第2話 ほら、自分の下半身を見てごらんなさいよ
「うわぁあああ!?」
スマホのアラームに続いて、耳のすぐ傍で破裂するような大声が聞こえ、一気に瞼を開いた。
眼前には呉次郎の、幽霊でも目撃したみたいな顔があった。
「な、なにしてんだ久那!?」
「あら、おはようダーリン。昨晩は素敵だったわ」
わたしはアラームを止めながらからかい気味でにやついた。
「は、はぁあっ?」
「覚えてないの? ほら、自分の下半身を見てごらんなさいよ」
「……うわっ」
呉次郎はタオルケットをまくって、ズボンを履いてないことに気付く。
「て馬鹿」
さすがに騙されることはなく、わたしの額を軽く叩いた。
「驚くからやめろよ」
「ならちゃんと寝る準備をしてから寝ろ」
咎めるような物言いに、わたしは一気に不機嫌になって唇を突き出す。
身体を起こして壁時計を確認すると、六時を過ぎたくらいだった。
『タオルケットをクレジーにかけてしまってわたしの分がない』
『クレジーをいつもより早く起こしたい』
このふたつを叶える方法として、呉次郎のベッドに潜り込んで眠った。アラームで少しだけでも意識を覚醒させたとき、わたしが目の前にいれば二度寝はできないだろうと踏んだのだ。
「なんで今日に限ってこんな悪戯を?」
呉次郎が欠伸をしながらベッドの上にあぐらをかく。
「悪戯ぁ?」わたしは正面から向き合って、軽く睨む。「昨夜の発言、覚えてないの?」
「……なんだっけ?」
「話を聞いてくれるって言ったじゃん! 疲れてるから、朝に、って!」
「そうだっけ? とりあえずシャワー浴びてきていいかな?」
平然と言う呉次郎への怒りを抑え込みつつ、それでもわたしは鼻の穴を膨らませた。
「四十秒で浴びてこい!」
「な、なに怒ってんだよ。勝手に潜り込んできたのは久那だろ?」
傷付いた顔をして呉次郎が部屋を出て行く。被害者面すんな、と尻を蹴っ飛ばしてやりたかったけど、ここで喧嘩するとまた話を聞いてもらえなくなると思って我慢した。
さすがに四十秒じゃ帰ってこないのは解ってる。呉次郎がシャワーを浴びてる間にわたしは身支度を調えて、レタスとコーンとトマトのサラダを作り、トーストを二枚焼く。ベーコンとチーズを挟んで卵を焼いた。四人がけのテーブルに、向き合うようにふたつ、ランチョンマットを敷いてワンプレートにしたサラダと卵焼きを置く。トーストは角と角に線を引くように四つ切りにして、バスケットに入れた。さらに空のグラス、ストロベリージャム、ブルーベリージャム、パックのミルク、ペットボトルのアイスコーヒーを配置した。
準備ができたのとほとんど同時に、バスタオルを首に巻き、ワイシャツとグレーのスラックスを着た呉次郎がリビングに姿を見せた。まだ黒い髪が半乾きで艶めいてる。ちなみに側頭部は短いけど耳から上はやや長めで、かなりの癖毛なので乾くとわかめみたいになる。
「んで、話って?」
向かい合って座ると、四分の一トーストにマーガリンを塗りながら呉次郎が切り出した。
太い黒縁の眼鏡のせいか、わたしがしっかりアイロンをかけてる真っ白なシャツのせいか、こうしてると(中身と裏腹に)理知的でしっかりした大人に見えるから不思議だ。
「あ、その前に、コーヒーでいい?」
わたしは訊きつつも、半ば肯定を確信してたので返事が聞こえる前に注いでいた。自分のグラスには牛乳だけを入れ、呉次郎のほうにはほんの少しだけ垂らす。
それから、膝の上に両手を置いて、できるだけ真面目な顔をした。これから言うことが、容易に信じ難いことだと自覚していたから、せめて、真剣さが伝わるように、と思った。
呉次郎はそれを感じ取ったのだろう。ジャムを塗ったトーストの切れ端を口に突っ込む手を一旦下ろす。これは本当に真面目な話みたいだ、という感じで、真摯な表情になってくれた。
正直な話、わたしは昨日から相当に動揺していた。だけどそれを表には出すまいと決めていた。だって、変に心配はさせたくなかったから。
わたしはもうあなたの知るわたしじゃない、という気配を滲ませて潤んだ瞳で見つめる。
そして、空気に溶かすような声で言った。
「わたし、カメラになっちゃったんだ」
その瞬間呉次郎の真っ黒な瞳から光が消えて感情が失われ、
「へぇ、そうなの」
棒読みの相槌が唇から真下に落ちた。
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