結
私の声は冬くんには届かない。
信頼関係が壊れてるから、全ての言葉が伝わらない。
ゆうくんと浮気していた時は、冬くんを裏切っているという背徳感で、気持ち良くなっていた。
そのドロドロとした黒い快感は新鮮で、馬鹿みたいに浸って啜って、夢中になっていた。
冬くんが居なくなって、ぽっかりと開いた心の隙間を満たすように。
ビデオの中の私は、冬くんを傷つけるようなことをたくさん言っていた。
ゆうくんに合わせて吐き出した言葉に真実はなく、ただ気持ち良くなろうと適当に言っただけのものだったけれど、その全てを冬くんに聞かれてしまった。
私がその場で適当に言った言葉は、何よりも鋭い刃となって冬くんを傷つけてしまった。
必死に嘘だと伝えた。
でも、伝わらない。
信頼が無くなってしまったから、私の言葉は信用されない。
私は信頼を取り戻す為に、今日も冬くんの家の庭で座って待ち続ける。
私が本当に冬くんを好きだという事を、時間と態度で証明しなければならない。
今の私にできることは、もうそれくらいしかない。
★
「さっさと消えろよ、地縛霊が」
「…………」
自覚はしているけど、通報されるまではてこでも動くつもりはなかった。
「だったらあのビデオ、警察に提出すればいいじゃない」
私は、雄大に最大限の苦痛を与えて殺害した動画を茉莉花に渡している。勿論、冬くんに見せるように言って渡したものだが、茉莉花も目を通しているに違いない。
警察に捕まれば懲役百八十日以上は確定だろう。辛いけど、それで冬くんの溜飲が少しでも下がるなら嬉しい。
「実験棟で殺した所で捕まる訳ねーだろ」
「……話にならない。あれに映ってるのは私の浮気相手って言ったよね? ちゃんと冬くんに見せた?」
「あんなもん、ダーリンに見せられるかよ」
「……見せてよ。冬くんに信じてもらう為に、一生懸命ゆうくんを苦しめて殺したんだから……」
「やっぱイカれてんな、お前。オレの母親と同じくらい自己中だ」
「ほっといて」
そう言うと、茉莉花はそれ以上私に話しかけることはやめて、家の中に戻っていった。
毎日のように玄関の傍で座り込んでる私を見て悪態をつくが、茉莉花は何故か無理やりに私を追い出したりはしなかった。
私はお家から持って来た手作りのアルバムを開く。
三冊あるそれは、私の大切な宝物で、冬くんとの大切な思い出の写真がたくさん収まっているのだ。
一枚目の写真を見るだけで目頭が熱くなって、涙が溢れてくる。
冬くんの笑顔、もう写真の中でしか見れない。
私は今日も震えながら、トイレの時以外は一日中そこで冬くんを待ち続けた。
冬くんの家が暗くなってから暫くして、私はようやく自宅に帰る。
そんな贖罪の日々だった。
★
一週間に一回ぐらいの頻度で、おめかしした茉莉花と、冬くんが家から出てくる。
絶対に冬くんに合う筈がないと思っていた茉莉花は、存外冬くんと上手くやっていた。
今日もデートに行くらしい。
「いってらっしゃい」
私は精いっぱい笑顔を浮かべて冬くんを送り出す。
冬くんは私を横目で確かめると、そのまま何も言わずに茉莉花と共に外に出た。
ほんの少しだけ、新婚のお嫁さんの気分に浸れて嬉しかった。
二人がこれからデートだと考えると、暗い気分になるけど。
「苦しまなくちゃ……たくさん」
冬くんを苦しめてしまった分の何倍も苦しむ。
それが私にできる贖罪の一つ。
その日、深夜まで待っていたけど冬くん達は家に帰ってこなかった。
絵描きと聞くとどうしてもインドアなイメージがあるが、冬くんは良い絵を書く為に色々な所に出掛けて、写真を撮りに行く事が多かった。
そのついでに旅館なんかに止まってゆっくりしたするのも大好きで、よくそうしていた。
良い景色を眺めてのんびり過ごしながら、時折写真を撮って、夜に出歩いて星空を眺めて、写真に収めて、最後、旅館に戻った私達は――
想像するだけで胸が苦しくなる。
今頃、冬くんは茉莉花と肌を重ねているのだろうか。
私は頭を振って嫌な考えを霧散させる。
茉莉花は言葉遣いが荒いし、そもそも出会ってからそんなに時間が経っていない。
いくら何でも、まだそういうことはしない筈だ。
でも、このまま二人で一緒にいたら、いずれそうなるのも時間の問題なのではないだろうか。
体の芯が凍り付くような悪寒。込み上げる吐き気。必死に押さえる。
私はアルバムを力強く抱きかかえ、星空を眺めて涙を零した。
毎日、毎日、毎日、毎日、こうして後悔の日々を送る。
どこまでも自己中心的で、自己満足でしかない、私が私に与える罰。
★
冬が過ぎ去り、春が来て、夏が来て、秋が来て、もう一度冬が来た。
恐ろしく目障りな筈なのに茉莉花は悪態をつくだけで私を追い出そうとはせず、そして私が警察に捕まる事も無かった。
私はずっと玄関の傍に居座り続け、冬くんに「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」を言い続けた。
冬くんは何も言わずに私を無視するけれど、時折視線を寄越す時があって、それが唯一の幸せだった。
いつも冬くんの家の前に行く時、私は顔を洗って最低限身だしなみを整えていく。
鏡に映る自分は、一年で随分と様変わりしてしまっていた。
唇は水気を失ってカサカサにひび割れ、冬くんがよく梳いてくれた自慢の髪はぼさぼさで、頬は痩せこけてやつれて、かつて誇るべきだった容姿は見る影もない。
今日も机の上にあるアルバムを持ち出して、隣の冬くんの家へと向かった。
たった一年で、私の宝物である三冊のアルバムはぼろぼろになっていた。
どれだけ頑張って止めようとしても手が震えてしまうし、堪えようとしても涙が勝手に溢れて汚してしまったのだ。
毎日のように冬くんとの思い出を思い起こしながら、私は絶望の日々を送る。
アルバムは三冊。
正確には三冊目が埋まっていないので、二冊と四分の三くらいだろうか。
一年も経ったのに、三冊目はいつまで経っても埋まらない。
冬くんとの思い出が増えないから。
今の私はもう、過去の思い出を消費するしかない。
新しく、冬くんとの思い出を作ることができない。
絶望に押し潰されてしまいそうな日々だった。
でも、耐えなきゃ。
私が冬くんに与えた絶望は、今の比ではないのだから。
★
『お母さん、大丈夫?』
私はある日、知らない少女に話しかけられた。
どこか私に似たような見た目で、雰囲気は冬くんに似ているような気がする。
『……
知らない筈なのに、私は少女の名前を知っていた。
『大丈夫だよ。お母さん。
きっといつか、お父さんは許してくれる』
どことなく、彼女の輪郭がぼやけているように見えて、私は頬に触れてその存在を確かめる。
『お母さんの手、温かい……』
晴果はきっと私の娘なのだと、本能でそう感じた。
優しい娘は、弱っている私を励ましに来てくれたのかもしれない。
『ごめんね、晴果……ありがとう……』
座り込んでいる私を晴果は抱きしめて、その小さな手で頭を撫でてくれた。
温かくて、涙が溢れる。
『お母さん、大好き……!』
最後に照れくさそうに笑いながら、晴果はその姿を光に変えていった。
私の手から、零れ落ちて行く。
『待って――』
縋るように、つんのめる。
「
「誰だよ、
冷静な声。
声の主を探す。見知った女がそこにいた。
「ここ、どこ……?」
茉莉花を見つけた私は、次いで状況を把握しようと辺りに視線を巡らせた。
「てめぇの不貞現場だよ。少し埃っぽいけど我慢しろ」
私は、私が不貞行為をした冬くんと私の寝室で寝かされていた。
状況を認識した途端、身体が重くなった気がした。
「庭先にぶっ倒れてたんだよ、お前は。本当に迷惑な奴だな。家族も不在だしよ」
そう言われて、私は初めて症状の重さを認識した。
込み上げる咳と、意識が朦朧とするような頭痛、高熱。何故気付かなかったのだろう。
「歩けるなら病院行け、車呼んでやるから」
「大丈夫……家で休むから……」
茉莉花は面倒くさそうな態度で接するが、面倒見は良かった。
いつの間にか服も取り替えてくれたらしい。
これ以上、ここで迷惑を掛けるわけにはいかないと、私は冬くんの家を出ようとする。
思考が定まらず、身体が思うように動かなくて倒れ込む。
「それみろ」
茉莉花が私に肩を貸してくれ、強引に持ち上げる。
結局、医療施設行きの車を呼ばれ、私はその車に押し込まれた。
「つーか、いい加減ダーリンを悲しませんのやめろ。
自殺するか、新しい男でも見つけろ」
「…………ごめんなさい。でも……例え壁越しでも、冬くんの傍に居たいの……」
私を責めるような口調の割に、悲しそうな表情をしていた茉莉花は、朧げな意識だったのにも関わらず強く記憶に残った。
そして、冬くんが悲しんでいてくれていると聞いて、ダメだと思いつつも嬉しくなってしまう。
★
ある日、茉莉花から子供が出来たのだと聞かされた。
その時の絶望は筆舌にし難く、私は嘘だと彼女に詰め寄った。
しかし、茉莉花のお腹は僅かに膨らんでいて、本当のことなのだと悟った。
「もう諦めろや……ダーリンが言ったように、前を向いて適当に生きろよ」
「いやだ……絶対にいや……もっと……苦しまなきゃ……」
「もういいだろ、別に。十分苦しんだって、お前は……」
ボロボロのアルバムを胸に抱いて、困った表情の茉莉花の前で、ひたすらに泣きじゃくる。
冬くんの子供を産みたかった。
晴果を産んであげたかった。
叶わなかった。
全て私の自業自得で、因果応報。
たった一度の過ちが、全てを終わらせることもあるのだ。
夢の中で出会った少女、晴果。
私の娘が、消えていく感覚がした。
「うっ……げぇっ……う”っ、うぇぇぇっ」
「おいおい、大丈夫かよ……まったく、世話の焼ける……」
ガクガクと、笑えるくらいに身体の震えが止まらなかった。
茉莉花に背中を擦られながら、胃液を吐き出す。
荒い息を落ち着かせようとしても、整わない。
血の混じった胃液を吐いて、私は意識を失いかける。
次に目が覚めたのは、自室のベッドの上だった。
「お粥作ったから、食え」
そう言って茉莉花は目が覚めた私にお粥を捻じ込む。
食欲がないと首を振って拒絶したが、ダメだった。
「てめぇさっき胃液と血しか吐いてねーじゃねーか! ちゃんと飯食ってからストーキングしろよ!」
なにそれ、意味分からない。
泣き笑いを浮かべながら、私はされるがまま、お粥を食べさせられた。
市販の薬も白湯で飲ませられ、そのままベッドに寝かせられる。
「じゃあな。お大事に」
そう言って茉莉花は部屋を去っていった。
冬くんではないけれど、久々に誰かに優しくされて、私は密かに涙を零した。
茉莉花の優しさ、温かい心に救われた気持ち、冬くんの初めての子供を奪われたという絶望。
枕が涙と鼻水で濡れるのも構わずに、その日は一日中、感情がぐちゃぐちゃに混ざり合った涙を流し続けた。
★
目を覚ました私は、近くに人の気配を感じて目だけを動かして周囲を探る。
「冬くん……?」
「おはよう、晴怜」
これは夢か、幻か。分からない。
愛おしい人が、傷つけてしまった人が、寄り添うように傍にいたのだ。
絶望に押し潰された私が、自分にとって都合の良い影を見ているのかもしれなかった。
「おばさんに言って入れてもらった。悪いな、起こして」
「え、あっ……ぜんぜん、だいじょうぶ……」
「これ、栄養ドリンク。後で飲んでくれ。ゼリーやらプリンやらもおばさんに渡して冷蔵庫に入れといてもらったから、それも」
「う、ん……ありがとう……」
ドリンクを受け取り、何気なしに成分表に焦点を合わせながら、ぼんやりと思考を巡らせる。
何かを言いたくて、だけど何も言葉が浮かんでこない。
最初に言うべきだと思った言葉は、やはり謝罪であった。
「ごめんね、冬くん……いつも家の前にいて……」
冬くんは何も言わなかった。
それ以上は何も言えなくて、暫く無言の空間が続いた。
冬くんも冬くんで、何も喋らないし、私が喋るのを待っているような雰囲気でも無かった。
いっその事、何も話さなくてもいいからこのままずっと一緒にいれたらなんて思い始めた頃、冬くんが口を開いた。
「茉莉花から聞いたんだろ? 子供のこと」
「……うん、聞いた」
冷たく突き放されるだろうか。
私の存在は、これから生まれて来る二人の子供に取って悪い影響を及ぼしかねない。
「私は今、幸せだ。
辛い事がたくさんあった。
今でも時折苦しくなる時があると言えばあるが、茉莉花と一緒なら乗り越えていけると信じてる」
「冬くん……」
冬くんは真正面から私を見つめる。
こんな風にしっかりと目が合ったのは本当に久しぶりの事だった。
「だから、晴怜。
晴怜にも前を向いて生きて欲しい。
お互いのこと、忘れようなんては言わない。だけど、もう過去に縛られるのはやめろ」
「ふゆ、くん……ぐすっ……うえぇぇぇぇぇ」
涙腺が緩み、止め処なく涙が零れ落ちる。
どこまでも優しい冬くんの言葉が、心に染みて広がっていく。
冬くんの祈り。
冬くんの願い。
聞きたかった。
だけど、私には忘れることはできない。
前を向くこともできない。
私はその生涯を持って、冬くん以外を愛することはないと証明するのだ。
それが今の私の生きがいだから。
★
茉莉花は十ヶ月の妊娠期間を経て、無事に冬くんとの子供をこの世に産み落とした。
女の子で、名前は
「ほら、抱いてみろ。叩きつけて殺したら許さねぇからな」
「しないよ、そんなこと……」
私は複雑な感情を抱きつつも、縁側に腰を降ろして柚梨花を抱っこする。
冬くんに前を向いて生きろと言われてなお、私は冬くんの家に来るのを止めなかった。
少し呆れた表情をされたけど、冬くんは何も言わなかった。
私は私で茉莉花に呆れていた。
ゆうくんを自分の都合で惨たらしく殺した女に、よく赤子を抱かせられるものだと。
腕の中からじっと私を見上げる柚梨花はなんだかとても愛おしい存在の様に思えた。
晴果も生まれてきたらこんな感じなんだろうな。
「あーあ、まーた泣く」
茉莉花に指摘されて、ようやく私は泣いていることに気付く。
ぼたぼたと、顎先から滴り落ちた涙が、柚梨花のほっぺを濡らす。
「ごめん……ごめんね……」
★
私は今日も定位置で空を見上げていた。
時折アルバムを開いて、思い出に浸って、ぼんやりと過ごしていた。
「やっほー、
今日もやってんねー」
「こんにちわ、かなちゃん」
かなちゃんは時々顔を出しては、私の話し相手になってくれた。
同情ではなく、興味があってそうしているらしい。私は貴重な取材対象の一人だと言っていた。
「そういえば、言い忘れてた。
結婚おめでとう。幸せになってね」
「あはは、ありがとー」
殺人の共犯者でもある
実家が裕福なので結婚式をするだけのお金はある筈だが、結婚式はしないとのこと。
かなちゃんは一年前に私が起こした凄惨な殺人を目の当たりにしていると言うのに、態度は変わることなくあっけらかんとしていて、私は時折彼女の異常性に恐怖感を抱く。
二人並んで体育座りをして話していると、ガラス戸を開けて茉莉花が姿を表した。
「晴怜、奏、バーベキューの準備をするから手伝え」
そう言って、物置からバーベキューをする為の器具を取り出し始める。
「ごちになっていいなら手伝うよ」
「お前らが来てるからバーベキューにするんだろうが」
「さっすが茉莉花! 優しい!」
意気揚々と、かなちゃんがセッティングに参加した。
「晴怜、食欲は? 体調は大丈夫か?」
部屋の奥から、柚梨花を抱っこした冬くんが現れる。
「大丈夫。ごちそうになる……」
準備を終えて、コンロを囲んで四人で他愛もない話をしながら、肉をつつく。
茉莉花と冬くんは柚梨花から目を離すわけに行かず、必ずどちらかが輪から離れて柚梨花の傍についていたけれど。
なんだか楽しくて、小さな幸せを感じて、私は自然に笑顔を浮かべていられていたと思う。
そしてその日から、私の日常は大きく変わった。
★
いつものように、当たり前のように冬くんの家の前に来ると、茉莉花が玄関から顔を出して私を呼んだ。
「入れよ」
「え?」
「中に入れっつってんだよ」
「なんで?」
「なんでって外は寒ぃだろうが! てめぇまた肺炎になったらもう助けねーぞ」
茉莉花はがさつそうで、荒い口調だけど、根はとても優しい。
別に今日知った事ではないけれど。
「でも、冬くんが……」
それに二人は新婚でしょ?
新婚と分かってるならそもそもストーキングをやめろと言う話ではあるけれど。
「ダーリンが良いって言ったんだ。さっさと入れ」
「……うん」
お邪魔しますと言って、私は久しぶりに冬くんの家に足を踏み入れた。
中に入ると、作業用エプロンを身に着けた冬くんと廊下で鉢合わせる。
薄っすらと笑顔を浮かべて、冬くんは私を見た。
「おはよう、晴怜」
「おはよう、冬くん……いいの?」
「茉莉花が良いって言ったから……いいよ。居ればいい」
お許しを貰った私は、リビングに入ってソファに座った。
挙動不審に、きょろきょろと家の中を見渡す。
家の中は昔と比べてあまり変わってはいないけれど、細かい所に変化があった。ほんの少し寂しい気持ちになる。
私は炬燵に入り、突っ伏した。
くつろいでいる訳ではない。
冬くんの家に入れて貰えたのは嬉しいけれど、結局何をすれば良いのか分からなかったのだ。
緊張と不安で、嫌な汗が滲む。
また追い出されたら嫌だな……。
私の不安を他所に、存外屋内の生活は平和であった。
柚梨花の世話を任されたり、掃除を手伝わされたり、料理を手伝わされたり、本当に普通の日常。
夕飯を済ませて、日も沈み切って外が真っ暗になった頃、私は家に帰ろうと茉莉花と冬くんに挨拶をしに行った。
「泊って行けよ」
「え?」
「どーせ明日もくんだろ? だったらめんどくせぇから泊ってけよ」
「……冬くん?」
茉莉花の提案にどう反応すべきか分からず、困った表情で冬くんに目くばせする。
静かに微笑みながら、冬くんは告げた。
「晴怜が良いなら、泊っていけばいい」
「ほんと?」
「あぁ」
私は冬くんのお家に泊る事にした。
お風呂に入り、家から取って来た寝間着に着替えて、それからは柚梨花のほっぺをつついたりして戯れていた。
寝る時間になり、冬くんは柚梨花のいる寝室へと向かう。柚梨花の夜泣きに対応する為だ。
私と茉莉花は二階の寝室で寝ることになった。
寝室に入る瞬間、フラッシュバックするゆうくんとの行為。
私は気分が悪くなったが、耐えられないほどではない。
家を追い出される前に、私が購入した新しいベッドなのが不幸中の幸いだった。
サイズは冬くんと二人で寝ることを想定して買ったものだから、茉莉花と一緒に寝ても狭いということは無かった。
「ほら、寝るぞ」
「うん……」
ベッドに入り、薄暗い天井を見上げながら今後どうなるか予想もつかない未来を想像する。
だけどどれだけ考えてもどうなるかが分からなかった。
「ねぇ、茉莉花」
「なに」
「なんで私を家にいれようと思ったの?」
「……お前がしょっちゅう風邪引いて倒れっからだろ」
「ごめん……」
「いいよ、別に」
それから会話が続かず、静まり返る。
少しずつ茉莉花と二人きりの空間にも慣れてうとうとした頃、唐突に茉莉花が話しかけてきた。
「お前さ」
「え?」
「頑張ってダーリンと仲直りしろよ」
「仲直り?」
「言い方が悪かったな。寄りを戻せ」
突拍子も無さ過ぎて、意味が分からなかった。
「なんで?」
「冬紀とオレはラブラブだけどな、うぜぇことにいつもお前のこと気にしてんだよ、ダーリンは」
「…………」
「いい加減、鬱陶しい」
「茉莉花はそれでいいの? 私だったら嫌だよ」
申し出はありがたいけれど、私が喉から手が出るほど欲しかった言葉だけれど、茉莉花があんまりにも優しいから、到底受け入れられる話ではなかった。
「お前頭イカれてるから嫉妬する気も起きねぇわ」
「ひどっ……」
「まぁ、オレが上手くやっからお前も上手く立ち回れ。
それでいい加減、糞めんどくせぇ因縁を終わらせろ」
茉莉花はそう言うと、背中を向けた。
この会話はここで打ち切ると言う態度の意思表示なのだろう。
私は戸惑い、これからの事を考えて結局一睡もできなかった。
★
それから私は、茉莉花と冬くんと、柚梨花と共に生活をするようになった。
私と言う異分子は御日家にとって間違いなく異質で、明確な歪みであるのにも関わらず、特に何事も無く日々が過ぎ去っていく。
冬くんはフラッシュバックに悩まされることはなくなったようで、心の傷も大分癒えて来たらしく、昔のように微笑むことが多くなった。
それがとても嬉しくて、茉莉花には感謝してもしきれなかった。
柚梨花の夜泣きに茉莉花が対応した時は、私が冬くんと一緒のベッドで寝た。
恐る恐る手を繋ぐと、柔らかく力を込めてくれる。
「冬くん……」
もう何度泣いたか分からない。冬くんの手の温もりだけで私は感極まって涙を零してしまう。
私は何度も何度も、茉莉花と冬くんに確認を取った。
冬くんに触れてもいいのかと茉莉花に、私が触れてもいいのかと冬くんに。
「あー鬱陶しい! さっさとキスでもしろよ」と茉莉花にどやされ、「いいよ。私はもう大丈夫だから」と冬くんは優しくそう告げた。
私の知らない所で話はついているらしく、茉莉花も冬くんも何も言わず、私を受け入れてくれた。
柚梨花を含む四人で旅行にも行った。
三人で手を繋いで寝たり、冬くんを後ろから抱きしめたり、その内茉莉花も愛おしく感じるようになって、彼女も抱きしめたりした。
少しずつ、少しずつ、私は四人での生活に慣れて行った。
くたびれたアルバムを見ながら、私は毎日のように祈った。
どうかこの日常が終わりませんようにと。
もしかしたら冬くんの企てた壮大な復讐計画で、ある日突然私は捨てられるのではないかと怯えて過ごす時もあった。
茉莉花とイチャイチャする冬くんを見て、苦しくなる時もあった。
情緒不安定になった時は、茉莉花がよく気が付いて相談に乗ってくれて、私は何度も助けられた。
本当に面倒見のいい女性だと思う。完璧すぎて、羨ましい。
ある日、茉莉花に後押しされて、私は冬くんにキスをした。
冬くんは抵抗することもなく、受け入れてくれる。それが嬉しくて、嬉しくて、私は泣き出してしまう。
冬くんはちょっとだけ眉尻を下げて、私に問いかける。
「晴怜は、本当に後悔しないのか……?」
「後悔は、ずっとしてる……浮気したこと、冬くんを傷つけたこと……ずっと……」
柚梨花を抱いた茉莉花を見る。
「茉莉花は嫌かもしれないけど、二人――いや、三人とずっと一緒にいたい……お願いします……」
頭を下げて、歪んだ関係を続けてくれるように願った。
「別にいーよ。ダーリンも、これからは暗い顔すんなよ。したらぶん殴るぞ」
「大丈夫だよ」
「晴怜も、次浮気したら粉々にしてやるからな」
「しないよ、絶対」
私は二度と、幸せを手放したりはしない。
★
私の新しい生活には、幾つかどうにもならないことがあった。
私は、一人で外に出掛けることができなくなっていた。
一人で外に出ると、三十分もしない内に身体が震えて、吐き気を催すようになり、そのまま動けなくなってしまう。
冬くんに浮気を疑われることを嫌でも想像してしまい、精神に異常をきたしてしまうのだ。
出掛ける時は必ず茉莉花か、あるいは冬くんと一緒でなければならない。
これは恐らく、長い間治らない病なのだと何となく感じた。
冬くんは私と茉莉花を平等に扱おうと意識している。
だけど、無意識の内に茉莉花を優先する傾向にあった。
平等に扱おうと意識するという事は、即ち意識しないと平等にならないという事でもある。
無意識に茉莉花を優先する冬くんを見て、私はどうしようもない絶望感に襲われ、鬱っぽくなることが多々あった。
捨てたくなるほど面倒だろうに、私が暗くなる度に茉莉花が私を抱きしめてあやす。
本当、彼女には頭が上がらない。
「ありがとう、茉莉花……」
「あんだよ、いきなり」
「私、茉莉花がいなかったら、多分死んでたから」
「オレの――私の母親はお前が死ぬのを望んでたけど」
「え、なんで」
茉莉花の母親に粗相を働いた覚えはない。そもそも会った事ないし。
「可哀想だったから、死んでもらうのはやめにした」
「よく分からないんだけど……」
「いいよ、分かんなくて」
彼女は私の頭を撫でて、柚梨花の下へと向かった。
言っている意味がよく分からなくて首を傾げたけど、私は心の中で再び茉莉花に感謝の言葉を送った。
★
冬くんと復縁してから三年が経って、遂に私は子供を身ごもった。
勿論、冬くんの子供だ。
愛する人の子供をその身に宿せて、私は幸せの絶頂を向かえていた。
冬くんには事前に、生まれて来る子供の名前は【
良い名前だと、冬くんも頷いてくれて、私は晴果が生まれて来るのを楽しみにして過ごした。
すっかり大きくなった柚梨花を抱きしめる。
「柚梨花。もうすぐ、あなたに妹ができるから、良いお姉ちゃんになってね」
「?」
きょとんとした表情の柚梨花が愛らしくて、その小さな頭を撫でた。
目を細めて幸せそうな表情を浮かべる。
「さっさと支度しろよ、晴怜。
オレ――私だって忙しいんだからな」
「ごめん、今行く」
柚梨花の一人称がオレになったら嫌だからと、茉莉花は一人称を矯正しようとしているが中々上手く行っていない。
茉莉花に連れていかれ、定期検診を受けた際に、私は衝撃的な事実を告げられた。
『男の子ですね』
目の前が真っ暗になるとはこの事か。
私のお腹にいたのは男の子だった。
ずっと、晴果が生まれて来ると信じて疑わなかった。
でも、夢の中で私を励ましてくれた
私は肩を落として、嘆いた。
★
心が晴れぬまま出産を向かえ、私の初めての子供は無事に生まれてきた。
小っちゃくて愛らしい姿の私の赤ちゃん。私の陽火。
晴果じゃなかったことは残念ではあったけど、陽火は間違いなく可愛くて、愛おしい存在だった。
だけど、私の精神の根底が、陽火を受け付けなかった。
血の繋がった息子とは言え、冬くん以外の男を愛するということがとても恐ろしいもののように感じてしまうのだ。
陽火を抱きしめる度に、耐え難い恐怖、絶望に襲われる。
腕の中で眠る陽火がとても愛おしくて、恐ろしかった。
息子だもの、きっと冬くんは何とも思わないと自分に言い聞かせても、私の身体は陽火を受け付けなかった。
その内、身体が不調をきたすようになり、私は己の脆弱な精神を呪いながら、陽火を茉莉花に託した。
「お前、婚約者どころか母親としても失格じゃねーか」
「……うん……そうだね……本当、最低……」
「はぁ……別にいーけど。いつかは治せよ、そのゴミみてぇな病気」
「うん……」
茉莉花はぐちぐちと悪態をつきながらも私の異常に理解を示し、陽火を実の子供のように育ててくれた。
そんな面倒見の良い茉莉花を母に持つからか、四歳の柚梨花は早くも姉として、陽火の傍で見守ることが多くなった。
やがて陽火は私に見向きもしなくなり、深い悲しみと後悔に苦しみながら、私は必死で冬くんを抱きしめる。
「晴怜……」
「ごめんね、冬くん……陽火……全部、全部私が悪いの……全部……」
「泣くなよ、晴怜。
私達はきっと、大丈夫だ」
きっと私には、本当に心の底から幸せだと言える日は来ないだろう。
いつも何かに苦しみ、絶望し、時々どうしようもない後悔に襲われ、愛する息子と夫に謝り続ける日々がきっと、長い事続く。
最低最悪の裏切りをした私は、そんな生活しか送れないのだと思う。
でも、私は幸せだ。
私の隣には冬くんがいて、茉莉花がいて、柚梨花がいて、温かい彼らに囲まれて愛する我が子がすくすくと育ってくれているから。
この幸せを胸に、私は辛い事を乗り越えて、今日も明るく生きていける。
たくさん撮った陽火の写真で、ようやく三冊目のアルバムは埋まった。
ボロボロのアルバムを胸に抱いて、私は眠りこける陽火への愛を囁く。
「愛してるよ、陽火、冬くん……おやすみなさい」
大切な人を裏切った女の子が、贖罪と後悔と絶望の日々を送るだけの話 Zoisite @AnGell2
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