第7話 つまりガラスに張り付く変態は女子である

「痛ったぁ……」


 ハジは沈黙した。とは言えわたしも相応の衝撃を受けて涙目になる。額を押さえながら、大きな音がした窓に目を向ける。


 変態が張り付いていた。


 いやのことじゃない。わたしたちが座ってるのは窓際のテーブル席で、わたしの左が一面のガラス壁になっている。そこに、新規の変態が張り付いていた。


 いや失礼。変態と言い切るのは早計かもしれない。だがしかし、こちらに向かって両手と顔面を張り付けて驚愕の表情を浮かべるそいつが、まともな人間だとは考えにくい。


 その人物はガラスの存在を無視して、こちらへさらに進もうとしているかのような形相だ。血管が切れそうなほど見開かれた巨大な目の中で、眼球の黒い部分がぎょろっぎょと滑らかに動いてわたしたちを捉える。唇が空気を貪るようにばくりばくりと蠢き、なにかを言ってるのが解る。ガラス越しで聞こえないが、口の動きから推測すると、こうだ。


 みいぃつぅけたぁああああ。


 わたしは今までの話の流れを一瞬綺麗さっぱり忘却し、平坦な真顔をガラスに向けて呟いた。


「こんなとき、どうするのが正解なんだろう?」

「通報かな」


 答えたのはなんとハジだ。気絶してるんじゃないのかってくらいめり込んでたのに、もう復活して変態に目を向けている。あまりに冷静なコメントに、わたしはさっきの怒りを忘れる。


「通報って言っても、なんて?」

「『ハンバーガーショップで、不審者が窓に張り付いてこちらを呪ってくるんです』とか?」

「それで警察は動くの?」

「さあ?」


 実際にはわたしもハジもスマホに手を伸ばそうとはしない。驚きはあるが、危険を感じてはいなかった。むしろその有様は滑稽であり、水族館でガラスを突き破ろうとするアザラシでも見ている気になった。この唐突な闖入者、つか珍入者を楽しみ始める余裕が湧いてきていた。


「あ、そうだ。せっかくだから」


 ハジがおもむろに一眼レフのシャッターを切った。機関銃みたいな連写音が響く。


「ハハ。呪いの写真みたいなの撮れた。見ようによっちゃ可愛い」


 何故怖くないのか、という理由のひとつは、この行為の中にある。


 ハジは先に述べたとおり写真を愛してるわけじゃない。女子の写真を愛している。つまりこの男は女子以外のものには決してシャッターを切らない。厳密に言うなら猫や無機質なビル群や鮮やかに紅葉した山々を撮ることもある。が、その全てに、大なり小なり女子が写っている。


 ハジにとって、世界の全ては女子の魅力を引き出すための背景であり小道具である。その美しさを引き出すためなら、舌打ちしながらその子の彼氏すら利用するという徹底ぶりだ。

 そのハジがシャッターを切った。つまりガラスに張り付く変態は女子である。


 前髪ややぱっつんな黒髪ショートに淡いブルーのデニムキャップを被っている。首と腕と裾にレースの装飾が付いた黒いタートルネックセーターを着ており、浮き出る身体の線は細く柔らかい。下半身はカーキのショートパンツに黒いストッキング。足下も黒いキャンパススニーカーで、背中にはこれまた黒い小さめのリュックを背負っていた。全体的に黒いけど、ポイントで色を差しててお洒落に見える。ぱっと見、わたしたちと同じくらいの歳に見えた。

 ひと言で言えば、全体的な雰囲気は『可愛い女子』なのだ。ただし形相は除く。


「マコちゃん……」


 おもむろに呟いたのは、カイだ。振り返ると、まるで写真の中の人物のように視線も身体も固まっている。思わず漏れてしまった、という声だった。なんだ? 知り合い?


 こんこん、と、ノックするような音がして、わたしはもう一度窓を見る。

 へばりつきながら見下ろすその黒髪ショートの女子が、顎をしゃくらせてくいっくいっ、と横を示した。表に出ろ、という意味だろう。


 わたしはハジと顔を見合わせた。アイコンタクトで一瞬のうちに意思疎通をして、頷く。

 仕方ない、という感じでわたしは残っていたシェイクを底まですする。ずず、という音をさせながら立ち上がって、バッグを肩に掛けた。ダストボックスへごみを放り込んで、外へ出る。


 そして、女子がいるのとは逆の方向へ歩き出す。


「学校行く?」追いついてきたハジが隣を歩く。

「んー、もう気分じゃないなあ。結局なにも解らなかったし」

「あ、そういえばね。タイミング逃して言えなかったけど、さっき頭突きされたとき」

「また変なこと言うつもりか? 変態」

「変態は否定しないけど、そうじゃなくて」

「否定しないのか……気持ち悪いよ」

「いつもどおりだろ?」

「いつもどおりなら許されると錯覚するなよ」

「待てぇええええええええっ!」


 背後から叫び声が近付いてきた。

 アスファルトを蹴る靴の音に振り返ると、黒髪ショート女子が棒状のものを振り上げ、襲いかかってくるのが視界に入ったので軽く横に跳ぶ。


 衝撃が全身を襲った。


 なんで!? 避けたのに! 驚きながらわたしはアスファルトの上に倒れ伏す。


「いきなり飛び出すんじゃないよ!」


 痛みに耐えながら顔を上げると、見知らぬ黒髪パンチパーマのおじちゃん、みたいな顔をしたおばちゃんが凄んでいた。自転車上で。なにが起きたのか悟る。

 攻撃を避けて跳んだ先に、おばちゃんの自転車が走り込んできて轢かれたのだ。や、この場合おばちゃんからすれば、突然目の前にわたしが飛び込んできたことになるんだろう。


「……ご、ごめんなさい」


 おばちゃんの覇気に、わたしの口から素直な謝罪が飛び出す。若干涙声になってるけど、しょうがないじゃん。マジ大迫力だもん。

 おばちゃんは「どいて」と舌打ち気味に言い、わたしは這うように道を空けた。ペダルを漕ぎ始めたおばちゃんの姿が、徐々に小さくなっていく。


「……くそばばー」


 ごくごく小さな声で呟いた。


 おばちゃんの自転車が止まった。首から上だけで半分振り向き「ん?」みたいな目で見てくる。わたしは背中までの金髪を振り乱して土下座し、心の中で念仏のように唱えた。なにも言ってません本当にすいませんでした今度から気をつけます申し訳ありません。


 そのまま十数秒、さすがにおばちゃんはもう行ったって確信してから、わたしは顔を上げる。


 ハジと黒髪ショート女子が、見下ろしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る