第32話 わたしを抱きかかえる呉次郎も、生温かく見下ろすマコも、そしてわたし自身も下着姿になる

 それから、数日が経った。


 呉次郎は仕事、わたしは学校、マコと樹は『願』の回収を続けていった。

 夜は三人、呉次郎が早めに帰ったときは四人で卓を囲んだ。


 わたしは遅れてやってきた思春期の娘みたいな態度しか取れなくて、呉次郎は困惑気味だったけど主にマコが間を取りなした。わたしはその度に呉次郎がマコに優しい言葉をかけるのでイラッとしたが我慢した。


 話を聞く限り、樹とマコの回収作業は順調に進んでるみたいだった。マコが苦手なタイプの男子が相手のときは、わたしも放課後付き合った。


 過去の再生は、時々不意にやってきた。


 眠ると必ず、というわけじゃないけど、たまに、ダンディやばぁばと過ごした時間が夢を見るように再生される。呉次郎も登場回数は多く、ママはほとんど出てこない。小学校のときのハジやカイが出てくることもあった。その大半は、なんてことはない日常の風景だった。


 そして唐突にそのときはやってくる。


 変化というのはいつだって日常にさりげなく隠れていて、気付かないうちに取り返しの付かない大きさに成長する。そして一気に表に現れ、人生を大きく変えてしまうのだ。それはまるで小さなしこりが腫瘍になり、癌になって身体中に転移していく様に似ている。


 後から考えればカメラになったこと、呉次郎を過剰に意識し始めたこと、なんてのは『取るに足りない変化』だった。その日を境に、わたしの世界は一気にその色を変えてしまう。


 ある夜のことだ。呉次郎が、酔っ払って帰ってきた。


 飲み会があるとは聞いてた。けど酒が弱い印象もないし、ほろ酔い程度しか見たことがなかったので、驚いた。悪酔いというわけでもなく、ふらついてはいたけど、やたら上機嫌だった。


「おー久那ぁ、ただいまぁ」


 玄関で出迎えたわたしに、靴も脱がず抱き着いてきた。


「なっ、な……っ」


 少し前までなら、呆れて冷静に対処できただろう。

 けど最近のわたしは自分でも解っているとおり自意識過剰で、思わず身体が硬直する。顔どころか身体まで熱くなるのを感じながら、やっとの思いで声を出す。


「な、なんでそんな機嫌いいんだよ。狙ってる女に告白でもされた?」


 冗談の感じで言うつもりが、棘っぽくなってしまって自分で焦る。


「あ?」呉次郎がわたしから身体を離す。「狙ってる女ぁ?」


 壁にもたれかかりながら、わたしを据わった目で見てくる。


「そんなん、いるわけないだろぅ? お前みたいな手のかかるのがいたらなぁ」


 酔ってるとは言え、呉次郎の感じはいつもと変わらない。つまり、呆れ気味の冷たい調子だ。


「お、お前のほうが」


 よっぽど世話させてるじゃないか! と言うつもりで口を開いた。

 けど、言えなかった。途中で嗚咽になりそうだったからだ。


「……悪かったな」


 わたしは誤魔化すように言い直す。途端に心臓に穴が空くような感覚に襲われ、制御を失った声帯がひとりでに、普段口に出したことのない思いを言葉にしてしまった。


「わたしのせいで、自由に生きられなくてごめんな!」


 逆上気味だけど、それは本音だった。

 いつだって自覚はしてた。わたしは呉次郎の人生を邪魔している。同年代が当たり前のように過ごせたはずの二十代の選択肢を、わたしが奪い続けていると。


(なんだよ……わたし)


 どうして今それを言ってしまったのかは、自分でも解らない。いたたまれない気持ちになり、そのまま出て行こうとした。けど、呉次郎に腕を掴まれた。


「なぁに言ってんだ? お前ぇ」


 控えめに見上げると、呉次郎は本気で困惑を浮かべていた。そして次の瞬間、少年みたいな無防備さで笑った。わたしから一切の思考を奪うひと言をこともなげに繰り出す。


「久那は可愛い」


 身体中の産毛が、逆立つ感覚に襲われた。

 酔って目が据わっているけど、視線は真っ直ぐわたしに向いてて、表情は本音と疑いようもないほどの笑みで、声は大きくもなく小さくもなく、とても温かくて。

 そもそもそんな言葉を、小さいころを含め、呉次郎にかけられた記憶が一度もなかった。


「……今、なんて」

「俺はお前が可愛い」


 全身から力が抜ける。倒れそうになるのを呉次郎が支え……ようとして、酔っ払ってるせいでバランスを崩して一緒に倒れ込む。呉次郎が玄関に尻餅をつき、わたしはその腕の中にいる。呉次郎が、わたしの頭をそっと撫でた。


「解るか? 久那」

「……な、なにが?」


 全身の血管が弾け飛びそうだ。身体に力が入らないのに、身動きが取れないほど硬直してる。


「お前がいるのが、どんなに素晴らしいことか。丁寧に説明してやる」

「や、やめてよ……ど、どうしていいか解んなくなる」


 顔が熱い。下を向いて目を閉じる。自分が今どんな顔をしてるのか、誰にも見られたくない。


「ほら可愛い。な、そう思うだろ?」

「し、知らないよ」

「マコちゃん」

「はい、そうですね」


 マコちゃん?

 続いた第三者の声にわたしは一気に血の気が引いた。力を取り戻した首を上に向けると、


「クーニャはとてつもなく可愛いです」


 マコが天使の笑顔を浮かべていた。


 わたしはわたしを抱きかかえる呉次郎も、生温かく見下ろすマコも、そしてわたし自身も下着姿になるのを知覚しながら、震えて全力で叫んだ。


「みんなあっちいけぇええええええええええええええええええええええええっ!」

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