彼女が彼を食べた理由
@munyamunya
無人島での記録
女性は今日、足を食べた。木を組んで作った簡易的な机で、大きい岩に腰掛けて、砂の暑さで足裏が焼けるのを気に留めず、波風が髪を攫おうとするのは手で押さえながら、女性は男性の太腿を食べた。
筋肉質で歯応えのある肉。体育会系の人だったのかもしれない。しかし、噛み切れないほど硬くは無く、ほどよい柔らかさをしていた。男性は三十代に差し掛かった頃ではないかと女性は予想した。加齢に加えて、近年は運動も不足していたのだろう。だから、筋肉と脂肪が丁度いい塩梅になっているのではないか。
一噛みする毎に、この名前も知らない男性との距離が縮まっているような気がした。まるで言葉を交わしているよう。食べ進めるうちに、女性は対面の席に映る男性のシルエットが、確かになっていくことを感じた。最初は朧げな影であった。それが女性の咀嚼により鮮明になっていく。女性が男性を理解するにつれて、どんどんと陰影がつき、表情がつき、終いには質量を持った存在として、向かい合って座っているように見えた。その頃になると女性の頭から食事をしているという意識は消えていた。口は動かしているものの、それは食べるためではなく、もっぱら会話をするためにであった。少なくとも女性の意識ではそうであった。
「ご馳走様」
女性は彼の足を食べ終えると島の中央部の林に向かった。簡易的に作った寝床にまで辿り着き、近くの幹に背中を預けて座った。少し喋りすぎてしまったかもしれない。お腹をさすれば分かるが、胃のあたりが少し出っ張っている。女性は反省した。
だらんと片腕を力無く地面に転がす。丁度日向に指が伸び、じんわりとした熱が伝わってくる。両手で包まれているような暖かさだ。暫くはそこに落ち着けていたが、暖かさから熱さへと感覚が変わっていくと、また違う場所を求めて腕を動かした。すると、ぶにょ、という感触に行きあたる。石や枯葉とは違うその感触に女性は目を向けた。そこには皮が転がっていた。裏側からはまだ血が染み出している。それは女性が先ほど剥いだものだった。
毛むくじゃらの足だった。砂漠のような肌に、もずくのような毛が散在している。他の動物とはまるで違うその醜悪な見た目に、貴重な食料を無駄にすると知りながら、全て剥ぎ取ってしまったのを思い出した。その後、一時の嫌悪感に任せて自分の肌までも手に持ったままのカッターで切り取ろうとしたことも思い出した。二の腕に刃を当てて薄く切り込みを入れた時の染み入るような痛みで思いとどまったのだが。あの時、動物としての人間の奇怪さに女性は冷え冷えとしたのだった。しかし改めて見てみると、女性にはそれがどうしようもなく愛おしいもののように見えた。自然に囲まれた阻害感だらけのこの島で唯一、人間味を感じさせてくれるものに感じられた。今すぐにでもそれに頬擦りをしたい欲求が湧き上がってくる。木陰に保管してある残りの胴体、頭部にも抱きつきたい衝動に駆られた。けれど、愛着を感じたと同時に生まれたもう一つの蟠りがそれを許さなかった。食べずに今まで捨て置いていたことに対する後ろめたさが直接的なものだった。後ろ支えには食人に対して抱いていた忌避感も発見できた。男性が、足の肉を剥き出しにした男性が、こちらを見つめている。女性はそんな妄想に襲われた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……夜には、夜には絶対食べるから……」
両手で足の皮を掲げて、許しを乞うように女性は頭を下げ続けた。人肌の裏からは赤い涙が滴った。
◇ ◇ ◇
女性はある島へ向かうため連絡船に乗っていた。大学生になって初めての一人旅。好きなところを気ままに巡れることに胸を躍らせていた。そんな最中、穏やかだった天候が急に荒れた。空は落ちてきそうなほど重い雲に覆われる。暗く澱んだ灰色にゴロゴロと稲光が見えた。雨は横薙ぎに打ちつけ、風で船体が軋む。海には白波が立ち、窓にまで飛沫が上った。
船体の揺れで周りの人が転び、転がされていく。女性は幸運にも柱に近い位置にいたため、しがみついて耐えることが出来た。床に転がる人たちには、肌のあちこちにぶつけたであろう赤い痕が見えた。首から上の力が無くなり、頭を跨げて気絶している者もいた。その人たちは物と一緒になって床上を滑る。巻き込まれてしまった人たちはそれらの仲間入りをした。見ていられなくなった女性は窓の外に目を向け、遠くに大きな波を見た。あっ、と思った時には影はこちらを呑み込むほど大きくなり、船は海の藻屑と消えた。
一日後、海は平静を保っていた。船一隻をその胃に収めたとは思えないほど穏やかであった。
女性は見知らぬ島に立ち、呆然と晴れた空を見ていた。まるで夢を見ているかのようだった。船が転覆した時、自分は何とか柱に捕まり、この陸地まで流されてくることができた。この一連の非現実な体験が女性から現実を遠ざけていた。
女性はお腹の音で、今自分がここにいることを自覚した。何か食べなくてはいけない。背負っていたリュックサックを漁る。しかし、食べ物は何も入っていなかった。あるのは財布と着替えとカッターだけ。食べるものがないとわかればこんなものはゴミ同然であった。乱雑に投げ捨てると、生理的な欲求に従って、ふらふらと、幽鬼のような足取りで食料探しに出かけた。
女性は島を一周回ったが、食べられそうなものを見つけられなかった。生理的な欲求に従っているが故に、野草などを受け付けられなかったのだ。匂いがダメ、苦い、等、短絡的な情動に従ってしまっていた。食べなければ死ぬ、と訴える役目を持つ理性はまるで働いていなかった。仕方なく海岸へと戻ったが、そこでも魚や貝、海藻は獲れなかった。そもそも海にすら入れなかった。海底の砂地が見えるほど透き通り、水面では陽の光を反射してキラキラと光る、絵に描いたように綺麗な海であったが、いつ黒々とした外敵に変貌してこちらに牙を剥いてくるのか分からない、そんなことを考えていたら、足を踏み出せなくなってしまったのだ。波が足にかかるのでさえ、食指を伸ばしてきているようで恐ろしかった。
他に何かないか、状況の変化を求めて女性は歩いた。海岸線に沿って島をぐるっと回る。半周ほど歩いたかと思うところで、砂浜に倒れ伏した人影を発見した。
人間だ。女性は走り寄った。お腹が空いた、といった動物的な欲求を忘れ、社会的な欲求に従って走った。先程まではあった海への恐れも頭から消えていた。
倒れていたのは男性だった。下半身が海水に使ってしまっている。女性は引きずり揚げようと男性の肩を担いだ。触れて分かる。男性の身体は驚くほど冷たかった。芯まで冷え切ってしまっている。もう生きていないのではないかという不安が女性の脳裏をよぎった。途端に今担いでいるものが単なる物に思えてきて、投げ出したくなった。
結局、女性は男性の体を引き上げた。投げ出せるほど軽く無かったのだ。担いでいた時から薄々気づいていたことだが、男性に息はなかった。私は何をしているのだろう、と女性はその場にへたり込んだ。食料でも何でもないものを、海にまで入って引き揚げて。女性は徒労感に任せて砂地に身を投げ出した。日光に温められた砂は優しく女性を迎えた。母親に抱きかかえられているような暖かさに、漂着してから初めて女性は落ち着いた。横を見ると、男性の身体も同じように仰向けだった。もし、ヘリコプターや飛行機で上から見たら、死体が二つ転がっているように見えるのだろうなと思い、それも悪くないかと考えた。この優しさに包まれて眠るように死んでいくのだ。女性が緩やかに死を受け入れ始めた時、それに待ったをかけるかのようなタイミングで腹の虫が鳴いた。
飢餓感は強烈だった。脱力した体は機敏に起き上がり、食料を求めて再び目をぎらつかせた。空腹を紛らわせるために自分の爪や皮でも食べるか、とまでも考え、実際に日焼けして剥けた皮を口に入れた。薄いけれども噛み応えがある。塩味も効いていて悪くなかった。今度はもう少し厚い皮でも、と爪を伸ばした時、ふと、転がっている男性が目に入った。
初日は腕だった。
女性は最初、皮だけを食べるつもりであった。爪で剥がそうと試みるものの、辛うじて表皮を薄く傷つける程度。仕方なく直接齧り付くことにした。鶏皮が剥がれるように、皮膚が肉から断絶していく。薄い皮であればいいのだが、皮膚に少しでも肉がくっついて取れてしまうと、ぶよぶよと肉の味がして気持ちが悪かった。そういうものは適宜吐き出した。
皮膚を啄んで、千切る。肉も一緒に剥がれてきたものは、近くに吐き出す。それを繰り返して肩の辺りまで食べ進めた。改めて男性を見てみる。皮を剥いだ右腕だけ、昔に理科室で見た人体模型のものが継ぎ足されているようだった。しかし、デフォルメはされていない。滑り気を帯びた赤い肉。血溜まりの斑点があちこちにある。静脈は少し青みがかっていた。ああ、私は人を食べたのだ。女性は今更になって自覚した。腹が膨れたことにより理性が帰って来たのだ。胸の奥から根源的な嫌悪感が迫り上がる。体からは落ち着きがなくなり、足は地面を叩き、手は髪を強く掴んだ。身悶える。腹の底から叫びたかった。だが、口を開けて出て来たのは、げえっ、という胃の中の空気が押し出されて粘膜を震わせる汚い音だけ。酸っぱい匂いのする息であった。吐瀉の香りだ。女性が意識すると、胃の中の海が唸りを上げた。喉元まで焼けるような熱さを持つ液体が迫って来る。吐くのも時間の問題と考えられた。しかし、女性は吐けなかった。ぐっと堪えて飲み込んでしまった。これも理性のためだ。理性は、生理的な反応に逆らい、貴重な栄養源を逃してしまうことを拒んだ。再び胃に液体が充満する。白波が立つかと思いきや、穏やかな水面が広がった。そして、もう荒れることはなかった。胃の治りに合わせて、手足を操っていた衝動も治った。
女性は乱してしまった髪を整えた。不思議と冷静だった。自分の皮を食べたんだから、人のを食べても同じではないのか。しかも、その男性を海から引き揚げたのは私だ。漁師が海から魚を獲るように、私も海から男性を獲っただけのことだ。犯してしまった禁忌を正当化するため、女性の頭の中ではそのような論理が急ピッチで組み上げられていた。
女性は完成した突貫工事の論理で世界を眺めてみた。殆ど景色は変わらない。夕暮れ時になり茜色が混じり始めた空に、相変わらず表面上は穏やかな海。後方には小さな林もある。変わったのは男性の見方だけ。今の女性の目には、男性が食料としてしか映っていなかった。この時既に、女性は男性の肉まで食べる心算であった。皮という人間の一部分を食べたのだから、人間の一部としては同じである肉を食べても今更問題はないだろう、という判断である。その日の夜は余った右腕の肉と、昼には吐き捨ててしまったものを、焼いて食べた。
二日目は左腕を食べた。食料の解体もその日にした。男性の胃腸とその周辺が腐敗していたためだ。女性はカッターや鋭利な石を用いて、細い腕を震わせながら、四肢と胴体、頭部に分けた。そして、腐ってしまった胴体の部分は潮が引いたのを見計らって砂浜に捧げた。夜に確認してみると黒い海しか見えなかった。予想通り海が食べてくれたことに、女性は安心した。神様に供物を捧げたような心持ちであった。
二日目も夕食の時間となると、女性は男性のことが気になり始めた。昨日、今日と同じものを続けて食しているため、その食材の産地や製造情報を知りたくなったのだ。けれど、免許書や保険証といった分かりやすいラベルは残念ながら見当たらなかった。女性は味で判断することにした。ただ、この日分かったのは、筋肉質な男性、とだけだった。
木に寄りかかって休んでいる時である。女性はこの島に立ってから二度目の、猛烈な吐き気に襲われた。
不幸だったのは産地情報を気にしてしまったが故に、今一度、食べているものを人間だと認識してしまったことである。休んでいる最中に、あの男性はジムにでも通ってたのかしら、という思考がよぎってしまい、それが綻びとなって、昨日組み上げた脆い論理を自壊させてしまったのである。
下を向いたら吐いてしまう。女性は仰向けに寝転んだ。うぇっ、うぇっ、と酸の香りがきつい息を吐く。げっぷと一緒に、食べた肉片が口に戻ってきた。小さな、ほんの小さな肉片である。しかし、女性にはそれが男性の野太い腕のように思えた。男性が、男性の腕が私の体から這い出てこようとしている。放っておいたらいつか歯を掴まれ、口を開かせられる。細い喉を太い腕が強引に通って、開いた扉から出てきてしまう。女性はそのような妄想に襲われた。これは食料だ、これは食料だ。女性は頭の中で何度も繰り返した。繰り返す内に、どんどんと体が沈んでいくような感覚がした。元々高かった星空が、さらに遠ざかっていく。あぶくのように呪文を漏らしながら、水底へと落ちていくようにして、女性は眠りについた。最悪の就寝だった。
そして三日目。女性は足を食べた。
起きたら幾分か気分が良くなっていた。女性は男性との戦いに勝ったのである。けれど、傷も大きかった。突貫工事で築いた論理は、跡形もなく崩れ去ってしまっていた。女性は、朝食にと男性の元へ向かったが、視界に収めただけで胃の中の腕がまた暴れ出しそうになったので、踵を返したのだった。そして、昼になるまで島を散策した。
昼になって女性は男性の元へと戻って来た。食べられそうなものが無かったのである。そして、これは食料だと自分に言い聞かせながらカッターで足を捌いた。その途中で足の皮を投げ捨ててしまったのは、食料と強く意識していたためである。食料としてみるには、あまりにも皮が奇怪だったのだ。
机があり、椅子がある。これだけのことなのに妙に落ち着いた。机を囲み人と話をする、といった文化的な慣習が蘇ったのだ。だからだろうか、女性は向かいの空いている席に男性を幻視できた。勿論、初めから綺麗な像を結べたわけではない。初めはシルエット程度のもので、風に吹かれれば容易く消えてしまうようなものでもあった。しかし、この島で過ごした期間ずっと一人だった女性にとっては、そのシルエットですら縋りつきたくなるものに映った。
影は男性を食べることで鮮明になっていった。男性の情報が女性に取り込まれるごとに、影でしかなかった男性がしっかりと姿をもっていくのだ。女性にはそう見えた。まるでお見合いのようだと女性は思った。初めは不確かな相手の像が、話していく内に確かなものへとなっていく。大抵の場合は人間の皮に包まれて、目に見えない形で行われてしまっているそれを、私は今、直に見ることが出来ているのだ。人間相手では物理的に阻まれて叶わない、心と心の深い交流を、女性は、男性の肉を仲人にすることで達成しているような気持ちでいた。もっと知りたい、もっと彼の情報が欲しい。寂しさを埋めるように、女性は熱心に語りかけるのであった。
男性を食べる日々が続き、女性は寂しさを忘れていった。むしろ、今までの人生においては感じたことのない充足感までもを味わっていた。何しろ男性を食べるごとに、性交などよりも深いところで彼と繋がれるのだから。一時的ではなく永久に。今では伴侶に感じるのと同種の愛情を女性は男性に向けていた。
女性はこの日、男性の頭を食べていた。右半分を食べていた。これを食べ終えれば男性と真に一つになれると信じて。昼のうちに右側は完食できた。残すは左だけ。今夜には一つになりましょう、と唇を合わせて、寝床へと頭蓋を持っていった。そのまま女性は横になったのだが、すぐ後には立ち上がっていた。最近、食べては寝ての繰り返しだったので、お腹周りが気になっていたのだ。彼と一緒になるのにこれではいけない。彼は運動が好きなのだから、だらしない私では駄目だ。内なる声に突き動かされて、女性は島の周りを歩いた。
半周ほど歩いたところで女性は沖から近づいてくる影を見つけた。船だった。向こうもこちらに気づいたようで、船を寄せてくる。浅瀬の方まで入ってくると、そこからはボートに乗って数人がやってきた。ようやく助けが来た、と女性は安堵した。いくら幸せを感じているとは言え、それでお腹が膨れるわけではない。明日からの食料は間近に迫った困難だった。加えて、男性と添い遂げるのには、彼と出会った思い出の場所とはいえ、やはりこの島では不便だとも思っていた。
救助に訪れた男性たちは急いで女性をボートに乗せようとした。しかし、女性はそれを拒んだ。そして、取ってきたいものがあると伝えると、寝床へと走っていった。
寝床に戻った女性はまずリュックサックを背負った。そして、両手で包み込むように男性の頭を抱える。落とさないように、慎重に、ボートの方へと歩いていった。
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