第36話 最初から見えてなかったんだよ
「クーニャーっ?」
マコがわたしを呼ぶ声で、目が覚めた。
呉次郎はわたしが言ったからか追っては来なかった。もちろんわたしは簡単に眠れるような精神状態ではなかったんだけど、それでもいつの間にか寝たらしい。
「クーニャ、そろそろ起きないと遅刻するよ?」
わたしを揺するマコに「あと三時間……」と寝言の調子で返した。
「サボる気満々っ!?」
寝惚けてるわけじゃない。正直、学校なんて行く気分じゃなかった。というか、その前に呉次郎と顔を合わせられる気がしなかった。
「……クレジーはもう起きてる?」転がったまま、顔だけ向けて訊いた。
「や? まだ起きてきてないけど……そうだよね、昨日結構酔ってたもん。でもさすがに私が部屋に入るのはどうかな……クーニャが起こしてよ」
「わ、わたしが?」
自然としかめ面になる。だが、確かにマコに起こさせてまたなんとなくラブい雰囲気を作られるのは嫌だ。でもなあ……。
(……もしかしたら、昨日大分酔ってたし、記憶ないかも?)
とゆーかそうであってほしい。もしくは夢だと思っていてくれ。
と、無理矢理思うことにして、身体を起こした。
(そうだこっちが平然としてれば問題ない、
呪文のように心の中で唱えながら、呉次郎の部屋のドアを開けた。隙間から様子を窺う。
(……あれ?)
ドアを全開にして、中に入った。
呉次郎の姿がない。ベッドの上の枕とタオルケットは散乱し、デスクの近くにはビジネスバッグが放り投げられていた。
「クレジー?」呼んでみたが、返事はない。「ああそうか、トイレか」
思い至って廊下に出る。トイレには電気が点いてなくて、ひとの気配がない。ノックをしても返事がなく、開けると誰も入ってなかった。
「クーニャ?」
トイレの前で固まるわたしを怪訝に思ったのだろう、マコが声を掛けてきた。
わたしは返事をせず、玄関の電気を点けてみる。
呉次郎がいつも会社に履いていってる革靴数足は全てあった。
得体の知れない焦燥に背中を押され、わたしは片っ端から部屋を開けていく。
マコと樹に貸してる部屋では、樹が個性的ないびきをかきながらアクロバティックな態勢で眠りこけていた。わたしに気付いて「ん……? おはよ」と目を覚ましたが、声をかけずに部屋を出る。
もう一度呉次郎の部屋を開けたけど、さっきとなにも変わらない。もちろんわたしの部屋にも、リビングにもベランダにも、見慣れた姿を見つけることはできなかった。
「ど、どうしたの?」
振り向くと、一体どうしたという顔でマコが後ろに立っている。寝惚け眼ながら、異変を感じた様子の樹もいた。切羽詰まった顔になるのを止めようともせず、全力でマコに掴みかかる。
「クレジーがいない!」
「え、あ……うん。もう会社に行っちゃったのかな」マコが目を白黒させる。
「荷物があるんだ。靴も、全部ある。外出した痕跡がねえ! まるで、消えて……」
「ま、まさかぁ。と、とりあえず落ち着こうよ」
「落ち着いてられるか!」
衝動に任せて怒鳴りつける。
マコの言うことがもっともだと頭の片隅では受け止めつつ、それをかき消すほどの嫌な予感に襲われていた。腕には鳥肌が立っている。
この感覚を具体的に言い表すのは難しい。明確な根拠はない。
けど不意に、昔ママやダンディやばぁばがいなくなったときのことが浮かんできた。
もしかしてこのまま呉次郎は、いなくなってしまうんじゃないか。
そんな不安がとりとめもなく湧き上がってくる。
不意に目眩に襲われ、ふらついたわたしの身体をマコが支える。その肩にもたれかかりながら、歯を食いしばって体勢を維持する。
「……なんなんだ、これ……」
「クーニャ?」
「マコ。お前、なにか心当たりはねえのか!」
掴みかかると、マコは申し訳なさそうに顔を歪めた。
「……ごめん」
「本当になにもねえか? 頼む、なんでもいいんだ。思い出してくれ……昨日、わたしが意識を失った後、クレジーがなにか言ってなかったか!?」
一瞬、考えるように目を伏せるが、唇を噛んでそのまま黙ってしまう。
「樹!」
わたしは方向転換して、大柄な樹の肩に手を伸ばす。
「あ……えっと……」
その、なにかを言い淀む態度に、わたしは勢いづく。
「なにかあるのか!?」
「あ、うんとね……というわけじゃ、ない、けど……」
「クレジーについて、わたしが気付いてないことがあるなら教えてくれ。頼む!」
肩を掴んで揺さぶると、樹は一度顔を背けた。
わたしは目一杯瞼を開いて言葉を待つ。長い沈黙の後、根負けしたように樹が漏らす。
「わっしは……見えてないんだ」
その意図が解らず、わたしは「は?」と聞き返す。
樹がわたしに顔を向け、今度ははっきりと発音した。
「呉次郎君の姿が、わっしには最初から見えてなかったんだよ」
「……は?」
言葉の意味が胸に落ちても、やっぱりわたしはかすれた声で疑問を表した。
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