第30話 この子が大人になるまでは、なにがあっても、います
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「……まま、どこ?」
見上げるわたしに、ばぁばは酷く困ったような顔をした。ダンディは膝を折って、わたしと同じ目の高さになる。そして寂しそうに笑いながら、わたしの両肩に手を置いた。
「少しな、出掛けたんだ」
「くにゃもいく」
「それは……無理だ」
「なんで?」
「ちょっと、遠くに行ったからな」
「どこ?」
「なに、そのうちきっと戻ってくるさ。それまで、俺たちと遊んでいよう」
「なんで?」
「……いい子にしていれば、きっと、ママは帰ってくる」
「……あなた」ばぁばは口を押さえて、泣きそうな顔をしていた。
「くにゃ、ままとあいたいよ」
ばぁばが顔を背けて、嗚咽を漏らす。
つられてわたしの喉の奥からも、涙の芽が生えてたちまち鼻と口の中に広がった。
泣き出したわたしが疲れて眠るまで、ダンディは抱き締めて離さなかった。
次に気付いたときには、ソファの上でまどろむわたしの頭に、ダンディの大きな皺だらけの手が置かれていた。時々、思い出したように撫でる手つきは無骨だけどとても優しい。
「
わたしは意識の片隅でその声を聞いた。今よりもずっと若い、呉次郎の声だ。
「……ああ。呉次郎。またクーニャを、見つけて……連れ帰ってくれてありがとう」
「……いえ」
「俺は……どこで間違ったんだろうな。あ、いや……すまん、なんでもない」
「……俺にできることがあれば、言ってください」
しばらく間があって、また、ダンディの声がした。
「馬鹿な頼みだと言われるかもしれないが」
「はい」
「この子の傍にいてやってくれ」
「……大丈夫ですよ。一緒に、住んでるじゃないですか」
「そうだな。だがそれ以上に……俺たちは、もう、この歳だ。この先、いつどうなってもおかしくはない。お前にこんなことを言うのは間違ってるかもしれないが……」
「解りました」
ダンディの言葉には続きがありそうだったのに、呉次郎の声は途中で答えを出した。
「この子が大人になるまでは、なにがあっても、います」
「……ああ。頼む」
「くれじぃ」
「……俺はじぃさんじゃない」
わたしの髪は、濡れていた。床もびしょ濡れで……掌が、真っ黒だった。絵の具だった。
「どうして、くにゃ、みんなとちがうの?」
「違う?」
呉次郎がわたしの掌を、触れるように取った。呉次郎の手にも、黒い色が付いた。
「どこも違くないよ。同じ言葉を話して、同じような身体を持って、同じように笑える」
「でも、かみも、めも、なまえも、へんだって。だから……おなじにしようとしたのに」
「クーニャ……」
「わたしは、わたしをやめられない」
呉次郎は絵の具が服に付くのも構わず、わたしの身体を腕ですっぽり覆った。
「わたし、しってるの。みんな、ほんとはなまえのじ、かっこいい。でもわたしにはない。みんなとちがうから、ないの」
「……あるよ」
「……え?」
「ある。あるさ」
呉次郎はそう言って、一度部屋へ行ってメモと鉛筆を持ってきた。そして、こう書いた。
『久那』
「……これ?」
「ああ。これだと『くな』だけど……」
「くな?」
「あ、そうだ……お前は俺を『くれじぃ』って言うけど、本当の名前は『くれじろう』なんだ。だから、そうだな……これから俺はお前を『くな』って呼ぼうか。もちろん、お前が嫌なら」
「くな」
「……ああ」
「くな」
繰り返したわたしの声は涙に滲んでいた。だけどそれは、どこか安心したような響きだった。
▽
「久那」
呼ばれて薄く目を開ける。
右の掌に温かい感触があって、わたしは考えるまでもなくすぐに誰に呼ばれたのか理解する。
瞼を完全に開いた瞬間、嘘みたいに、涙が溢れた。
「ぐれじぃ」
呼んだ声は全然言葉になってなかったけど、構わずわたしは呉次郎の首根っこに齧り付く。
「どうしたんだよ?」
背中に掌を置き、呉次郎は困惑気味の声を出す。
「具合悪いのか? なんか、ずっと眠ってるってマコちゃんから聞いたけど」
「会い……だがっ……だ」
言葉にならない声に軽く噴き出し、少し笑ってから呉次郎は大きく溜息をつく。
「なにを言ってんだお前は。初めて幼稚園に預けられたガキか」
「いなく、ならないで」
「はあ? お前は俺を家から追い出すつもりか? 寝惚けるな、ご乱心娘め」
嫌気がさしたような調子で捻り出す。
声は全然優しくなかったけど、そのくせ呉次郎はわたしの身体を引きはがすそぶりを見せることは一切なかった。ずっと、ずっと。
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