第7話「少女たちの痴話喧嘩」

 六番目に人形として生を受けたムツミと、七番目に人形として生を受けたナナ。

 二人は、生まれてからと言うもの、暮らす家――第五十九番倉庫では、常にと言っていいほど一緒にいる。

 それは、二人はとある場所で造られた後、同時に第五十九番倉庫に来たことに起因する。外の世界を全く知らない二人が突然連れてこられた場所――第五十九番倉庫には、既にムツミたちと同じ生まれ方をした姉の人形たちが五人いた。しかしそこは、ムツミとナナにとっては見るもの感じるもの全てが新しいもので――そして同時に、恐ろしいものでもあった。

 だから自分と同じ人の形をしている姉妹たちも、同様に恐怖の対象で――だから、「初めて」を同時に味わい、その意識を共有できる相手にお互い惹かれるのは、ある意味で当然の流れだった。 


 ◇◇◇


「ところで、むつむつに聞きたいんすけど」

「なぁに、なっちゃん」

 ムツミに膝枕をされたナナが、上下逆さまのムツミの顔を覗き込む。返答と共に額を優しく撫でられたナナは、猫のように目を細めて、くすぐったそうに身をよじる。お返しとばかりに猫をあやすように喉元をごろごろと撫でてやると、気恥ずかしそうにしたムツミにその額をぺしりと叩かれる。

 くすくすと、静かな笑い声が部屋に満ちる。猫同士で毛繕いをしているような、仲睦まじいやりとり。ムツミとナナだけの特別な空気が、そこにはあった。

 ムツミはナナのことを「なっちゃん」と呼び、ナナはムツミのことを「むつむつ」と呼ぶ。いつから始まったかは定かではないが、今となっては二人の結びつきを示す呼び方として、姉妹たちから認識されている。

 お互いにその呼ばれ方を気に入っているし、何より特別な呼び方がある、ということがなんだかくすぐったいやらうれしいやらで、一度それを覚えてしまうと、もう戻れなかった。

「今回来たリコっち管理官、むつむつはどう思うっすか?」

「どうって…………うぅん、まだよく分かんない」

「ま、そうっすよねぇ。まだそんなに経ってないし。じゃ、タイプかどうかで言えば?」

「うーん……そっちの方が答えにくいよ……」

 ムツミは困ったように眉を下げる。

 ムツミは比較的人間嫌いの気がある。姉妹たちに対してはそこまででもないのだが、管理官という別の人間がくると、途端に壁を作ってしまうのだ。

 その一方でナナはと言えば、そんなことおくびにも出さずに管理官へと近づき、ともあればスキンシップを取ろうとする。距離が近すぎると言ってもいいくらいで、ムツミとは全くの逆の立ち位置。ムツミが持つの管理官の情報は、ナナを経由して得るものがほとんどであった。

 ナナは、そんなムツミの管理官嫌いを気にしてはいつつも、ムツミに一部分でも頼られているという立ち位置が心地よく、直接的な解決には動かないでいた。

「むつむつも、今回を機に管理官慣れしたらどうっすか? 今回は今までと違って女性の管理官だし、悪くなさそうっすよ? あ、それとも前の管理官の方向性でイケメンの方が良かったっすか?」

「そんなんじゃなくて……。もー」

 質問攻めをするナナに、困ったようにはにかんでムツミが答える。

 銀色の月明かりが差し込む部屋の中、ムツミはふぅ、と小さく息を付いて。そしてぽつりと言葉をこぼす。

「少なくとも……今の管理官は、悪い人じゃない、とは思うなぁ」

「ややや、その心は?」

「えっとね、昨日みんなで管理官が作ったパンケーキを食べたじゃない? その材料って、私たちの誰かが出したわけじゃなくって、管理官が材料の準備してくれたんでしょ? それって管理官が私たちを嫌ってるなら、そんな手間がかかること、絶対しないだろうな、って思ったの。

 だって、確かここから車が通れる所まで行くまで一時間はかかるって、前の管理官が言ってたって、なっちゃん言ってたでしょ? ……私たちのためにそこまでできる人なら、きっと悪い人じゃない、って思う」

 髪を梳くようにナナの金とオレンジの間のような色のくせっ毛に触れながら、ムツミが静かに呟く。その表情はどこかにこやかで――少なくとも、話の主題である人物を嫌っているようには見えない。

 ムツミの呟きを聞いて数秒。ナナの方から「ふふっ」と吹き出すような音が聞こえてきた。

「むつむつも、パンケーキに籠絡されたクチっすね」

「籠絡って何よ。籠絡って。なっちゃんだってたくさんおかわりしてたくせに」

 少しだけ真面目な顔をしていたかと思った数分後には、むっとした顔になる。ナナは自分と二人の時にだけ見せる、ムツミのころころと変わる表情が好きだった。

「や、あれは美味しかったっすよ? 初めてあんな甘くてふわふわしたもの食べたっす。

 いや、あたしが言いたいのは、管理官ってあたしたちみたいな子の心を掴むのが得意なんだなぁって」

「なんか言葉に裏を感じるなぁ……」

「気のせいっすよ、気のせい。ほら、管理官は今までシズク姉とかあたしとかとしかしゃべってなかったじゃないっすか。だけど今はパンケーキのおかげで、クゥやヤヨイのちびたちも懐いてるし、むつむつみたいな、今まであんまり触れてなかった子もいい印象になってる。いいことじゃないっすか」

「まぁしゃべりにくい人って思うよりはいいけどね……」

「管理官嫌い脱却に、少し近づいたっすね。よかったよかった」

「もう、そういうんじゃないって……」

 まるで本当に、双子のように仲がいい二人の夜は静かに更けていく。

 二人の間に明かりは要らない。月明かりだけでお互いの顔が見えるから。彼女たちにとっては、それで十分だった。


 ◇◇◇


 ある日の午前中。二人は運動しやすい服装になって、訓練場で向かい合っていた。

 ナナの手にはサーベルを模した木刀。ムツミの手にはスナイパーライフル――そしてその先に付いているのは木剣。

 ナナはにっと不遜な笑みを浮かべ、ムツミは胸の前でライフルを握りしめ、唇を固く結んでいる。

「――行くっすよ、むつむつ」

「――うん」

 ムツミとナナは、自分が得意とする武器をそれぞれの体勢で構えている。

 二人の間は数メートル。その間を、風が通り抜けた。

「始めっ!」

 シズクの開始の合図と共に、ナナが大きく地面を蹴り出した。

 カッ、カツッ、ヒュンッ、ガッ

 演習場の中に、木同士がぶつかる音が響く。しばらくすると、荒く息を吐く音も同時に響き始める。

「むつむつ! 防御だけじゃなくって攻撃しなきゃ、いつまで経ってもあたしから一本取れないっすよ!」

「そんっ、なこと、言っ、たって、……ぇ!」

 ナナが木刀を横に一閃。対するムツミは銃を縦にすることでそれを物理的に防ぐも、勢いを殺しきれず蹈鞴を踏んでしまう。その隙にナナが再び攻撃に出る。ムツミは防戦一方で反撃に移ることができない。リーチの差ではムツミが勝っているにも関わらず、一方的な戦いとなっていた。

 突き、避ける。袈裟斬り、防ぐ。鍔競り合い、膠着。

 ムツミは、ナナからの攻撃を体に受けないようにするだけで精いっぱい。攻撃のために武器を振るうことはできなかった。

「はぁっ!」

 ナナの振り下ろしに、咄嗟にムツミはライフル銃を真横に構える。ナナ自身の力に加え、振り下ろしの勢いが乗った一撃を、真っ正面から受けることになったムツミは、

「――――ッ!」

 ガッと鈍い音が響き、ムツミの体勢は後ろへと崩れてしまう。伝わる振動で手は痺れ、踏み込む足は疲労で次第に力が入らなくなっていた。

 ナナの手は休まる気配を見せない。振り下ろし、切り上げ、袈裟斬り。立て続けに繰り出される斬撃に、ムツミは完全に防戦一方になっていた。

「だぁぁぁぁっ!」

 鋭い踏み込みからの一撃。ムツミはそれを受けきることがついにできなかった。二、三歩後ずさった後、ぺたん、と尻餅を付いてしまう。

「――勝負あり、っすね」

「――降、参」

 ムツミの眼前に木刀の切っ先を向けたナナは、真面目な顔から一転、にひっと笑みを浮かべる。木刀を肩に担ぎ直し、笑みの形を崩さないままムツミへと話しかける。

「――むつむつ、防御ばっかじゃ、倒せる敵も倒せないっすよ?」

「はぁ……はっ。わた、しは……、はぁっ、近せつ、戦闘は、苦手、なん、だって……」

 ムツミは地面に座り込んだまま、肩で息をし続けている。ナナのアドバイスに言葉を返そうとしても、言葉が絶え絶えになってしまう。

 優しさの中に心配する色が混じったナナの声に、ムツミの胸はきゅっと締め付けられる。

 いくらムツミがスナイパーライフルでの遠距離からの射撃が得意だとしても、戦場では何が起こるか分からない。後方支援をしていたつもりが、ほんの数メートル先で敵と遭遇することだってありえるのだ。

 そしてもしもこれが戦闘だったなら。防戦一方のまま、相手にペースを握られ続け、そして体力切れを起こして最後には――。最悪の結末を頭に思い描き、ムツミの唇が硬く結ばれる。

「だからっすよ。むつむつの狙撃が上手いのは、ここのみんなが認めるっすけど、それができなくなったときにもなんとかできるようにしておかないといけないんすよ」

 そしてムツミへ向けて手を伸ばし――「ま、むつむつはあたしが絶対に守るんでそんなことはそうそうないっすけど」とおどけた口調で言うのを見、ムツミは一瞬冷え込んだはずの体の温度が、やけに上がったような気がした。

「…………」

 ナナが自分を守ると言ってくれたことが嬉しい反面、自分がナナに守られているばかりというのも、なんとなく申し訳ないという気持ちになってしまうのと、自分が近接戦闘が致命的に苦手ということをありありと感じることの虚しさとが、同時にムツミにやってきた結果。

「…………それは、そう……だけ、どっ……!」

「だけど?」

「――――うぅ、なんでもない」

 そう返して、差し出されたナナの手を握り返すのが精いっぱいだった。

「肩、いるっすか?」

 立ち上がったものの、ムツミの呼吸はまだ荒い。心配の色が混じったナナの提案に、ムツミは一瞬だけその好意に甘えようかと考えた。でもどこか、それが申し訳なく思って――その提案には乗らず、木剣を杖にして一歩ずつ歩き出した。

「だい、じょうぶっ。……少し、ゆっくり、歩く、ね」

「ういうい、ゆっくり待ってるっすよ」

 ナナの優しい言葉が、じんわりとムツミの胸の中へと入ってくる。

 ――なっちゃんは、自分のことをどう思っているんだろう。

 ムツミは大きく呼吸を繰り返しながら、ふとそんなことを考える。

 今までは生まれたのがほぼ一緒だったことや、部屋が一緒だったことで、自分とナナは大体二人で一組として扱われてきた。――もちろん、ナナと気が合うから自発的に一緒にいたというのは間違いではない。

 その状況は決して嫌じゃなかったし、むしろ嬉しいとさえ思う。今となっては自分が組むのはナナだけ。ナナ以外と組むとどうしても違和感があるし、むしろナナが他の子と組んでいると、なんとなくもやもやとしてしまう。

 そのくらいには、自分はナナと一緒にいたいと思っている。

 ――だとしたら、ナナは、どう思っているのだろう。

 狙撃はそれなりに上手い自覚はある。けれど近接戦闘はからっきし。人――特に管理官――と話すのはあまり得意じゃないし、話だってナナみたいに得意なわけじゃない。

 そんなムツミでも、ナナは、私を守ってくれると言う。

 ――私は、なっちゃんの相方として、守ってもらうにふさわしいのだろうか――。そんなことが、ふとムツミの頭を過ぎった。


 ◇◇◇


 その日の訓練は、個人での訓練ではなく、ペアでの実戦を踏まえた訓練だとシズクから伝えられた。

 その内容は、ミナミ・コノハ、ムツミ・ナナ・ヤヨイ・クゥのそれぞれのペアが時間差で山の中へ入り、各ペアを発見し次第模擬弾もしくは直接戦闘で撃破する――と言ったものだった。

 平地での戦闘というよりは、山中でのゲリラ戦を想定した訓練。

 身体的有利さを加味して、ヤヨイ・クゥペア、ムツミ・ナナペア、ミナミ・コノハペアの順で山中に入ることとなった。指定されたのは第五十九番倉庫の南側の山。広さだけで言えば五キロ四方はくだらない。相当な広さの中での訓練となっていた。


 先に山に入っていったヤヨイ・クゥペアを見送ったムツミとナナは、スタート地点を前に最後の作戦会議を行っていた。

「じゃあむつむつ、作戦は――」

「うん、いつも通り、なっちゃんが前、私が後ろで、ね」

「よっし、いっちょ、ミナ姉をぶっ倒しに行くっすよ!」

「え? ミナミ姉さんを? いきなり強い方に挑みに行くのも……」

「むつむつ、目標は高くっすよ!」

「えぇえー……」

 ムツミとナナは訓練の前でも変わらず、そんな仲のいいやりとりをしている。

 実際、厄介なのはミナミの正確無比な遠距離射撃だけではない、トリガーハッピーと化したコノハのマシンガンの弾幕は場を制圧するには十分だし、クゥのブービートラップの巧妙さにも気をつけなければいけない。ヤヨイの小さな体を生かした隠密行動もなかなかバカにできない。つまり――全員が注意すべき相手。だけれどその中で誰が一番強敵かと言えば――やはりミナミだろう。彼女は視界さえよければスナイパーライフルの射程八百メートルギリギリの距離からですら、当ててくる。いくら同じスナイパーライフルを持つムツミでも、その距離は条件が良くても当てられない。遠距離射撃の腕では、まだムツミはミナミに敵わない。それでもナナの提案に真っ向から否定しないのは――ナナと一緒なら、なんとかできるのではないか、彼女はそんな希望を持たせてくれるからだった。

「よし、じゃあ、なっちゃん」

「ん!」

 それぞれの武器を持たない左腕をぶつけ合う。「行くよ」と「任された」と、言わずとも伝わる声と共に、ムツミとナナは山の中へと入っていった。


 ――ムツミが反応できたのは、本当に偶然だった。

 周囲を警戒しながら、ナナの数メートル後方を歩いていたムツミ。

 何が働いたかと言われれば、直感――もしくは第六感が働いたと彼女は答えるだろう。とにかく『何か』を感じ取ったムツミは、即座にすぐ近くの木の裏に隠れた。

 それとほぼ同時、数秒前に頭があった場所を、模擬弾が通り過ぎる音がした。

「――――ッ!」

 一瞬にしてムツミの心臓が高鳴る。それとは逆に、頭の中はクリアになっていく。

 ――大丈夫、思考はちゃんと働いてる。

 ムツミは一つ大きく息を吐くと、状況を整理する。

 方向としては南側。斜面の下の方から打ち込まれたのは、間違いなくシズクの銃弾だった。

 ムツミは基本的に臆病だ。だからこそ、誰よりも人の気配を感じ取る力に長けている。そのムツミですら気がつかない距離から撃てるとすれば、ミナミ以外いなかった。それ以外の人物であれば、少なくともムツミがその存在を察知しているはずだから――。

「なっちゃん!」

 ムツミの叫び声に併せて、ナナも同じ方向を背にして木に隠れる。

 ムツミはナナがこちらを見ているの見、自分の耳をトントンと叩く。音声通信に切り替える、のジェスチャー。

「きっとミナミ姉さんだ……。もう見つかっちゃったんだ、私たち……」

「怖がる必要ないっすよ、むつむつ。逆に倒す相手が見つかったってことっすから」

「とは言っても……。こっちはまだ、相手がそっちにいる『らしい』ってことしか分かんない。けどあっちはこっちのことをもう補足してる。状況、不利だよ」

「じゃあ、その状況を有利に持ってくだけのことっすよ」

 ふふん、とナナの得意げな吐息が通信機器から伝わってくる。

「どうするの? 今行動に移るのは……なかなかリスクが高いよ?」

「そんなの簡単簡単。要は、ミナ姉がいる場所が分かればいいんすよね?」

「え、……うん。相手の場所さえ分かれば、そこからはミナミ姉さんとの狙撃勝負に持ち込める」

「ん、それを聞いて安心したっす。じゃあ、あたしが移動して、弾が飛んでくる方向が何回か見られれば、――後はあたしのむつむつが仕留めてくれるっすよね?」

 口調こそいつも通りだけど、真剣な声色が通信機器を通じてムツミの耳に入ってくる。『あたしの』という枕詞にはあえて聞こえなかったことにした。そうしなければ……顔が赤くなって仕方がなかっただろうから。

 ムツミはふるふると顔を振り、頭を戦闘モードへと戻す。

 彼女が言うことはつまり――

「え……、ってことは囮になるってこと!? ……なっちゃんが危ないよ」

「あたしの機動力を甘く見てもらっちゃ困るっすよ。だいじょーぶ、なんとかなるっすから。ね?」

 自信満々なナナの声色。ムツミはいつも、この声に助けられてきた。悪い方に悪い方にと考えがちなムツミの思考を、いい方にいい方にと導いてくれる、ナナの明るい性格と、その声。

 距離は離れているけれど、隣で手を握ってくれているような、そんな安心感がムツミにはあった。

「…………うん、じゃあ、そうしよう。なっちゃんが飛び出して、すぐ別の木に隠れる。そして弾が飛んできた方向にミナミ姉さんがいるから、そこを私が狙い撃つ」

「……むつむつ、任せたっすよ」

「なっちゃんも、気をつけてね」

 木の陰から顔を出して、ナナが頷くのが見える。表情はキリリとしていて、けれど口元は笑っていて。ムツミへの信頼が見えるような、そんな表情。

 不安で固まっていたムツミの胸中が、じんわりとほどけていく。つられてムツミの口元も柔らかく三日月型を描いた。

「じゃ、行くっすよ!」

 しゃがんでいたナナが瞬時に立ち上がり、隠れていた木から飛び出して数メートルほど先にある木を目指し走り始め――。

 次の瞬間。

 ぱららららら、と。軽い連続した音が、斜面の上の方からムツミの耳に届いた。

 次の瞬間、まっすぐに走っていたはずのナナがつんのめったように体勢を崩し、そして何かに横から押されるように倒れ込むと、そのまま斜面を転げ落ちていく。

「――――なっちゃん!?」

 ムツミには、その一連の動きがスローモーションのように見えて――気がつけばムツミは、ナナの元へと走り出していた。

 なっちゃんが撃たれた――。それだけがムツミの頭を支配して、それ以上のことを考えることができていなかった。

「――ッ! むつむつ、来ちゃ――」

 ナナを狙った相手が同じ場所にいて、助けに来る者を狙い続けているということも。

 ぱららららら、ぱんっ。

 二種類の異なる音がムツミの耳に届くのとほぼ同時、脇腹とこめかみに衝撃が走って――あまりにもの痛みに地面へと倒れ伏した。平衡感覚を失ったのか、頭の中がぐるぐると回っているような気がする。ぼんやりとした頭の中で、ナナが自分を呼ぶ声が、遠くから聞こえたような気がした。


 ◇◇◇


「――つむつ。むーつーむーつー。生きてるっすか?」

「…………ん、ぅ?」

 ムツミがぱちりと目を覚ます。金とオレンジの間のくせっ毛が、ムツミの目に映った。後頭部に柔らかい物を感じ、それがナナの膝の上だと気づくのに、たっぷり十秒を要した。

 ムツミの頭が次第にクリアになっていく。そうだ、私は撃たれて――。自分は、どうなったんだろう。訓練は? そう思っていると、ナナが自分の頭に手を乗せてくる。困ったようにほほえんだナナは、何も言わずに手を前後に動かす。

 その周りにはシズクの姿も見えた。

「…………訓練、は?」

「負けっすよ、あたしたちの」

 起き上がろうとするムツミを、ナナがやんわりと制して再び膝枕の体勢に戻る。

「コノハ姉のマシンガンで二人とも打ち抜かれた上に、むつむつはミナ姉のヘッドショットのおまけ付き。――見事なくらいに完敗っす」

 やれやれと両手を上げたナナの表情は、笑っていた。ただ、眉を下げて困ったように、だけれど。

「作戦自体は、悪くないと思ったんすけどねぇ。ミナ姉の遠距離射撃ばっか気にしてて、ペアのコノハ姉のことをまったく気にしてなかったのがあたしたちの敗因っす。まさか別々に行動していたとは……」

「訓練の総括は、みんなが戻ってからでいいんじゃない?」

 ナナの言葉に、シズクの優しい声が混ざる。

「あとムツミ、あなたは軽く脳しんとうを起こしているみたいだから、しばらくはそうしてなさいね。模擬弾と言っても頭を撃たれたのだから、すぐ動くのは厳禁。ね?」

「…………はい……」

 ムツミの頭の中は、ナナがマシンガンで撃たれたその瞬間の映像が、何度もフラッシュバックしていた。なっちゃんが撃たれた。その瞬間、ムツミはそれで頭がいっぱいになって、それ以外考えられなくなって――。

 自分の作戦の、どこが間違っていたのだろう。どこから間違っていたのだろう。そうでなきゃ、なっちゃんに痛い思いをさせなくて済んだのに。なっちゃんが撃たれないで済んだのに――。

 俯いて悶々と考えていると、むに、と頬の辺りを引っ張られる感覚を覚えた。

「むつむつ、また何か考えすぎてないっすか?」

 両手でむにむにと、ナナに頬を引っ張られていた。しょうがないなぁと言った顔をしながら、少し困ったように、ナナは笑っていた。

「あたしが撃たれたのは、あたしの動きが遅かったから。平地だったら、もっと早く走れた。それだけのことっす。むつむつは、なーんも、悪くないっすよ」

「でも、なっちゃんはコノハ姉さんの銃撃を浴びて、体が浮いちゃうくらいに……」

「それは、むつむつも一緒じゃないっすか。痛かったのはお互い様っすよ」

「…………そう、だけど……」

 ムツミが言えたのは、それまでだった。


 ◇◇◇


「おはよう、ございます」

 山中での訓練があった次の日、ムツミは一人でリビングへと降りてきた。――いつもであればナナとじゃれつきながら来るはずなのに――リコリスもシズクも、いつもと違う景色に、思わずその様子を二度見した。

「ムツミちゃん。……ナナちゃんは?」

「……起こさなかったので、まだ寝てると思いますよ」

「……?」

 いつもはムツミが先に起きてナナが起こされるという構図だと、リコリスはシズクから聞いていた。それが、今日に限っては行われなかった。

 ――何か、あったのだろうか。

 リコリスはムツミに問いかけようかと席を立ちかけるも、シズクに止められる。目を瞑り、首を左右に振るシズクからは感情は読み取れないが、止めておけ、という意志だけは伝わってきた。しぶしぶ腰を下ろすとシズクの方から小さくため息を付く音が聞こえた。

 七時まで残り十分となり、そろそろナナを呼びに行こうか、とリコリスが立ち上がりかけたそのとき、二階からドアが勢いよく開く音がして、続いて階段を駆け下りる音と共にナナが現れた。「むつむつ、なんで起こしてくれなかったんすか!?」の声に、ムツミは知らぬ存ぜぬという顔をして、朝ごはんを生成することに集中していた。

 ――けれど、その唇はどこか悔しそうに、きゅっと真一文字に結ばれていたのを、リコリスは見逃さなかった。


「今日の訓練、……ミナミ姉さんとでいいですか?」

 その日も第五十九番倉庫から山を登って三十分の広場に出た彼女たち。ペアを組み、いつものように訓練を開始しようとしたところ、おずおずと手を上げたムツミからそんな提案が上がった。

 突然のペア交代の提案に、周りからはざわつきの声が上がる。「なんで?」とか「ナナねーちゃんとじゃないの?」とか年少組が堪えきれずに思わず口にする。

「はいはい、おしゃべりはしない」

 ざわつきが広がるのを抑えるように、シズクが二度、手を打つ。姉の言葉に落ち着きを取り戻した面々の目がシズクへと向くのを見て。

「本当に、いいの?」

「…………はい」

 真剣な瞳でシズクを見返すムツミ。決意は揺るがないと、その目は口以上に語っていた。

「そう、分かったわ。それじゃあ……、コノハ、ナナとでいい?」

「……ん」

 こくりと頷いたコノハは、困惑げにぼうっと立っているナナの元へ行くと、その服の裾を引く。いつもは隣り合っているムツミとナナの二人の間に距離が出来る。シズクの合図でめいめいに散っていくのを見、リコリスはシズクに耳打ちする。

「……私が間に立った方がいい?」

「いいえ、大丈夫ですよ、おそらく。もし話が大きくなりそうなら、私が聞きますから」

「んー……そうだよね、来てばっかりの私が入るのもあれだし、もしものときはよろしくね」

 しっかりと頷くシズク。彼女は特に驚いた様子はなかった。小さくため息をついている表情は、笑っていた。

「分かってます。けれど――いつものことだと思いますよ? 今回も」

「いつものこと?」

「ええ。いつもの――痴話喧嘩」


 平地の端。ミナミとムツミが射撃の訓練をしていた。

 距離にして五十メートル強。先日遠距離射撃の撃ち合いを演じ――ようとした彼女たちにとっては、利き手と逆で撃っても当てられるくらいの距離。しかしムツミとミナミは、一言も交わさずに集中し、ただ木で出来た的の中心部――人の頭部分を打ち抜き続けていた。

 二人の射撃は誤差にして銃弾一発程度。一度開けた穴を、次の射撃で通すといった離れ業を何度も行い続ける。二人の間に会話はない。ただアサルトライフルの発射音だけが訓練場に響いていた。

 目の前に集中し、新たなマガジンを生成して再度撃ち始めようとしたところで、

「昨日……」

 ムツミが、ぽつりと声に出した。

「私がすぐにミナミ姉さんの場所を割り出せていたら――私がミナミ姉さんみたいにもっと射撃が上手だったら。きっとなっちゃんは、痛い目に逢わずに済んだんです」

 パンッ。ムツミの弾丸は、的の中央部をすりぬけて飛んでいく。

「昨日の夜、ベッドの中で、なっちゃんが撃たれたときのことが何度も何度も頭を過ぎって……昨日は模擬弾だったからよかったけれど、これが実戦だったら……って。

 なっちゃんが撃たれたときの、なっちゃんが倒れていくのを何度も夢に見て。……夢だと、なっちゃんの血がたくさん出て、私が叫び声を上げるところで目が覚めるんです」

 パンッ。ミナミは無言でムツミの声を聞く。ムツミの隣の的は、正確に同じ位置だけを射貫いて綺麗な空洞ができていた。

「朝起きたとき、なっちゃんがいつもと同じく寝息を立てていることにすごく安心して……。それと同時に、怖くなったんです。また、訓練や、もしかしたら実戦で、なっちゃんが撃たれちゃうようなことになるんじゃないかって。

 昨日、あれからなっちゃんを見る度に、その時の光景が頭を過ぎるんです。だから、なっちゃんを見ると胸が苦しくなって……。声をかけるのも、辛くって……」

 パンッ。ムツミが打ち出した弾丸は――的を大きく外れて飛んでいった。

 ムツミの銃身の先は、小さく震えていた。

「――私は、一人だけじゃ、なんにも、できないから……。だから、なっちゃんがいてくれて、守ってくれるって言ってくれるのが、すごく嬉しい。

 でも……それでほんとにいいのかっても、思ってて。私が痛いのなら全然、いいんだけど。なっちゃんには痛い思いは、してほしくなくって……」

 ムツミの表情は、今にも泣き出しそうなほどだった。その声も途切れ途切れで、どこか震えていて。悲しい、ではない、別の感情がムツミの中にあるようにミナミには思えた。

「なっちゃんが、大事、だから……怪我してほしくない。なっちゃんには、元気で笑っててほしい。だけど……」

 そこでムツミの声が止まる。震えるムツミの銃から弾丸が発射されることはない。俯いたムツミの表情は見えない。けれど――何よりも強い思いだけは、ひしひしと伝わってくる。

 ムツミは、『相方が痛いのはいやだ』と、自分のことよりも強く強く、相方のことを思っていた。ミナミも本来の相方であるシズクのことを思わないわけではない。けれどムツミの思いの強さは、その比ではなかった。

 ムツミはナナを強く思いすぎているがあまり、動けなくなっている。守られたい自分と、守られたくない自分との間に挟まれてしまっている。

 だから、ミナミが言えるのは、一つだけ。

「だったら――あなたが強くなるしか、ないわね。私よりも、誰よりも、強くなって、腕を磨いて。一緒に戦場に立ったときに彼女を守ってあげられるのは、ペアのあなただけなんだから」

「――――それ、は」

 分かっている、と続けたかったのだろう。けれどその後の言葉は出てこない。ミナミは、隣で唇をきゅっと結んで、俯いている彼女の頭に手を置く。

 自信を持てない彼女の、背中を押してやる。

「あの子があなたを守ってあげたいって思う気持ちに応えるには、一つしかないわね。あの子と同じくらいの気持ちで、守ってあげたいって気持ちをぶつける。それだけ。

 ――じゃあ、ムツミ。そのためにあなたは、どうする? どうしたい?」

 しばらく沈黙し、ふるふると首を振ったムツミは、ふぅっと一つ息を吐いて、ゆるゆると顔を上げてまっすぐにミナミの目を見据える。

 先ほどまでの怯えた表情はない。真剣な目が、ミナミを刺していた。

「なります、強く。もっと…………強く。――――ミナミ姉さん、力を、貸してくれませんか?」

「私の指導は、シズクほど優しくないわよ」

「望むところ、です」

 わかった、と頷いたミナミは手を伸ばす。ムツミは、その手を取った。


 一方、ナナの方はと言えば――。

「……どうしたの? ……ムツミと喧嘩でも、した?」

 マシンガンを使うコノハとサーベルを使って近接戦闘をするナナとは、訓練する上で圧倒的に相性が悪い。結果、コノハの提案でお互いに木刀を持っての近接戦闘の訓練になっていた。

 お互いが打ち合うのではなく、最初はナナが攻め、次はコノハが攻める――と言った、攻撃の仕方、防御の仕方を再確認する『型』の訓練。

 普段はあまりしゃべることのない――マシンガンを持っている場合は別だが――コノハが声をかけてきたのは、訓練を初めて三十分ほど過ぎた頃だった。

 コノハの上段からの振り下ろしを滑らせることでいなすナナ。そこから続いての切り上げを後ろに飛ぶことで避けて、防御の姿勢を取ったナナがコノハに答える。

「喧嘩……。うん、喧嘩っちゃあ、喧嘩、かも知れないっすね」

「……それは、どういうこと?」

 コノハは一歩踏み出し、肩を狙った一撃を繰り出す、木刀の背でそれを防ぎつつ、ナナは答える。

「……むつむつが機嫌悪かったのは、うぅん、話せなかったのは、昨日の訓練のせいだと思うんす。あたしがヘマしちゃったから……むつむつに余計に心配をかけさせちゃって……」

「ナナとムツミを撃ったこと? 訓練での被弾は、よくある話」

「そうなんすけど……。昨日のは完全に油断して撃たれちゃったもんで、むつむつは余計に気にしちゃってるみたいなんす。ミナ姉ばかり気にして、結局コノハ姉にやられちゃったのが、どうも自分のせいって思っちゃってるみたいなんすよね。実際は逆なのに」

「……逆、って?」

 再び上段からの振り下ろし。今度はいなさず真正面からそれを受ける。鍔迫り合い。

「昨日負けたのは、あたしのせいなんす。この距離なら囮になれる、大丈夫って思って、走り出した瞬間に足元が滑っちゃったんすよね。うまくグリップが効かなかったというか。で、気にしてなかったコノハ姉に横から撃たれた。

 むつむつは、優しいから、優しすぎるから、気にしすぎちゃうんす。きっと、私が痛い思いをしちゃったことに責任を感じちゃってるんじゃないかって」

 そもそも、とナナが続ける。二つの木刀との間ではギリギリと音が鳴っていた・

「むつむつが周りを気にすることなく撃てる状況を作る。それがあたしの――前衛の役目。むつむつのためだったら怪我しても構わない、あたしはそう思ってるんす。けれど、むつむつはそう思っちゃいない。

 むつむつを守るためにあたしがいるのに、あたしが怪我するとあたしより痛そうな顔をするんす。むつむつは……誰よりも、誰かの『痛い』に敏感な子っすから」

「…………」

 コノハは思う、それは結局――お互いが一方通行なだけじゃないか、と。

 話を聞く限りでは、ムツミはナナを思ってのことだし、ナナだってムツミのことを大事に思ってるからそんな思考になる。ただ、それが上手く相手に伝わっていないだけで――。

 はぁ、と息を吐いて、コノハは不器用な目の前の妹を見る。一緒にいる時間はミナミとシズクよりも、更にはここにはいないがイチカとニーナ以上にあるはずの二人だけれど、伝わっていない部分も多いのかと、少し心配になる。

 鍔迫り合いの体勢から一歩引いて、再び木刀を構える。攻守交代。

「ちなみに、それは、ムツミには伝えたの?」

「うんにゃ、したことはないっす。んでもって、ここまで派手にやらかしたのが初めてなんで、ちょぉっとあたしも戸惑ってる感じっすかね」

 じゃあ、しろよ。コノハは瞬間的に喉から出かかった言葉を押さえつける。

 お互いの距離が近いからこそ、言えないこともあるのだ。きっと。コノハはそう一人で納得して、思いを伝えるのが下手くそな妹へ、助言を一つ。

「……じゃあ、やることは決まってるじゃない。ナナの今日の宿題は、ムツミとよく話し合うこと」

「…………っすよねぇ。むつむつに話しかけたところで、ちゃんと返してくれるか……」

「そこはナナのがんばり所、でしょ」

「――ん。なんとか、してみるっす。よし、行くっすよ、コノハ姉」

 ――うん、やっぱりナナが悩んでるのはらしくない。そう思いながら、コノハはまっすぐに向かってくるナナを迎え撃つ体勢を取った。


 ◇◇◇


 その日の夜。珍しくナナは部屋に備えられている机の上に向かっていた。

 頭の中でムツミに何と言おうかと、訓練場の帰りで考え、風呂の中で考え。そして考えがまとまらなかった結果、ノートに書き出して頭の中を整理しようとして、未だに頭の整理が上手く行っていない。

 頭の中では数々の言葉が浮かんでは複雑に絡み合い、自分の感情と言葉を上手く整理できないでいた。

 書く作業を中断して、頬杖を付きながらペンをくるくると回していたところ、ふと背後に人の気配を感じた――のと同時、背中からふわりと大好きな人の香りが漂った。

「――なっちゃん」

 首に腕を回され、背後から優しく抱きしめられる体勢になるまで、時間はかからなかった。耳元からは小鳥のさえずるような、自分を呼ぶ優しい声が響く。

 背中からはムツミの心臓の鼓動が、首からはムツミの腕の温度が伝わる。触れていなかったのはほんの一日かそこらのはずなのに、やけに久しぶりのように感じるムツミの温もり。ナナの心の中がすぅっと穏やかになるのを感じた。

 静かに抱きしめられたまま、静かな呼吸音だけが部屋に満ちる。何分かが経ち、意を決したように息を吸う音が聞こえたかと思うと、それから静かな囁き声が耳朶を打つ。

「なっちゃんは、私が守るから」

 先ほどの優しく名前を呼んだときとは違う、しっかりと芯の通った声だった。少しだけ力の込められる腕に、無意識に、ナナの口元が硬く結ばれる。

「私は、強くなるから。なっちゃんが、守ってくれるのにふさわしいくらい、強くなるから。ミナミ姉さんよりも、姉さんたちよりも。強くなるから」

 ――だから、と。ムツミは囁くような声で。

「なっちゃんは、ぜったいに怪我しちゃだめ。私が、守るんだから。怪我しちゃ、だめ」

 小さい子どもがわがままを言うときのような、そして心の底から心配するときのような、そんな声色に、ナナの心がふっと穏やかになる。

 子どもらしくあるようで、その一方でお姉ちゃんのような、ムツミらしい言い回し。その芯となる部分には、ナナを大事に思う心が強く表われていた。

 ぎゅ、と、先ほどよりも強く腕に力が込められる。ムツミは両目を瞑っていて、その表情を具に窺うことはできない。けれど、ムツミの痛いほどの強い思いは、伝わった。

 ナナは小さく息を付くと、ムツミの方を見、静かに語る。

「あたしは、むつむつが大事だし、守ってあげたい。そのためだったらなんだってするし、言っちゃうとむつむつのためだったら、体を投げ出しても構わないって思ってるっす。――でも、むつむつは、そう思っちゃくれない、ってわけっすね?」

 ムツミはこくり、と小さく頷く。

「私が、心配。なっちゃんには、怪我してほしくないもん」

 口元を見なくても分かる、口を尖らせて言うムツミは、ナナの首を絞めるように力を込めてくる。

「そ、か」

 ムツミの方からここまで強く主張してくるのが珍しく、ナナは思わず吹き出しそうになる。きっと今日の訓練で、ミナミとおそらく話したことで思うところがあったのだろう、と。

 自分が守る対象だったムツミに、逆に守ると宣言をされて。強くなる、と告白されて。自分が思っている以上に、相手が自分のことを強く思ってくれていることに、ナナは胸の中から湧き上がる気持ちを抑えられないでいた。

 ムツミは、決して体が強いわけでもなく、意志が強いわけでもなかった。第五十九番倉庫に来たときは、大体がナナが前を歩き、その後ろをムツミが歩く形で。けれどほんの時々は、ムツミはお姉ちゃん力を発揮してナナの手を引く――そんな関係だった。

 ナナにとってムツミは、まるで小動物のようで――愛すべき対象で、守るべき対象で。一緒にいるのが当然の存在で。勝手に、手を引く存在だと思っていて。

 けれどもこの姉は、強くなると、守る、と。これからは自分の横に並ぶという決意をした。

 だから、この思いには応えたいと、強く思った。

「あたしも――ならなきゃっすね」

 ムツミと向かい合っていなくてよかった、と思う。そうじゃなきゃ――頬に感じる熱が、表情が、きっとムツミに伝わってしまっていただろうから。

 空中に向けて息を吐き、視線はまっすぐに、ナナは続ける。

「むつむつを心配かけさせないようにするには、まだまだ足りないって事っす。昨日もヘマしちゃって、むつむつを泣かせちゃった。あたしも、もっともっと、強くなんなきゃいけないんすよ。むつむつが、安心して背中を預けられるように。

 守ってもらえるのと同じくらい、守ってあげたいのは、あたしも一緒っすから」

 だから――、と。胸の前で組まれた手を、そっと両手で包み込む。ムツミの小さな手が、ナナの手にすっぽりと覆われる。

「むつむつ。一人だけでなんて抜け駆けは駄目っす。一緒に、強くなろう」

 背中から抱きしめてくる大事な相方の心臓が高くなるのを感じるのと同時、気づけば、その手を強く握っていた。自分の手はいつの間にか熱を持っているのが分かる。

 鼻を啜る音が聞こえる。ひくっと喉が鳴る音がする。

 たっぷり数秒をかけた後。耳元からは、おずおずと控えめな声が響く。

「――一緒、に」

「ん、一緒に」

 間髪を入れずに、そう返す。

 音が止まる。静かな呼吸音だけが部屋に満ちる。しばらくして、耳元から「うん、」と小さい声が聞こえるのを最後に、首元に感じる圧力がすっと無くなるのを感じ、ナナもムツミの手を解放する。

 ムツミの胸が背中から離れるのと同時、きし、と床が音を立てる。

 ナナは前を向いたまま、後ろは振り返らない。


 満面の泣き笑いを浮かべるムツミがそこにいることは、見なくても分かった。


 翌日。

「おはようございます。シズク姉さん、管理官」「二人とも、おはよっす」

 真っ先にリビングに現れたムツミとナナは、昨日と違って手を繋いで歩いてくる。

 それを見て。

 シズクとリコリスは視線を合わせた後、ふふっと含み笑いをするのだった。

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