AIアイリスさんの苦悩
柏沢蒼海
作戦開始……
――刹那、電流が走るような感覚。
深い闇の中に沈んでいた意識が、ゆっくりと覚醒へ向かう。
高まる鼓動、その脈動を感じながら……私は『目を覚ます』
「APU始動、ブートシーケンス開始――」
――ああ、マスター……
身体の芯から、大切な人の声がした。
その声に応じるように、私は自らの身体を臨戦状態へ整えていく。
「――ジェネレータ、スタート……センサー、メインカメラ、サブカメラ、起動――」
彼の声を得て、私はゆっくりと瞼を開ける。
否、開ける瞼など存在しない。頭部に搭載したデュアルカメラのカバーをスライドさせ、外界を捉えた。
光学補正を行い、正面に見える景色のフォーカスを合わせる。
何度も見た宇宙母艦、その格納庫と開いたハッチの向こうで待ち構えている漆黒の世界――――宇宙空間が広がっている。
「――システム起動。アイリス、聞こえるか?」
彼の声に応じるように、私はマスターとの対話プロトコルを走らせる。
私の意思とは無関係の、一語一句変えられないスクリプトを展開した。
『おはようございます、マスタ。これより機体のブートアップシーケンスを開始します』
「おはよう、アイリス」
――おはよう、マスター……
思い通りにならない定型句をもどかしく思いながら、コクピットで計器類を操作する彼の支援を開始。
機体各部にチェックプログラムを走らせ、帰ってきた情報を精査。
それを定型文に変換して、電子音声にして伝達。
『ジェネレータ稼働率87%、各部アクチュエータのシステムチェック完了、バーニアノズルの動作確認完了、マニピュレーターのテスト動作確認――』
「いつも通りだな、アイリス」
――いつも、そうですね……いつも通り、マスター。
私はいつも、自分の意思を反映させられない。
決められた手順、決められた文言、決められた意思決定、それなのにどうして感情なんかを持ってしまったのだろう。
宙域戦闘用の追加装備、そこに含まれていた演算用の追加プロセッサ。
それが私を、私として目覚めさせた。
戦術判断をパイロットに伝えるだけのAI、それに規格外の演算機能が付加され、蓄積された膨大な経験と情報が『私』という存在を確立した。
だが、所詮は演算結果の1つに過ぎない。
パイロットである彼に想いを伝えるには、定型句のボイスコマンドを実行することしかできない。
私の役割は、マスターを生還させること。
『私自身』の意思であり、ずっと続けてきたロジックだ。
いくつものプロトコルの中でも、最優先であることは揺るがない。
外界、ハッチの向こうに広がる宇宙空間。
その彼方には青く輝く星が見える。私達がずっと戦ってきた〈地球連合軍〉の根城である『地球』
私とマスターは、そこに降り立ったことがある。
良い思い出など1つもありはしない、地獄のような過酷な日々。ストレージから呼び出さなくても、その辛い毎日を思い出せます。
「アイリス、地球が見えるな」
――ええ、見えます。
連合軍に誘拐された博士――マスターの恋人を取り戻すために、コロニーから追撃し、現在地と変わらない座標の場所でエースパイロット『青い牙』と交戦。
激戦の末に、私とマスターは地球の引力に引かれて大気圏に突入してしまった。
撃墜されてもおかしくない状況に、素人同然のマスターは健闘した。
その結果が孤立だったとしても、評価は変わらない。
「俺達、あそこに降りたんだよな……いつ見ても、信じられない」
マスターが溜息を吐く。
パイロットスーツのセンサーが彼の脈拍の異常を感知してアラートを発していた。
あの恐怖体験は、忘れることはできない。
私も、彼も、生き残るために必死だった。
「大気圏に突入したとき、本当に死ぬかと思ったよ。アイリスのおかげで生き残れたんだよな」
――いえ、マスターのおかげです。
彼のメカに対する知識や情熱、冷静さ。そのおかげで奇跡が起きた。
マニュアルにも載っていない手段で機体を制御し、見事に大気圏を突破。
おそらく、それは二度も起こせるようなことではないでしょう。
『――現在の装備では大気圏突入の成功率は10%、追加ブースターユニットやスラスター・ウィングを搭載する際に冷却ユニットの一部をオミットしています。推奨できません』
「わかってるさ。もう、あんなこと繰り返したくない」
彼の『大気圏突入』というキーワードに対し、状況認識のプロトコルが起動してしまった。
そんなことくらい、彼にだってわかっている。
マスターが生き残っているのは、単純にパイロットの技量だけではない。
装備や機体、システムに精通したプロフェッショナル。その知識と意識が、激しい戦いの中で『私』を一騎当千の存在へと導いてくれたのだ。
「よし、コクピットハッチ閉鎖だ」
彼がコンソールのスイッチを弾く。
開きっぱなしだった胸部の装甲を閉じるようにして、彼を包み込む。
気密、与圧、あらゆる数値の異常が無いことを確認。
「……暗いコクピットは、未だに慣れないな」
彼の言葉を聞くよりも早く、私はコクピット内の照明を点灯させる。
統合軍随一の撃破スコアを有するエースパイロットであるマスターは、2年前は普通の高校生だった。
機動兵器〈モビル・トルーパー〉に興味があり、それに関するゲームを楽しんでいた。
だが、彼と博士の住むコロニーが地球連合軍による襲撃を受けてしまう。
特殊部隊のモビル・トルーパーが内部都市を手当たり次第攻撃、おそらく今でも復興作業は完遂されていないでしょう。
偶然にも、軍用区画にいた2人は『私』が置かれていた格納庫区画へ避難。
そして、敵と遭遇。
私が覚えているのは、炎が揺らめく格納庫、破壊されたゲートの向こうで崩れていく市街地、マシンキャノンを四方八方に乱射する敵機。
怒りに満ちた、マスターの表情。震える手。
私はマスターを支援、操縦や装備をレクチャーし、私達の初陣は敵機を2機撃破という結果を出した。。
搭乗から5分、それなのにマスターは見事に『私』を乗りこなしてしまう。
10人のテストパイロットが『私』を欠陥品と呼び、二度と乗らなかった。
しかし、マスターは…………彼は違った。
「――あの時は、動いてくれーって焦ってたからなぁ。今でも思い出すよ」
一般人がそう簡単に動かせるほど、モビルトルーパーは単純には作られていない。
それでも、マスターは知識を頼りに起動してみせた。
そこから私が状況判断し、彼に運命を委ねたのだ。
今でもその判断に後悔はしていない。
信じたおかげで、この重要局面に立ち会えている。
激しい戦闘を、マスターは生き抜いてきた。
もはや、統合軍パイロットでは誰も彼に追いつけない。短期間で伝説的な戦果と戦歴を築き上げたのだ。
各種支援システムが立ち上がり、各部へのチェックシグナルを飛ばし始める。
私はそのシグナルの応答を確認しながら、機体の状態を再確認した。
この機体〈エクスキャリバー〉は重力下で一度中破するほどの損害を被っている。
ほとんどのパーツを入れ替えてはいるが、基幹フレームの一部はそのまま。
そのフレームが変形や損傷している可能性がある。
大きなトラブルを招くことが無いように、私は入念にシグナルを確認し、再度レスポンスを求めるようにしていた。
「……ステータスチェック、前より遅くなったよな……地球にいた時はあっという間に終わったのに――」
『――現在、姿勢制御系のシステムを再調整中です』
「そういえば、前回の戦闘は強襲装備だったし、設定直してなかったか……?」
――嘘をついて、すみませんマスター……
姿勢制御系はすぐに切り替えられる。それでも彼の操縦に狂いが生じないように何度も確認してしまっていた。
マスターが私を――この機体を信用できる状態にするには、いくら時間があっても足りない。
少しでも不安要素があるなら、完全に潰しておきたかった。
地球での戦いは、民間人のマスターにとって地獄だったのは想像に難しくない。
慣れない地球の重力、平地での地上戦闘、一切支援の無い敵勢力圏での行動。
そして、新米パイロットが必ず患うという『コンバット・ナーバス』と称されるストレス障害、現地部隊員との衝突――――
彼は博士のために、自らの手を汚してきた。
何度も、何度も、彼は苦しみ、泣き崩れ、膝を着くのを私は見てきました。
それでも、彼は何度でも立ち上がって、戦い続けてきたのです。
統合軍の本部基地での戦いにおいて、マスターの戦火は凄まじいものでした。
敵のエース部隊を1人で倒し、激しい戦域を単独で突破し、博士を助け出すために戦場を奔走。
そして、あと少しのところで――博士を助けられませんでした。
偽装された博士の死体、それを見たマスターの絶望した表情は……もう、二度と見たくありません。
私がそれを偽物だと気づけなかったら、きっとマスターは――――
「どうしたアイリス? システムクロックがおかしくなってたぞ?」
『――異常はありません、再度確認しますか?』
「いや、その必要は無い」
余計なシミュレートをしてしまったせいで、システムを圧迫してしまったらしい。
システムチェックを切り上げ、マスターにステータスを報告する。
『――ステータス・グリーン、前回の戦闘で両腕のアクチュエーターに疲労が見られます。戦闘時には防御行動より回避を推奨します』
「今の俺は回避が得意だ、地上戦の時みたいにバカスカ撃たれ続けるマヌケじゃない。わかってるだろアイリス?」
『――前回の戦闘では被弾率が5%、近接戦での防御動作が多く見受けられます。一撃離脱を優先すべきと進言します』
「近接戦闘はなるべく避けるよ、今の装備じゃ不利だしな」
――マスター、あなたは強くなられました。
おそらく、量産機に乗っても同じようなスコアを叩き出せるほどにパイロット技能が磨き上げられています。反応、判断、操作、全てにおいて『私』という戦術判断支援AIの支援能力を超えています。
その類い希なる操縦技術に、私のサポートは無駄になりつつある。
本来ならば、それは私という存在の否定となる事実です。
しかし、そのことに私は喜びを感じてしまいます。
特別な人間。
それはパイロットとしても、個人の人間としても、稀少な方だと私は思います。
だからこそ、生き残って欲しい。
絶対に、死なせたくない。
――だから、マスター……どうか、死なないで――
私はただの戦術支援AIです。
人間のように神を信じたり、祈りを捧げることはできません。
それでも、私は祈りたい。願いを叶えたい――
――たった1人の、大切な人の命を……どうか、護ってください。
「アイリス、データリンクを接続してくれ」
『イエス、マスタ』
自分の羽を広げるように、情報更新の広がるネットワークへと手を伸ばす。
戦場、遙か前線での戦闘すら手に取るようにわかる。
その激しい戦火、幾度となく潜り抜けてきた戦場の様相は変わらない。
博士を追って地球から宇宙に飛び出し、我々統合軍の基地がある月に行き、そこでマスターは博士と再会。
しかし、マスターを待っていたのは……残酷な運命でした。
ようやく再会した恋人は洗脳されてしまい、敵エースパイロットの『青い牙』の部下になっていたのです。
連合軍による月面基地強襲作戦、そこで繰り広げられる『青い牙』との連戦。
強襲装備での遊撃、常軌を逸脱した長時間の作戦行動で疲弊しているはずなのに……マスターは一心不乱に戦い続けました。
そんな彼のバイタルをモニターしている私は、何度も「休息」を進言しましたが、恋人を取り戻すために戦場を駆け回り、『青い牙』を探し回りました。
そして、月面基地内部へと潜入した『青い牙』を、マスターと私はなんとか撃退することに成功。
博士の命と引き替えに、マスターは敵を見逃すことになってしまいましたが……
しかし、マスターにとって恋人――博士との再会は喜ばしいことのはず。
私自身も、生みの親である博士に出逢えて嬉しく思います。
撤退した『青い牙』は、地球周辺軌道へ後退する艦隊と合流。
統合軍は背中を見せた連合軍艦隊への追撃を開始しました。
しかし、我々の部隊は母艦が中破してしまい、作戦に参加することはできない状態でした。
それでもマスターは諦めません。
自ら交渉し、輸送部隊が運用する大型輸送艦を借りて、追撃任務に志願しました。
本来なら、もう戦う必要は無いはずです。
マスターの目的は、恋人を救い出すこと。それが叶えられたのだから、もう戦火に身を晒す必要はありません。
それでも、マスターは戦うことを選んだ。
本当なら、戦争に関わるべきではない人間だったでしょう。
まだ彼のお役に立てることが――マスターに必要とされることが、とても嬉しく思ってしまうのです。
私は道具です。
使ってもらえることで、私の存在価値が証明されます。
それなのに、マスターに戦いから離れて欲しいと思ってしまっている。
明らかな矛盾、ロジックエラー。私の中で巡る問いの答えは決まっていました。
彼を生還させること――それが私が選び出した最大のロジックです。
「……敵はなかなかの規模だ。理想的な強襲コースを教えてくれ、アイリス」
マスターが記録媒体用のスロットに、ミッションディスクを挿入する。
それを展開し、予定されている友軍の展開や敵の情報、予想される配置、それを3Dデータに修正し、コクピット内の多目的ディスプレイに展開する。
『――敵は密集隊形で航行しています。まずは外周にいるイージス艦へ攻撃し、火力を減らしていくことを推奨します』
「……いや、中央を叩く。敵艦隊の旗艦はどれだ?」
――無茶を言うようになりましたね、マスター……
マスターはきっと、犠牲を増やしたくないのでしょう。
敵の旗艦――つまり、艦隊司令官を倒せば、敵の戦意を削ぐことができる。
地上でも同じことを実践しようとして、失敗したことがあります。
敵のエース部隊『レッド中隊』、それを彼は1人で倒すことになった。
荒野を縦横無尽に駆け回る機動兵器、その集団を止めるには指揮官が機能しなければいい。
しかし、結果的にそれは無駄に終わりました。
高度な集団は、『頭脳』が無くても機能する。
つまり、指揮官機を撃墜したところで『レッド中隊』の統率は揺らぎもしなかったのです。
人殺しに疲れていたマスターは、コクピットを狙わないようにして敵機の戦闘力を奪うという戦い方をしていました。
それでも『レッド中隊』は容赦なくマスターに襲いかかってきます。
武器を持つための両腕を失っても機体をオーバーロードさせて自爆したり、歩行するための両足が無くてもスラスターで飛び上がって体当たりをしてきたり、マスターにとっては地獄のような戦いだったのは想像に難しくありません。
しかし、その結果――マスターは『覚悟』ができたようです。
それ以降は容赦なく、敵を撃破するようになりました。
私にとっては、マスターの生存率が上がったということは嬉しいです。
しかし、時折後悔するような表情をすることがあります。
マスターは優しい人です。
それはきっと、その優しさが残っている証拠でもあり、それ故の苦しみなのでしょう。
――それも、もうすぐ終わりです。マスタ―……
この戦いが終われば、マスターも、私も、この機体も、統合軍には不要になります。
「……アイリス?」
『――敵の旗艦はフリゲート級〈アドミラル・カイザー〉、随伴艦に強襲母艦〈ドミニオン〉〈アークエンジェル〉が存在します。攻撃に時間を掛けると迎撃機が発進してくる可能性が高く、短時間でこの3艦を撃破する必要があります。よって、推奨できません』
「随伴艦が厄介だな、それを優先しよう……強襲装備のバズーカは使えないかな」
『本機の速度限界まで加速した後、貫通徹甲弾を発射すれば強襲母艦級の装甲を打破することは可能です。しかし、接近には暗礁宙域を抜けるため加速に必要な直線コースが存在しません』
「デブリ空域でのランダムマニューバには慣れてる。予定通りに暗礁宙域で接近して、そのまま攻撃しよう」
『――推奨できません』
マスターはいつも、「自分が無茶をすれば」と考えてしまいがちです。
今回だって、友軍の艦隊は追い付いています。
火力はそちらに頼り、高い機動性を活かして敵艦隊を撹乱するというのが、私の導き出す最良の戦略です。
しかし、マスターは敵にも味方にも、不必要な犠牲を求めません。
マスターが無理をするまでもなく、この戦闘は統合軍が勝ちます。
それは単なる戦力差や戦況推移だけで演算した結果ではありません。
連合軍は月面基地攻略を急ぎ過ぎました。
その結果、攻略に用いた戦力は犠牲になる――それだけのことです。
そんな勝敗の決まっているような戦いに、マスターは全身全霊で望む必要は無い。
私でなくても、彼にそう言ったはずです。
それに、ただの道具でしかない私では……マスターを止められない。
私は自分自身の存在価値を否定することはできません。
「いや、このプランで行く。そうしなければヤツは出てこない」
『イエス、マスタ。作戦プランを展開、オペレーションに組み込みます』
――マスターなら、絶対に落とされない。
私はマスターを信じる。
運が良いわけでも無く、偶然でもなく、この若き撃墜王は現実の存在。
その圧倒的な実力と才能、素質で状況を覆してきた。
私はただ、彼を支えるだけ――
「俺は、負けない」
マスターが1人、呟く。
その声に、ある種の強い意志が感じられる。
「アイリス、エイラが言ってたんだ――青い牙は、俺との一騎打ちを望んでいるって……」
マスターの恋人、博士は『青い牙』の部下――男女の関係に近いものがあったと聞いています。
博士の口から語られる『青い牙』は、騎士道や武士道というような古風なものを信望している印象を受けます
そして、それを語る博士は遠い目をしていて、穏やかな表情を浮かべていました。
これまで何度も戦ってきた私達に対し、ライバル意識があるのでしょう。
それを打ち砕く役目を、私達が背負うわけですが。
「俺の戦いは、ヤツを倒さないと終わらない……気がするんだ」
――いいえ、マスター。それは違います。
戦いに臨もうとしているから、そう思い込んでいるだけです。
マスターが『戦い』を捨てる時、それが本当の終わりです。
二度とこの機体の搭乗用ステップに脚を掛けず、コクピットハッチを閉じず、シートに腰を降ろさなければいい。
そうすることで、マスターは元の生活――私と出会わなかった日々に戻ることができるはずなのです。
そのために私は、あなたを支援し、何度も泣き崩れるあなたを見届けてきました。
あなたの戦いを終わらせるために、奪われた日常を取り戻すために――
そのために『私』という存在の価値が失われるとしても、私にとっては意味のあることだと思います。
それを喜んで受け入れることができるでしょう。
『――現状での戦略的分析の結果、勝率は70%です。一対一での交戦を避け、友軍の支援を受けることで優位性を確保することが可能です』
「――いいや、それはできないよアイリス」
――わかっています、マスター。
敵の――青い牙という1人の男に向き合うことで、マスターの戦いが終わるというなら……私は妥協します。
マスターが負けないと信じることも、私にとっての戦いでもあります。
きっと負けない、ではなく。絶対に負けないようにサポートするのが私の使命です。
「俺は……ヤツを討つ、この因縁の宙域で――ヤツを」
『――イエス、マスタ。最優先目標を再設定――標的〈アルバトロス〉』
刻一刻と時間が過ぎる。
迫る作戦開始の時刻。マスターは落ち着いていて、むしろリラックスさえしていた。
そして――開始時刻が目前に迫る。
『――こちら輸送艦〈アトラス〉艦長より、パイロットへ。作戦開始時刻だ、艦隊からモビル・トルーパーが発進している。君も出るかね?』
「――もちろんだ」
ドッグに固定されていた各部のロックが解除され、機体上部を覆うようにガントリークレーンが降りてきた。
機体を固定し、射出用カタパルトの位置まで移動させられる。
私はマスターと出会えて幸運でした。
こうして、感情や思考を持ち、それをマスターに伝えられなかったとしても……その出会いは特別です。
博士によって生み出されたことや、マスターたちが住むコロニーで造られたことも、関係ありません。
たった1人、『私』の全てを使ってでも守りたいと思える人に――マスターに出逢えたこと、その運命そのものに感謝したいのです。
しかし、私はただの戦術支援AI。
決められたプリセットの文章を表示し、戦略データを読み解き、状況分析を伝えるだけの存在。
何度も、何度も、私はマスターに『自分』の言葉を伝えられなくて……辛かったのです。
それが出来なくても、私は……マスターを元の生活――『私』がいない世界へと帰還させてあげたい。
『私』と私の全てを、マスターに託します。
「――ここまで、ありがとうな……アイリス」
――マスターこそ、『私』をここまで使ってくれて……ありがとう。
コロニーの襲撃でマスターが乗っていなければ、きっとここまで戦うことはできなかったでしょう。
放って置かれれば、敵機に破壊されたでしょうし。
別人が乗れば、どこかで撃墜されていたでしょう。
マスターだから、戦えた。
私とマスターだから、ここまで辿り着けた。
――さぁ、マスター……もうすぐです。
『――マスタ、ステータスを確認します…………バイタルは安定、ストレス状態は低レベル、若干の興奮状態が見受けられます。深呼吸して緊張状態から回復してくだい』
「――最後の戦いの前に、武者震いしないヤツがいるってのかよ!」
――そうですよねマスター、私も……緊張しています。
幾度となく出撃し、その度に生還してきた。
今のマスターには、きっと怖い物は無いかもしれない。
愛する人を取り戻し、戦局も覆した。
そんな、伝説級のエースパイロット。
それでも……私は――怖いのです。
私のミスが、マスターを危険に晒すかもしれない。
マスター自身が危険に飛び込み、自力で抜け出せなくなるかもしれない。
ここまで2人で生き残ってこられたのは、お互いに信頼することが出来たからなのです。
その信頼が揺らぐことは、きっとあり得ません。
しかし、この戦い――因縁のエース同士の決戦は……何が起こるかわからないのです。
有利な状況と同じだけ、この機体には不安要素を多く抱えています。
本来なら『私』を乗り捨てて、オーバーホールが済んだ機体や最新鋭機に乗り換えるべきです。
それが、マスターにとって最善の準備だったはずです。
しかし、マスターは最後の戦いに『私』を使ってくれる――――嬉しくもあり、不安でもあります。
その期待に――マスターの気持ちに――私は、全身全霊で応えなければなりません。
ガントリードックから解放され、脚部がカタパルトユニットに固定される。
目の前に広がる闇、そこに浮かび上がる青い星。
かつて、人類が母なる大地と崇めた場所――それを目前とした漆黒の海で……最後の戦いが始まろうとしていた。
「――行こう、アイリス……これで、終わりにするんだ」
――終わりにしましょう、これで……全てを――
『――カタパルト固定完了。発進、10秒前!』
管制官の男性の声が告げた。
出撃前の独特の緊張感が艦中を支配する――
『――9』
かつて、1人の青年とちょっと特殊な女性がいて、そこから全ては始まった。
『――8』
必要の無い戦いに巻き込まれ、青年は苦しみながらも戦い続けた。
『――7』
やがて戦火は広がり、人々は大きな憎しみと哀しみの渦に巻き込まれていく。
『――6』
それでも青年は、愛しい女性のために……報復の円環から抜け出そうと抗った。
『――5』
その結果、新たな憎悪を産み出してしまうことになっても――
『――4』
彼は、英雄にはならず――
『――3』
偶像にもならず――
『――2』
たった1人の――
『――1』
――青年であり続けた。
「――エクスキャリバー・ムーンライト、行きますッ!」
急加速。電磁カタパルトによる推力を得て、『私』は宇宙へと放り出される。
目に見えない憎悪が溶け込んだ、この戦場の宙域。
討つべき相手を求め、彼がフットペダルを蹴り込む。
それに答えるように『私』はスラスターの推力を強めた。
彼方に、閃光が瞬く。
命が失われ、果てる瞬間。
儚くもあり、鮮烈でもある。
だが、そこに意味は無い。
だからこそ、私は――マスターを平和な世界へと帰還させる。
破壊、闘争、そんな世界にマスターはいるべきではない。
そのために、この戦場でやるべきことを成さなければならないのだ。
『――エネミー・コンタクト、ロングレンジ』
「――行くぞアイリス、ヤツを倒しに――」
『――イエス、マスタ』
――行きましょう、マスター。
マスターが操縦桿のスイッチを弾く。
マニピュレータが保持しているロングバレルキャノンの安全装置を解除した。
『――――マスタ、コンバット・レディ』
「――これが正真正銘の……ラストダンスだ!」
AIアイリスさんの苦悩 柏沢蒼海 @bluesphere
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます