第31話 両手に花、もとい両手に鼻フック
そして翌朝、わたしは困っていた。とてつもなく困っていた。こんなに困ったことは今までの人生に一度もなかった、と断言できる。
「久那? お前まだ支度できてないのか。先行くぞ?」
「う……うん。いってらっしゃい」
着替えもそこそこにトーストを囓るわたしの視線は、窓の外へ向いている。
呉次郎が怪訝な顔をしてるのは気配で解ってる。
「……変な奴だな? いつも変だけど」
やかましい、と叫び返せばいいのに、とっさに言葉が出ない。口の中にあるトーストをもごもごしてると、呉次郎はマコと樹のほうを見て「行ってきますね」と言って出ていった。
「クーニャ」途端にマコが話しかけてくる。
「なんだよ?」わたしは目を逸らしたまま応じる。
「……具合は悪くないんだよね?」
「ああ。昨日は世話かけたな」
「それは全然いいんだけど、くれさんと喧嘩とかした?」
「してねえよ」
「あのさ……」
「だからなんだよ?」
「顔、真っ赤だよ?」
「見んな!」
わたしはトーストでマコの視線を遮る。
「さっき、毛穴から血が噴き出したんだ」
「誤魔化すならもう少しスプラッタ臭のしない言葉を選ぼう……」
マコは苦笑いをしている。
「可愛いけどさあ。なんでそんなに照れてるの?」
「は、恥ずかしいんだよ。あ、あんな……ちっちゃい子どもみたいな」
どうしてあそこまで心細くなったのか、どうして目が覚めて呉次郎の顔を見た途端、なりふり構わずすがり付いてしまったのか、自分でも解らない。後から我に返って、死にたくなった。しかも当然、感情が昂ぶっていたのでしっかり自分の中に録画されてしまった。
「ぜ、絶対変に思われてる。今までクールなイメージでやってきたのに」
「再会数日の私が言うのもなんだけど、それは馬の糞をチョコと言い張るようなものだよ」
「麻子ちゃん、食事中」樹が抗議する。
「……もう、クレジーの顔をまともに見られない。どうしよう」
トーストを皿に置いて、わたしはテーブルに肘を突き両手で顔を覆った。
「……か、可愛い」
「乙女だねえ」
マコと樹がなんか言ってるけど、反応する気力もない。
「さすがにもう、認めるでしょ?」
「……なにが」指の隙間から上目遣いをする。
「それが恋だって」
「……だから、なんか違うんだって」
否定するわたしに、樹が身を乗り出す。
「うーん、前提が食い違ってるのかもしれないよ?」
「前提?」マコがまばたきした。
「ふたりに質問。『恋とはなんでしょう?』」
わたしはマコと顔を見合わせ、順番に言った。
「肉欲の入口」
「この世で一番強い、他人へ向ける純粋な想い」
言わなくても解ると思うが、前者がわたしである。
「……お前、恥ずかしい奴だな」
身体を引いてマコを見る。だが、マコのほうもわたしに同じような目を向けている。
「クーニャこそ、なにその昼ドラみたいな答え」
「ほら、ふたりとも定義が違った。ちょっと想定以上だったけど」
樹が引き気味に笑う。
「ま、どっちが正解とも言えないけどね。たださ、クーニャちゃん。一応忠告だけど」
「忠告? お前が?」
「そんなゴミを見る目で見なくても……えっとね、『名前』は付けたほうがいいよ」
「『駄目女』」指差すと樹は悲愴な表情をした。
「うう、わっしのことじゃないってば……その、感情の名前だよ」
「なんで?」
「名前のないものを、ひとは認識できないから」
「はあ?」
「言い方を変えると、ひとは名前を付けることによって、その存在を初めて認識できるんだ」
「なんだそりゃ? また、神様的な話?」
「うん、まあそうとも言えるし、違うとも言える。マコちゃんなら解るんじゃない?」
「原始の呪術」
マコが、考えるまでもないという感じで人差し指を立てて答える。
「そうだね。一番基本的な呪術は、『名付け』だと言われる。例えば『空気』って言葉があるけど、目には見えない、触れても気付けない。厳密に言えば複数の気体がブレンドされているこの存在を、定義とともに名付けるまで、人間は認識できなかった」
「……なるほど」
「他にもね、例えばその辺に生えてる植物……ナズナ、ハコベ、カタバミ、ヒメジオン、タンポポ……これらは、それぞれの名前を知らなければ『雑草』とひとくくりにされる。名付けを細分化すればするほど、世界の認識は多層化する」
「それは解ったが、なんでそれが『呪術』なんだ?」
「幾つか意味はあるんだけど、その『もの』と『名前』を紐付けるということは……『縛られる』ということだからね。一度『タンポポ』と認識した雑草は、もう『ナズナ』にはなれない。特定されることは、捕捉されることに等しい。名前を呼ばれて返事をすると瓢箪に吸い込まれる、みたいな昔話があったろ? 名前が付いてなかったら、あの術にかかることはあり得ないからね。名付けはとても意味のあることなんだよ、良くも悪くもね」
「……嫌なあだ名で呼ばれたりするってのも、そのひとつか」
「ああ、そうだね。だから『駄目女』は勘弁してよ?」
「つまり私の
マコが軽い溜息交じりに言う。名前がそのものの在り方に影響を与えるほどとても大きい意味をもつもの、という考え方はわたしにもよく解った。
だって、だからわたしは久那なのだ。
「んでだね、クーニャちゃん」
樹が解説モードのやや真面目な口調を崩す。
「名前が付けられるのは物理的に存在するものだけじゃない。感情もそのひとつさ。だから、別に『恋』でも『友情』でも『家族愛』でもいいんだけどさ、君の、呉次郎君に対する感情がなんなのかは、名前を付けられるくらいちゃんと理解したほうがいいと思う。時間をかけてでもね」
わたしは樹に苛立った変顔を向ける。正直、癪だった。言わんとすることがよく解ったからだ。このちゃらんぽらんな印象の女の言うことがとても正しい、と認めるのに抵抗がある。
それでもわたしは頷いた。認めず見過ごしてしまうことの恐怖が大きかったからだ。
「解ったからさ……あの……マコ、樹」
「うん?」「なに?」
「……しばらく、クレジーとちゃんと話せる自信がないから、フォローしてくんない?」
目を逸らしてぶっきらぼうに、できる限りさりげなく言った。だけど無駄だった。
マコと樹は目を輝かせると椅子から立ち上がり、
「可愛いぃいいっ!」「任しといてぇーっ」
とわたしにまとわりつく。
数秒後のわたしは両手に花、もとい両手に鼻フックを実行する。
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