第44話 わたしを大人にできるのは、クレジーだけだよ

         ○


 逃げられた、という電話がカイからあったとき、ハジが提案した。


「僕たちはひとつ前の駅で降りる」


 呉次郎さんはきっと海に行くから、砂浜を、こちらに向かう形で追い立ててくれ、と。


 そして意図どおり、呉次郎を挟み込む構図になった。呉次郎の前にはわたしとマコ、樹、ハジ。後ろにはカイがいる。

 けど追い込んだ、と思ったのも束の間。カイが倒れ伏したのを、呉次郎は見逃さなかった。


「あっ」


 わたしたちに背を向け、呉次郎が逃げ出す。その瞬間、


「任せて!」


 動いたのはマコだった。足場の悪い砂浜とは思えないほど軽やかに、まるでアスファルトの上を、いや空気の上を踏み締めるかのように駆けていく。その有様は確かに、『魔術』でも見せられているような気になった。


 マコは一気に呉次郎を追い越し、その前に立ちはだかって両手を広げた。

 無言で真っ直ぐ通せんぼされた呉次郎は立ち止まり、震えるようにじわじわと肩を落とす。


 息を整えながら振り返ると、悲痛な表情だった。


「……久那……どうして」


 呉次郎が、わたしを、見てる。


 なにをどう言ってやろうか、というのを、わたしはここに来るまでに十通りは考えた。憤りもあったし、怒鳴ってやりたいとも思った。

 なのに顔を見たら、胸には泣きたいような安堵しかなかった。


「クレジー」


 呼ぶだけで、もう……内臓が身震いした。呼んで、反応がある距離にいる事実に、気を抜いたら泣き崩れそうだった。


「全部、解ってる……よ」


 わたしは、呉次郎に近付いていく。呉次郎は逃げることもなく、迎えることもなく、所在なく立っていた。手を伸ばせば触れられる距離まで来て、わたしは


「たぁあっ!」


 頭突きをした。


「痛ぇっ! な、なにす」途中で言葉が止まる。「……これは」


 わたしが呉次郎のことを知った一連の流れを、共有したのだ。


「……久那」


 いつか、見たことのある顔をした。「俺は親にはなれない」と言ったときみたいな、情けなくも、生の感情を率直に吐き出してくれたときの顔だった。


「怖くなったの? いつ、わたしが大人になるか。いつ、自分が死んでしまうかが」

「……ごめん」


 呉次郎は目を逸らす。横顔がオレンジ色に染まっている。


「俺は……弱いままだ。ずっと、覚悟してきたはずなのに。

 二年前、死んだはずなのに生きてる、って気付いたとき……きっとこれは、神様が猶予期間をくれたんだと思った。久那がひとりで生きていけるようになるまでの。だから俺がいつ死んでも久那が困らないよう、生命保険に入り直したり、遺言書を作ってみたり……」

「それが、『準備』?」

「うん。けど……やっぱり、怖かった。久那が成長するのが嬉しいのに、成長すればするほど俺が死に近付くってことだから……手放しに喜べない自分がクズだと思った」

「……クレジー」

「それに……信じられないかもしれないけど……俺が、いなくなった後の久那を想像すると、耐えられなかった。特に、目の前で俺が死んだら、久那はどうなってしまうのか考えると……」


 呉次郎の声に嗚咽が混じる。わたしは静かに「うん」と頷いてから、言った。


「でも、いつの間にかいなくなられるのも、やだよ。

 ママも、ダンディも、ばぁばも……いなくなった。クレジーまでいなくなっちゃったら……わたしはきっと二度と、誰かと一緒にいようと思えなくなる」

「……解って、た。だから俺はこの二年、お前を、極力突き放そうと思ってた。俺が素っ気なくなって、俺のことを必要としなくなれば、いなくなっても平気だろうって」

「うん」


 わたしは、背伸びして呉次郎の頭に手を伸ばした。軽く叩いて、撫でる。


「ばかだな。そんなの、あり得ないのに」


 笑みを浮かべた。涙が出そうなのは相変わらずだったけど、笑いたかった。


「わたしは、大人になんてなってないし」


 無理矢理おどけるように、言う。


「わたしを大人にできるのは、クレジーだけだよ」

「え、クーニャちゃん。それって処」

「こぉらいつきちゃん!」


 樹とマコがわたしたちを挟んで声を飛ばし合う。今は、その軽さに助けられる。


 伝えるべきことを、伝えるときがきたんだと思った。

 前にマコから訊かれた『くれさんてさ、クーニャのなんなの?』の答え。

 それをわたしはもう見つけている。


 こんなことにならなければ、ずっと先まで考えもしなかった。もしかしたら、呉次郎が消えてしまってから気付いたかもしれなかった。

 そう考えると、きっと、悪いことじゃないのだ。ここに至るまでの、なにもかもが。


 まだ、間に合う。

 だって呉次郎は、今目の前にいるのだ。


「久那?」


 じっと見つめていたら、呉次郎が不思議そうに呼んだ。わたしは答えるようにさらに一歩踏み出して手を伸ばす。呉次郎の後頭部に両手を回し、背伸びして躊躇なく唇を重ね合わせる。


 呉次郎が息を呑んだ瞬間、わたしはなけなしの想いで伸ばした舌から答えを流し込んだ。

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