第40話 薄くひらべったい穴に、ひと差し指を第二関節くらいまで挿入する

          ○


「クーニャ、クーニャ!」


 マコが戻ると、床へうつ伏せになってクーニャが倒れていた。はじめは寝ているだけかと思ったが、どうも様子がおかしい。身体を起こすと瞼が開いたままで、そこになにも映っていないのが一目瞭然だった。呼吸をしていないのではと思ったが、微かに唇から息が漏れている。

 仰向けに横たえ、大きな声で読んでも返事はなかった。


「……これは」


 声が聞こえたのか、リビングにいた樹が来て、目の色を変える。


「いつきちゃん……クーニャが」

「ちょっと、ごめん」


 樹はしゃがむと、クーニャの寝間着のボタンを半ばまで外す。「あった」


「なに? それ……」

「術跡、だよ」


 短く言って、樹はクーニャの胸元に空いている薄くひらべったい穴に、ひと差し指を第二関節くらいまで挿入する。


「……う」

「クーニャ?」


 反射で声が出ただけのようで、意識がある反応ではない。樹は数秒そのままでいると、指を抜いて苦い顔になった。


「『願』の循環が狂ってる」

「どういうこと?」

「『願』によって人体に改造が施される場合、こういう穴が身体に空くんだけど……この奥には、第二の心臓とも呼ぶべき『願』の循環装置が埋め込まれて、『願』は血液と一緒に体内を常に循環する。クーニャちゃんのカメラの機能も、全てそこを経由して実現されてるのさ」

「目とか脳が特別な機能を持ってるわけじゃないってこと?」

「そう。いわばその循環装置によって、小規模的に毎回『願いが叶ってる』って仕組みだよ」

「あ、だから機能が後から増えるの?」

「もちろんおおもとの願いに関連する範疇の願いに限られるけどね。あと、願いっていうのはなかなか複雑なものだから、変に曲がった形で叶ったりする。透視とか」

「あれは……『裸を見たかった』じゃないよね?」

「多分、襲い来る麻子ちゃんの動きをかわすため、『もっとよく見たい』って願望の結果じゃないかな。静止画から動画になったのも同じ理由だと思うよ」


 樹はひと呼吸置いてから続ける。


「それで、術跡は埋め込みの跡であると同時に、外部とのインターフェースでもあるんだ。この穴は『願』の循環対象になってるんだけど、今、指を入れたら流れがおかしくなってた。わっしはこの状態になったひとを、昔見たことがある」

「『願』の循環がおかしくなると、どうなるの?」

「どうなる、の前にどうしてこうなったかだけど……一度叶ったことを心の底から願わなくなってしまうと、『願』の流れは止まる。止まるだけなら別に問題はないんだ。ただ……願ったことを願わなくなったってことは、大抵の場合なにか強いショックでそうなるから……その場合は単純に止まらず、体内を荒れ狂ったり、逆流したりする。それが今の状態で、放っておくとこのまま衰弱していってしまう」

「クーニャが……カメラになりたいと思う気持ちを失ったってこと……?」

「そういうことになるね。そしてそう思わせるなにかが、多分呉次郎君の日記にあった」


 状況を理解したマコは、抱きかかえるクーニャの顔を見つめる。感情を失ったような無表情で、それは初めてマコが見る顔だった。


(……なんて、綺麗なんだろう)


 まるで美術品のような造形だ。しかしマコは胸を黒い靄が覆うような気分だった。


(なのに……とても哀しい顔)


 普段のクーニャとは似ても似付かない。マコは初めて、クーニャがどれほど持って生まれた造形を台無しにしてるかを知った。同時に、だからこそ生き生きとしていたのだということも。


「どうすればいいの? いつきちゃん」


 静かに訊くと、樹は少し考えてから言った。


「呉次郎君の日記の中から、クーニャちゃんがショックを受けた原因を探してみるっていうのもひとつだけど……それだと時間がかかり過ぎるし、わっしたちがそれを読んで解るかどうか。それより、本人に直接訊いたほうがいいかもしれない」

「直接訊くって言っても……」


 それができれば苦労はない。マコは微動だにしないクーニャを見る。


「繋がればいい」


 続いた樹の言葉に、マコは視線を戻す。


「繋ぐ?」

「この状態でもクーニャちゃんの再生機能は生きてると思うから、麻子ちゃんが繋がって、意識を直接ぶつけてみればいい。クーニャちゃんがそれに答えてくれれば」

「そんなことできるの? どうやって?」


 尋ねたマコに樹は何故か、少しはにかんだような薄笑みを浮かべた。


「術跡を使えば、ね」




「……なんかこれ、えっちじゃない?」


 方法を聞いたマコはベッドの上にいた。クーニャを仰向けに横たえ、そこへ覆い被さるような体勢だ。顔は、クーニャの胸の上あたりにある。


「私、こういう趣味はないんだけど」

「勘違いしちゃいかんよ、麻子ちゃん」


 樹は真面目な口調だが、表情はにやけるのを押さえているようだった。


「わっしだって百合が趣味でこんなことを勧めてるわけじゃない。深いコミュニケーション、っていうのは大きく分ければ、激しい衝撃を伴うものか敏感なところに触れ合うかの二択なんだよ。拳で語り合うとか、クーニャちゃんがやってた頭突きによる映像転送が前者なら、今やろうとしてるのは後者だ。それは必ずしも性的な意味合いを含まない」


 じゃあなんで笑ってるのよ、と言いたいところだが深く考えるのをやめて、マコは舌を出す。そして樹に教えられたとおり……それをクーニャの胸の間に空く術跡にあてがい、ひと思いに挿入した。可能な限り、深く、深く。


「……んんっ」


 クーニャの身体が縮こまって、小さい声が出る。

 その瞬間マコは身体の制御を失い、クーニャの身体に折り重なった。




 次の瞬間、マコは白い空間にいた。宇宙空間が白かったらこんな感じだろうか、と思う。

 そこに、淡い光を纏った帯のようなものが流れてくる。一本、二本……数え切れないほど無数に全方位から、ライブハウスで投げられる紙テープみたいな幅で、速度はスローだった。


 そのひとつを、マコは手に取ってみる。途端に頭の中に映像が流れる。いや、流れた。

 一瞬で、映像の中に入り、『クーニャとして体験をした記憶』が自分の頭の中にできる。


 今体験したのは、クーニャが幼稚園で異質として扱われることに心を痛め、黒い絵の具で自分の髪を染めようとした場面だった。

 べたつきながら一応染まったものの当然綺麗にいくわけもなく、絶望的な思いで


「わたしは、わたしをやめられない」


 と呟くクーニャを呉次郎が抱き締めた。


(繋がる、って……こういうことか)


 気を抜いたら、自分とクーニャの境目が解らなくなりそうだと思った。

 今の体験だけで、マコにはクーニャがどうして自分を嫌う態度を取っていたのか理解した。


(母親がいなくなった理由を……見た目に求めてたんだ)


 自分の外見が異質だから、母はいなくなり、周囲から敬遠される。そう辻褄を合わせた。クーニャは異質でなければならなかった。だからクーニャの見た目をそのまま綺麗だと評するマコは、その理屈を脅かす敵だった。

 浮遊する帯に、マコは次々に触れていった。再生するごとにクーニャへの理解を深め、同時にその感情が他人事とは思えないほど、没入していく。


 そしてやがて、マコはその記憶に行き当たる。


(……そう……か)


 かろうじて駿河麻子としての自我を保ちながら、マコは再生を終える。


(……きついな。他人の記憶を、自分のものとして体験するっていうのは……こんなに)


 ひとの気持ちになって考えよう、みたいな言葉があるが、こうして本当にひとの気持ちになってしまうと、その重さに身動きが取れなくなりそうだ。


(解り過ぎてしまうことは、危険だ)


 気を抜いたら、嫌気がさして繋がりを絶ってしまいそうになる。もしくはクーニャと完全に同化して自らを失うか。どちらも拒否しながら、マコは真ん中、を意識する。


(他人だからこそ同じように崩れることなく、口を出せる……んだ)


 歯を食いしばり、


「……クーニャ」


 と呼びかける。閉じてしまいそうな目を薄く開く。


「……私、解ったよ。なんで、あなたが、こうなったのか」


 目の前に、線が浮かぶ。輪郭が緩やかに浮き彫りになって、クーニャのかたちを作り出す。


「クーニャは、知ってしまったんだね」


 線が完成し、色が付く。目の前のクーニャは現実と同じ無表情だった。

 マコはそのクーニャに向けて、絞り出すように言う。


「くれさんが、死んでしまっていたことを」


 クーニャの瞳に感情が浮かんだ。

 明らかな拒絶だった。

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