第38話 好みの性癖と全然違うけどドンマイ
足下がぐらつくような感情を棚上げして、呉次郎の部屋を漁った。
本棚を奥まで見て、引き出しも開けて、タンスもクローゼットもひっくり返し、ベッドの下も覗いた。そして見つかったのは、
「まさかの……これか」
『ミサイルパイパイ~芸大出身者は人妻に手を出した~』
『限りなくマシュマロに近いメロン~家政夫は見た、奥さんの情事~』
薄いエロ漫画だった。それもこの二冊だけじゃなく、何冊も。共通点は、いずれも豊満な肉体を持つ熟女が表紙を飾っていることであり、表紙だけで引いた。
「クーニャ、あの……なんて言っていいか……その」
マコがまるで葬式みたいな沈鬱さで言葉を選ぼうと言い淀む。
「『好みの性癖と全然違うけどドンマイ』って意味が含まれてるなら、怒るぞ」
「大丈夫」
樹はカイを励ましたときと同じ顔になる。
「大事なのは大きさじゃない、感度だ」
「お前はなにを言ってんの?」
そりゃ、全くショックじゃないかと言えば……ってそんなの今どうでもいい。
「いや……待てよ」
「どうしたの?」
「わたしのことを、クレジーは誰よりも知ってる」
「そうだよ、性癖と愛情は別だ!」樹は無視。
「わたしがこれを見て、ドン引きすることがクレジーには解ってた。たまたま見つけたとしても、触ろうともしないだろうって……つまり」
「カモフラージュ?」マコが気付く。
「あ……そっか」
樹は探偵の相棒みたいな仕草をして、極めて真剣な声に自信を漲らせる。
「すなわち、表紙だけ巨乳人妻で、中身は貧乳金髪娘っ……!」
「お前マジでなに言ってんの?」
エロ本以上に樹の反応に引きながら、わたしは一冊手にとって、表紙のカバーをめくる。
「……ビンゴだ」
中身は当然貧乳金髪娘なんかじゃなく、巨乳人妻でもない。
真っ白な背景にびっしりと几帳面な字で書かれた、日記だった。他の本も表紙をめくると全て同じで、わたしはそれらを時系列に並べて整理してから、一番最初の本を開いた。
こんにちは。これを読んでるということは、あなたは久那の大切なひとなんでしょう。そして俺、
書き出しはまるで、今の状況を予見しているみたいだった。だけど読み進めると、そうとも限らないというのがすぐ解る。
呉次郎はこれを、将来わたしが誰かに嫁ぐことを想定して書いてるみたいだった。だから呉次郎がわたしの傍にいない、というのは、単純に一緒に住んでいないという意味にも取れる。
はじめに、と題されたその序文は、こう締めくくられていた。
てゆーか久那。
もしお前がこれを今読んでるんだったら、今すぐ閉じろ。捨てろ。燃やせ。
読み進めたら、絶交だからな! マジで!
ほんの一瞬躊躇するけど、見られたくない内容があるなら、なおさら今開かない理由はない。
それに呉次郎の絶交、はいつも口だけだ。どんなに怒らせても、わたしがいてほしいときにはいてくれた。少なくとも、今までは。
続きを読むと、すぐにページをめくる手は加速していく。
始まりは、わたしがこの家に住み始めたころで……そこからママのこと、ダンディのこと、ばぁばのことなどが書き綴られていた。
ママは結婚して家を出た後、すぐ夫が仕事を理由に家に寄り付かなくなったことから男遊びをするようになって、いつの間にか妊娠してたこと。
妊娠を伝える前に、夫は海外出張中事故に遭って亡くなってしまったこと。
生まれてきた子ども……つまりわたしは金髪で、明らかに夫の子どもではなかったこと。
それを知ったママの父親、つまりダンディは激怒して、実質勘当されたこと。
しばらくママはわたしをひとりで育てようと頑張ってたみたいだけど、ある日、ショッピングモールに置き去りにしたこと。
それを、たまたま友達と遊びに来ていた呉次郎が見つけたこと。
それからママとわたしはこの家で暮らすようになったけど、同時にママは子育てをダンディやばぁばに丸投げするようになったこと。
そしてとうとう、わたしが幼稚園に入ってしばらくしてから、いなくなったこと。
わたしが六歳のとき、ダンディが膵臓癌で亡くなったこと。
ダンディが亡くなってからばぁばはどんどん元気がなくなっていったこと。
ダンディの代わりになろうと呉次郎は大学を中退して働き始めたけど、運悪く環境がブラックで、気負っていたことも手伝って心身を壊してしまったこと。
そして、部屋に籠もるようになったこと。
ばぁばは呆ける時間が長くなり、結局、ある日家を出てそのままいなくなってしまったこと。
当時の俺は、
娘はどこの誰が相手かも解らない子どもを産み捨てて姿を消し、夫には先立たれ、残ったのは夫の親戚が亡くなったから引き取った義理の息子と、自分たちとは似ても似付かない見た目の孫だ。しかも義理の息子のほうは精神を病んで引き籠もってる。
むしろ、完全におかしくなる前に、この家から逃げた判断は正しいかもしれないとすら思った。あのひとも、決して強いひとではなかったから。
久那だけになったと知った俺は、それでも、自分のことしか考えられなかった。久那を守るためにもう一度頑張ろうなんて、一瞬たりとも思えなかった。緩やかに死に近付いていっていた俺は、補給が絶たれてこのまま死ぬのかな、なんて安穏と思ってた。あのころの俺にとって、もう人生は終わったも同然のものだった。
不思議に思ったのは、どれくらい経った後だったか。
久那が毎日毎日、扉の外から話しかけてきた。食事を置いていって……俺がトイレに行くときだけ部屋を出ると、部屋はどこも、全く荒れていないようだった。
信じ難いことが起きていると、すぐに気付いた。
久那が……十にも満たない女の子が、家の状態を維持していた。
そのとき俺の作ってた殻に、ヒビが入ったんだと思う。心はすっかりからからの雑巾みたいに乾いていたのに、置き去りにされた久那が死んでしまうと想像しても、哀れみすら浮かばなかったのに。
だけど俺は部屋からすぐに出られたわけじゃなかった。むしろ、頑なに引き籠もった。小さな身体で頑張り続ける久那を想像すると、なにもしてない自分が惨めになった。責められているように思った。
俺に、親代わりになれってことなのか、と想像して……できるはずがないと思った。まともに働くこともできず、引き取って貰った恩返しもできず、むしろ矢惠さんを追い詰めた。
だけどある日とうとう、俺は部屋を出た。ヒビは日に日に大きくなっていって、もう鈍いままではいられなくなった俺は、引き籠もり続けるほうがつらくなっていた。
「俺には、無理だ」
率直に、告げた。子どもになにを言ってるんだとは思わなかった。大人とか子どもとか関係なく、俺は自分が久那より上等な人間だとは全く思えなかったから。
「俺は、親になんてなれない。結局、知らないんだ。俺自身が、まともな、一人前の人間にすら、なれなかった。だから、俺は」
引き取ってくれた時貞さんと矢惠さんには本当に感謝していた。だけど結局俺はどこかで線を引いてて、ふたりを本当の親と思ったことはなかったと思う。本当の親は、物心つく前にいなくなってしまったから、俺にとって親というのは、見知らぬ客人のような存在だった。
とりあえず風呂に入れと促されて、一旦落ち着いてから久那は言った。
「できないことはできない。できることはできる」
どういうことかと尋ねたら、久那は笑った。眉はハの字で半眼の、今もよくするあの顔で。
「できないことを気にしてどうする、クレジー。わたしが見てきたひとたちは、みんなできないことがあった。いいか、みんなだよ?
わたしは、それよりもっとできなかった。でも、ばぁばに家事を教えてもらって、少し、できるようになった。けど、まだまだたくさん、できない。
お前には、子どものわたしにできないことで、できることがあるでしょ?」
情けない、と思うだろうか?
俺は最後までまともに聞いてられなかった。顔を覆って、声を上げて、嗚咽を漏らした。
「少なくとも、お前は……まだ、ここに」
つられるように、久那が言いながら声を震わせていった。
「わたしと……いて……くれ……る、もん……」
とうとう語尾が消えて、泣き濡れる俺に抱き着いた。
そしてふたりで、長い時間号泣した。
あのとき……まるで世界の全てから見放されたみたいな気分と、ここからもう一度生まれ直そうっていう気分が同時にやってきたみたいだったんだ。
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