幕間1「シズク姉さんは甘えたい」

 夜。リビングでよく本を読むシズクは、最後の一人になることが多い。

「ふ……、ぁふ……」

 口元に手を当てて小さく欠伸をするシズク。時計を見ると夜の十時を過ぎ、妹たちはあらかた寝静まる時間になっていた。

 本をぱたりと閉じ、リビングの電気を落とす。

 第五十九番倉庫の中が暗闇に包まれ、静寂が満ちた。


 音を立てないように階段を上り、部屋を二つ通り過ぎてミナミとの共同部屋である自室へ。

 扉を開けると、ミナミの背中が見えた。机に向かっているのを見ると、何かを書いているように見える。音を立てて邪魔しないように部屋に入り、シズクも自分の机へと向かう。

 日記帳を開き、日課となっている日記を付け始める。

「……んー、…………」

 何分か万年筆を持ったまま考え込んで、そしてシズクはすらすらと文字を書き連ねていく。

 ――今日の訓練は、ムツミの調子が良かったようで、ミナミとほぼ同等のスコアだった。更に今までは見ているだけだった管理官が、今日は一緒に訓練すると言い出した。管理官は想像していた以上に射撃の腕が良く、ミナミやムツミには及ばないまでも私たちの中でも上手な方に入るのではないか。士官学校次席卒業の肩書きは侮れない――。

 と、ここまで書いたところで、ギシ、とベッドがきしむ音がした。

「……」

 ふと後ろを振り向くと、いつの間にかミナミが自身のベッドに座っていた。シズクの視線に気づいたのか、ミナミはシズクに向けてにっこりとほほえむと、優しく手招きをした。

「…………」

 ちょいちょい。

 ミナミは変わらずシズクに手招きを続ける。

「………………、」

 シズクは小さく息を付くと、椅子から立ち上がってミナミの隣へと座る。

 今にも肩同士がぶつかりそうなほどの距離で隣り合った二人。言葉を交わさずに何分かが経ったかと思うと、今度はミナミが自身の太股をぽんぽんと叩く。

「――――」

 周りをきょろきょろ。もちろんシズクの周りにはミナミしかいない。

 何度か深呼吸をして、おずおずと体を倒したシズクは――ミナミに頭を引き寄せられてその頭はミナミの太股へと納まる。

 膝枕の体勢になったシズクは、柔らかい笑みをたたえたミナミの顔を見上げる。

「相変わらず、シズクは甘えんぼう」

 部屋に、ミナミの声だけが響く。静かだけれど、その声には優しい色があって。シズクの額を優しく撫でるミナミは、どこまでも妹想いの優しい姉の姿だった。

「――――」

 妹たちや管理官がいる前ではほとんど見せない、ミナミの静かで優しい笑みに。頭の後ろから感じる、ミナミの柔らかさと温度に。すぐ近くにいるときに感じる、ミナミの柔らかい香りに。シズクの胸は、意識は、熱を持ったチーズのようにとろけていくのが分かる。

 きっと自分の顔は、だらしない笑みを浮かべているのだろうと思う。けれど、ミナミの前だから、いいかな、と思う。

 時には膝枕をしてもらい、時には月光を明かりに髪の毛を整えてもらい、時には抱いてもらったまま同じ布団に入ったときもあった。

 シズクにとって、甘えるという弱い心を預けられる相手はミナミだけ。ミナミは、そんなシズクを聖母のように優しく包んでくれる。そんな姉がいてくれることに、シズクは感謝してもしきれない。

「……妹たちの前じゃ、こんなことできないから」

「してもいいんじゃない? そんなくらいで幻滅する妹たちじゃないのは、シズクだって知ってるでしょう」

「それでも。イチカ姉さんとニーナ姉さんがいない以上、私たちが一番上だし、一応、私が代表なんだから。そんな姿は見せられないわ。…………ミナミ姉さん、以外は」

 ふふっと笑う声が部屋に広がる。

「かわいいわね、シズクは」

「つーん」

 いじけたように口を尖らせたシズクは、ミナミの顔をまじまじと見て――そして大きく息を吸って、そして一気に吐き出した。

「一応、私だって、気にしてるんだからね? ミナミ姉さんじゃなくて、私が姉妹の代表をやってるの。本当に、私でいいのかって。本当は、ミナミ姉さんが……むぐ」

 話の途中で、ミナミがシズクの口を手で塞ぐ。逆の手で人差し指を唇に当て、ウィンクする姿は窓から入る月光に照らされて美しく見えた。

「それは――イチカ姉さんからの指名だから。シズクが、イチカ姉さんから信頼されてた証拠」

「…………それは、」

 ――これからは、シズちゃんがみんなをまとめてあげてね。

 シズクは、姉であるイチカとニーナが前線に向かう日の事を思い出す。

 突然イチカに手を握られて、言われた言葉は一字一句はっきりと覚えている。その手の感触は、柔らかくて、温かくて、力強かった。

 顔を近づけて、笑顔で「シズちゃん」とイチカだけの愛称で呼ばれ、胸が一杯だったシズク。人選の理由を聞くまで頭が回っておらず、結局言われるままに頷いてしまって――そして今に至る。

「そう、だけど。……でも、」

 今でもシズクは、時々その時のことを思う。

 ――本当に、自分で良かったのだろうか、と。

「……でも、ミナミ姉さんの方がお姉さんだし……、私より、ミナミ姉さんの方が代表としては相応しいんじゃないかって、」

「それでも、決めたのはイチカ姉さんだから。――それと、私はシズクが代表をしているのは似合っていると思う」

「…………そう、かな」

「妹たちもシズクの事を信頼してる。管理官との応対だって、ちゃんとしてる。シズクは、ちゃんと代表をこなせてる。大丈夫」

 そう言って、ミナミはシズクの額を優しく撫でる。シズクはくすぐったそうに身じろぎしたあと、気持ちよさそうに目を細めた。

「…………ん、……ありがと、ミナミ姉さん」

 小さく鳴き声を漏らすシズクを見て、猫みたいだ、とミナミは思う。

 きっちりと自分のするべき事はして、けれど甘えるときは甘えてくる。そんなシズクを、ミナミは愛おしいと思っているし、そして何者からも守ってあげたいとも思っている。

 姉妹たちの代表という重荷からも。

 そして――来たるべき戦いの相手からも。

「――――――」

 ミナミは静かに息を吐いて、眼下で落ち着いたように目を瞑るシズクを見つめる。

 ――もし第五十九番倉庫の中から次に前線に出るとすれば、それは間違いなく自分たち。その時には、シズクを守れるのは、自分だけ。

「シズクは、お姉ちゃんが、守ってあげるから」

 ミナミはシズクの重さを感じながら、小さく小さくその決意を口にする。シズクの方からは何の反応も無い。静かに繰り返される吐息が聞こえるだけ。

 太股の上では、シズクが変わらず心の底から安堵したような落ち着いた表情を浮かべている。

 自分たちがあとどのくらい、ここにいられるかは分からないけれど――。

 シズクの、心から落ち着いたこの表情を、何回でも見ていたい。ミナミは静かに息を立てるシズクを見て、そう願った。

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