第34話 ひとつ、お願いをしてもいい?
▽
「ばぁば」
玄関でブーツを履いている途中のばぁばに、少し目線が高くなったわたしは声をかけた。
聞こえてないのかな、って感じで数秒反応がなかったけど、ばぁばはブーツを履き終えると、立ち上がって振り向いた。傍らには、ばぁばが入りそうなほど大きいスーツケースがあった。
「クーニャちゃん……」
その目は、迷子になった子どもみたいに心細げだった。
「お出かけするの? どこ?」
「……ちょっとねぇ。ごめんねえ、私は少し、疲れてしまったみたいなんだ」
「クレジーには言った?」
「ああそうだ」
ばぁばはわたしの声が聞こえてないみたいに手を打って、ハンドバッグから財布を取り出すと、その中に入っていた札を全部取り出して、わたしに握らせた。
「お小遣いをあげるよ」
抗えないような強さで押しつけられて、わたしはばぁばが、もう帰ってこないんだってことが解った。酷く寂しそうに笑って、ばぁばがドアを開けた。
「ばぁば」
わたしはもう一度呼んだ。ばぁばは振り返らなかった。
「……クレジーは、わたしにまかせて」
ばぁばの足が、止まる。
「ばぁばに、いっぱい、教えてもらったから。クレジーは、だいじょうぶ。約束する」
ばぁばは振り返らなかった。嗚咽のような短い声が漏れただけで、しばらくするとそのまま扉を閉めて行ってしまった。
▽
わたしは、呉次郎の部屋のドアを何度か叩いた。
黙って開けると、呉次郎がとても悲しい声で怒ることを知っていた。
返事はなかったけど、わたしは「そうだろうな」と思っていたから、ドアの向こうにある姿を想像して、話しかけた。
「クレジー」
呼んでもやっぱり、返事はなかった。わたしはひとりで話し続けた。
「ばぁばが、いなくなったよ。でも、わたしは、いるよ」
その他に言うべきことはないと思っていたし、それだけを解っていてほしかった。
▽
リビングの扉が開く音がした瞬間、キッチンの踏み台の上にいたわたしは「うへっ!?」と間抜けな声を出してしまった。だって、そんなことはあり得ないと思ってたからだ。
この家で自分以外の物音がするのは、呉次郎の部屋と、トイレくらい。もう随分長い間、そういう感覚で過ごしていたから、一瞬本気で泥棒か強盗かと思った。鍵閉め忘れてたっけ? と、野菜を切ってた包丁を強く握り締め、おそるおそる扉のほうを見た。
男が立っていた。
不摂生そのものの小太りな体型で、髪も髭も伸び放題で表情は解らない。前着替えたのはいつだろうっていう感じの服を着て、端的に言えば酷い臭いがした。
いつぶりに見たか思い出せなかった。だけど、わたしには考えるまでもなくすぐ解った。
「クレジー……」
「……み……ずを……」
口を動かしにくいのか、引きつったような声が漏れた。
わたしは呉次郎に水の入ったコップを渡した。それをゆっくり、乾いた土に染み込ませるように飲み干していく様子を、わたしはまばたきもせずじっと見つめ続けていた。
「……久那」
呼ばれた。そう認識した途端、わたしの頬を涙が滑り落ちていった。とても不思議な感じだった。嗚咽はなくて、ただ、涙だけが、新しい切り傷から漏れる血液みたいに流れた。
「……俺には、無理だ」
そう、呉次郎が言った。わたしは黙って聞いていた。
「俺は、親になんてなれない。結局、知らないんだ。俺自身が、まともな、一人前の人間にすら、なれなかった。だから、俺は……」
そこで呉次郎は黙ってしまった。続きがないことに、自分で気付いたような沈黙だった。
わたしも、しばらく黙っていた。呉次郎がなにかを思い付くかもしれなかったし、そうでなくても、わたしがなにかを思い付くかもしれなかった。
「ひとつ、お願いをしてもいい?」
そして、長い長い時間の後、わたしが先に思い付いた。
「……俺にできることなんて」
「できるよ」
わたしは断言した。励ますつもりなんて全然なかった。本当に、できると確信していた。
「お風呂に入ってくれない? 臭い」
呉次郎は、数秒棒立ちを続けてから、そのお願いを聞いてくれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます