無という名の月日は、どう取り返しのない現実として、ぼくの前に立ちはだかっている。

「人間は何度も失敗する生き物だ。しかし何度だってやり直せるのも人間なんだ」

 父の温かい言葉だった。

「人間の寿命は、大体八十年、九十年だ。その八十年、九十年からみれば、たった一年の辛抱なんて、あっという間なんだ。それが我慢できなくてどうする」

 父はそう言ってぼくを慰め、励ましてくれた。けれどもぼくは、声を大にして叫びたかった。齢を重ねてからの十年、二十年よりは、今現在の一年間の方がぼくにとっては何十倍も長く、重要であると。


 ヒロミに片思いし、結局失恋した信二はあっさりと、埼玉県草加市にある松原国際大学外国語学部に合格した。もう彼にはあのときの恋の痛手などなく、まさに今、青春を謳歌していた。

 ぼくといえば、千代田区内にある予備校の受講生という身分だった。一流大学錬成コースの午前の部だったから、午後は身体が空く。ぼくは余程のことがない限り午後は家に戻り、勉強したり、自分の好きなことをして時間を過ごしていた。

 

 六月。梅雨になる前の、つかの間の青空。陽の光がビルの窓ガラスで乱反射している。そのビルの谷間を、すがすがしい風が通り抜けていく。無機質なはずのビル街。そこに植えられた忘れ形見のような街路樹からスズメが何羽か、何かに追われるように飛び立っていき、ビルの陰に隠れる。

 ぼくはぼんやりとお茶の水にある聖橋から、神田川を見ていた。

 眼下の水面に、ゴミを満載したはしけ船がゆっくり航行している。そのはしけの船頭らしき男性が、デッキでのんびりタバコをくゆらしている。

 のどかな午後。さわやかな午後。こんなとき、オートバイで大自然の中を走りまわったらどんなに気持ちいいだろう。そんな思いがふと、脳裏をよぎった。

 でもダメだ。と、ぼくはその思いを払拭する。オートバイで走ることを考えたはダメだ。今はまず、大学に進学することが優先だ。

 

 お茶の水、水道橋界隈には有名大学が多い。代表的なものは、明治大学の商学部、法学部。日大の理工学部、法学部、経済学部。そして電機大学、専修大学などだ。

 ぼくは予備校の帰り、それらの大学の前に寄り道し、門の外から中を覗いては、来年こそきっと、この門をくぐってみせると思うのだった。


               【2】


 ヒロミは去年の11月、上野恩賜公園でデートして以降、帰りにぼくを待ち伏せすることははなかった。放課後、屋上からぼくを見ていることもなかった。学校ではときおりその姿を見かけるのだが、ぼくに気づくとヒロミは表情を強張らせたまま会釈し、そして逃げるように、小走りで駆けていくのだった。

 ぼくはこのことで、ヒロミとの関係は終わってと思っていた。

 しかしそれは実は、新しいステージの序章にしか過ぎなかったのだ。


 ある土曜日の午後。ぼくは予備校から家に帰ると、パンと牛乳で軽い食事を済ませ、二階にある自分の部屋に入った。ステレオの電源を入れ、プレイヤーにLPレコードを載せる。トーンアームをレコード盤の上に動かすと、自動的にターンテーブルが回り出す。プレイボタンを押すとアームが静かにレコード盤の上に降り、針がレコード盤の溝をトレースする。やがてスピーカーからぼくの好きなブリティッシュロックが流れてくる。バスもトレブルもほぼフラットの位置で、ボリュームも小さめだ。

 この音楽鑑賞が浪人生活をしているぼくの、数少ない至福の時間だった。

 

 やがて階下から音がした。玄関のチャイムが鳴ったのだ。しかしその鳴り方はずいぶん遠慮勝ちだった。最初の音と次の音の間隔が、少し長かったからだ。

 誰だろう。郵便屋さんだろうか。何かの訪問販売だろうか。それとも近所の人が、回覧板を持ってきたのだろうか。

 そのときぼくの脳裏に、ある不愉快な記憶がよみがえってきた。そのとき、不用意に開けたドアの向こう側に立っていたのは、新聞拡張団の男だった。年齢は二十代後半くらいで、Gパンにラフなシャツを着ていて、ぼくを高校生だとを思ったのだろうか。言葉遣いがまずぞんざいだった。

 国内最大の発行部数を誇るその新聞の拡張団員は、ぼくにしつこく新聞の購読を迫った。ぼくがやっとの思いでそれを断ると、なんとその拡張団員は「このクソガキが」と捨て台詞を吐いて去っていったのだった。

 口惜しさがこみあげてきた。怒りもわいてきた。

 ぼくはそのとき生涯、死んでもその新聞を購読するまい、そして絶対その野球チームを応援しまいと心に誓うのだった。

 その数か月後、またうっかりドアを開けてしまうと、今度は別の新聞専売店の人が立っていた。その専売店の人は普段は朝夕刊の配達をしていて、それ以外の時間に集金や営業をしている人だった。

 言葉遣いは丁寧で、対応がうまかった。さらに腰も低くて、温厚そうな人だったので、ぼくはその専売店の人に前回の不愉快な出来事の顛末を話した。

 するとその人は別な新聞拡張団の話なのに、自分のことのようにぼくに謝罪してくれたのだ。

「すみませんでしたね。不快な思いをさせてしまって」

 そして切り出された。

「うちの新聞どうですか。三か月でいいんですけど」

 そうしてぼくは少ないお小遣いの中から、その新聞の購読料を三か月も払い続ける羽目になってしまったのだった。

 それ以来ぼくは土曜の午後、家にひとりでいるとき、突然のチャイムには慎重になっていた。

「はい、今行きます」

 外に聞こえるような大きな声でぼくは言い、階段を下りて玄関のドアスコープを覗いた。郵便や荷物の配達ならその服装で分かるし、見知らぬ人ならインターフォンで用件を訊き、断ればいいのだ。




 しかしそこに立っていたのは見知らぬ人ではなかった。

 ヒロミだ。あのヒロミが立っていたのだ。




                           《この物語 続きます》








 



 

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