第3話 音声国家

 まず、音声国家の消長から話していこう。


 多くの問題が生じたことは想像にかたくないだろう。直前までは高度に発達した文明社会だったのだ。文字で記された膨大な人類史が参照できなくなったことは、人にとってこの上ない損失だった。


 知恵や芸術、そして諧謔かいぎゃくの宝庫だった書物がただの黒く汚れた紙束へと堕し、あらゆる筆記用具の役割が一つ失われ、人を導いてきた文字の全てが意味不明な記号という怪異に変化した。その恐ろしさは、実際に体験してみなければ到底理解できないだろう。


 しかし、まだまだこれは序の口、上に挙げた全てが霞むほどの災厄が人々を襲った。それは文明の維持にも直結する大問題、知性の崩壊だ。


 例えば、桁数の多い計算ができなくなる人が急増した。文字がないせいで、頭の中で筆算もできなければ、桁を分割した後に統合するなんて小技も使えない。どちらも過程は文字として保持する必要がある。だからできなかったのだ。ちなみに、そろばんを習得していた人は文字がなくとも計算ができていたようだ。


 筆算という基本的な算数すらできなくなってしまったのだ。それまで持っていた知性が、文字の喪失によってどれほど失われたか、いくら挙げても挙げきれないことが分かるだろう。


 そんな途方もない喪失の中で、先進技術の継続に大きな影を落としたものを一つ上げておこう。それは、新しくプログラムを作成することができなかったことだ。プログラミング言語は純粋な文字言語、音声言語を有さない人工言語だ。どう頑張っても、文字を失くした人類に新たなコードは書けなかった。


 こうして、文字の喪失は人の文明を破壊した。科学技術を新たに創出する力もなければ、それを維持する能力すら音声国家の人々には残されていなかった。初めの頃は、記憶を頼りに残された技術を活用していた。だが、それが永続するわけがない。技術の継承には文字が必須だからだ。


 結局数十年が経過した後、人は科学技術という文明の基盤をほとんど放棄した。同時に、破竹の勢いで衰退が始まった。音声でも十分継承が可能な、簡便な道具を用いた仕事に従事する人が増えていった。生存し続けるため、人は必死にあがいていた。


 都会はやがてがらんどうとなり、自然の残った土地でこそ生きられる時代が始まった。都会では食料が調達できなくなったためだ。言葉の表面をなぞると、原始時代への回帰に感じられるかもしれない。しかし、実情はかなり違ったと言える。文明は放棄されても消滅はしない。周囲の環境も人々自身も、既に文明に適応した状態になっていた。だから、かつての農耕牧畜が盛んだった頃のような生き方を、そのままコピーすることはできなかったのだ。音声国家に生きる人々は、全く新しい生き方を創出する必要に迫られていた。


 人々は互いに言葉を尽くし、協力して生きる術を模索した。各地でグループが点々と生まれ、めいめいが独自の生存戦略を試し、破れ、試し、破れを繰り返した。やがて年月のふるいに掛けられ、生き残ったグループたちが安定を得た。それでも、緩やかではあったものの、衰退は止まらなかった。


 こうして、音声国家は国家とも呼べない状態にまで頽廃たいはいしたのだ。

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