第33話 かめらになるから。ずっと、おぼえてられるよ

 この日の呉次郎は、完全にどうかしていた。


 わたしは処理できない感情にやられ、そっぽを向く態勢でソファに転がる羽目になったし、呉次郎は酔ってるくせに寝に行くわけでもなく、テーブルで晩酌みたいに水を飲んでいる。正面にマコが座って、上機嫌に舌を滑らせる呉次郎に相槌を打ち続けていた。


 それはわたしにとっては、拷問に等しい時間だった。だってくだを巻いてる中身が、


「俺はね、久那はもっと幸せにならなきゃいけないと思ってるんだ。なのに……悔しいなあ。こんな、女子らしさの欠片もないDIYとかが趣味でホームセンター好きで、言葉使いも乱暴な変な女になりかけてるのは、きっと環境のせいなんだ。小さいころから色々あって、好奇の視線にさらされて、ひねくれて……歪んじまうしかなかったんだと思うんだ」


 このとおり、徹頭徹尾わたしのことなのである。脈絡もなく、ただ感情のままわたしに関する想いの暴露し続ける呉次郎を無視して寝室へ行ってしまうこともできず、しかしまともに聞いてるのにも耐えられず、こうして寝たふりに追いやられている。

 涙ながらに語る呉次郎は、唐突に声の調子をカイのような熱弁に変える。


「でもね! 俺は……俺はこいつのその妙なところすら可愛いんだ! 久那がどんな馬鹿をやってても、内心可愛くて可愛くて……そんなんじゃ駄目だって解ってるから、俺は、いついかなるときでも冷静に接しようと……聞いてるぅ? マコちゃん!?」

「あ、は、はい! もちろん聞いてますよ。ねえいつきちゃん?」


 絡まれ気味になって、マコは樹に振った。しかし樹の返事は数秒遅れる。


「あ……うん? ごめん、なんだって?」

「聞いてなかった!? じゃあ、もう一度言うよ?」


 この調子で、樹は何度振られても呉次郎の声が聞こえてないみたいにぼーっとした反応をするので、余計にさっきから同じような話が繰り返されている。

 想像してみてほしい。高校生にもなって自分の家族が、同級生に対して自分をひたすら褒めちぎっている光景というものを。ね、拷問でしょ?

 かけられたことのない言葉を聞いて嬉しいはずなのに、素直に喜べない自分がいる。


(これなら、普段のちょっと冷たいクレジーのほうが全然いい……)


 いっそ本当に、さっさと眠ってしまいたい……と思ったからかどうか解らないが、そのうちわたしの意識はリビングから失せ、また過去の映像を再生するのだった。


          △


「ダンディ?」

「おお……クーニャちゃん」


 ダンディは横たわっていた。頭にはニットの帽子を被っていて、腕と鼻にはたくさんの管が繋がっていて……今なら解る、病室だ。白いワンピースを着た小さなわたしはベッドの横に立ち、後ろには呉次郎が立っていた。


 元々骨張った身体からはさらに肉が削ぎ落とされたみたいで、眼球は窪み、顔色はどす黒い。わたしが話しかけても上体を起こすことはなく、僅かに笑った口元にも力はない。

 率直に、骸骨みたいに不気味な顔だと思う。少し気後れしながら、訊いた。


「ダンディは、いつかえってくるの?」


 もう長い間、家にダンディの姿がなかった。ばぁばは怖い顔で忙しそうにしていることが多くて、呉次郎はぼーっとすることが多くなった。


「そうだなあ……いつ帰れるかなあ。帰ったらまた、遊びに行こう」


 こちらを見ているようで見ていないような目のダンディは、それからしばらく黙って、ひとり言みたいに呟いた。


「……なあ、クーニャちゃん」

「なに?」

「もしこのまま俺がいなくなったら……俺を、忘れてしまうかな」

「……ダンディ? いなくなっちゃうの?」

「クーニャちゃんはまだ小さいから……きっと、忘れてしまうだろうね。でも、それがいいか。悲しい思いを覚えてるくらいなら、俺のことも……華のことも、いっそ忘れてしまったほうが」

「時貞さん」


 呉次郎が後ろで、引きつった声を漏らした。ダンディは虚ろになにもないところを見ていて、わたしに言ったというよりは、半分夢の中にいるみたいだった。

 わたしには意味が解らず、何度かダンディと呉次郎の顔を見る。それから


「わすれないよ」


 と言った。その言葉で、我に返ったみたいにダンディの目に光が戻った。


「クーニャちゃん……?」

「くにゃ、かめらになるから。ずっと、おぼえてられるよ」


 今のわたしが、息を呑む。


(そう、だった……)


 なにが「わすれないよ」だ。完全に忘れてた。


 ダンディは写真を撮るのが好きで、週末にはよく登山に出かけてた。ひとりで行くことが多かったけど、帰ってくると現像した山の写真を見せてくれた。

 ダンディは写真については「見て感じるもんだ」と言ってあまり語らなかったけど、その分カメラについて、子どもに聞かせるレベルじゃないくらい詳細に語った。もちろん意味は全然解らなかったけど、とても自慢げに、嬉しそうに語るダンディを見ているのは好きだった。


 それで幼いわたしの中には「カメラが凄いものだ」ということと「カメラは撮影したものを忘れない」ということが刻み込まれた。だからきっとこのときのわたしは、なんだかよく解らないけど明らかに忘れてほしくなさそうに見えるダンディを安心させたくて言ったのだ。


 カメラになる、と。


 それを将来の夢として願ったのだということは、その場面を再生しなくても解った。

 ダンディはわたしの知ってる優しい目になると、ゆっくり、震える指を伸ばしてきてわたしの頭に置き、ぎこちなく、ほんの僅かだけ動かした。撫でてるんだ、というのが当時のわたしには解らなかったけど、今のわたしにはすぐに解った。




「クレジー。ダンディはどこいったの?」

「久那……」


 ソファでうなだれる呉次郎の見た目は、今とそう変わらない。だけど顔に深く濃い疲労が浮かんでた。

 ちっちゃいわたしは呉次郎の隣に座って、その横顔を見上げた。


「……あのひとは、恩人だった」


 質問の答えになってないと、当時のわたしにだって解った。けど続きをわたしは待った。


「俺の……父さんだった。本当に、父さんになろうとしてくれた」

「……クレジー?」

「久那。ばぁばはどうしてる?」

「……しゃべらないの。はなしかけても」

「そう……か」


 呉次郎が静かで、なんだかいつもと違うひとみたいで怖くなったから、わたしは手を繋いだ。

 驚いたみたいに呉次郎の手に力が入って、でもすぐに抜けて……握り返してくれた。


「俺が、しっかりしないとな」

「クレジー……」

「大丈夫。久那は、大丈夫だ。俺がいる。俺は、約束したから」

「やくそく?」


 それから呉次郎は返事をせず、思い詰めたように前を見続けてた。

 今のわたしが見ても、とても怖い顔だった。

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