6.

『全戸自動施錠装置の作動まで十、九、八……』

 天井のスピーカーから声が聞こえる。

『三、二、一』

 突然、交番の狭い部屋に『ゴンッ』という重い音が響いた。

 驚いて音の方を見る。

 鉄製の扉だ。

 自動施錠装置とやら、か。

 A・Xが言うには、このまちほとんどの建物には、頑丈な鉄製の扉と、電気で動作するじょうが備わっているらしい。

 錠の電源は慢冥まんめい市の役所で集中管理されていて、『霧』の発生予想時刻の五分前に、一斉に通電される。

 街中の建物が、役所によって一斉閉鎖される訳だ。

 僕は、窓の外を見た。

 暗い。

 この『交番』の室内もそれほど明るくないけれど、外の街はさらに暗い。

 厚い窓ガラスを通して、通りの向こう側のガス街灯が見えた。

 0時0分を指した逆回りの時計……計時装置タイマーは、59分、58分、57分……と、逆行し続けた。

「あまり窓の外を見ない方が良いぞ」

 若い警官が言った。

 僕はその若い警官の方へ振り向いた。「どうして?」

「この街に来たばかりなら知らないだろうから教えてやろう……霧の中には怪物が居る。見ただけで、目が合っただけで精神が汚れる。一度や二度窓の外を見たくらいでは何という事もないが、回数を重ねるごとに着実に心の汚れが溜まっていく。酒やタバコと一緒だ。一杯を、一本をんだくらいじゃ大した影響は無いが、喫み続ければ毒素が蓄積され、それが体をむしばむ」

「おい、そろそろ電燈あかりを消したらどうだ?」A・Xが若い警官に言った。

 言われた警官が壁のスイッチを切った。交番の中が真っ暗になった。

「なぜ?」と僕は問う。

 問うた相手は、二人の警官のどちらでもない。中年の警官A・Xでも、若い方の警官でも、答えてくれるならどちらでもいい。

「窓の明かりが外に漏れると、怪物どもをひきつけてしまう」A・Xが言った。「交番の窓ガラスは厚いからな。怪物でも破るのは簡単じゃないだろう。しかし外からの『視線』は通してしまう。外からジッと見られるのは気持ちの良い事じゃない。覗いているのが怪物なら、なおさらだ」

「それが『心の汚れ』になるんですか?」

「いや、こちらから怪物を見返さない限り害は無い……ただ、気持ち悪いだけだ」

 話しているうちに、分針が55を指す。

 言われた通り、あえて窓を見ないようにした。

 視界の外で窓が白っぽく光り始めたのが分かった。

 反射的に窓を見ようとする僕をA・Xが制止する。「見ない方が良いぞ」と。

 僕は慌てて視線を窓の反対側へ向ける。

 室内に侵入する白っぽい光が強くなっていく。

「朝だ」A・Xが言う。

「え? 何ですか」僕はA・Xを見た。

「この慢冥まんめい市には昼が無い。ずっと夜が続く……だが、街に霧が満ちた時だけ朝がやって来るんだ。そして霧と共に光は去って、また夜に戻る。落ち着いた心穏やかな夜に、な」

 この街では、夜が平穏を象徴あらわし、朝の到来が危機を象徴あらわすのか。

 街の外の世界とは逆だな、と思い、直後に(外の世界って、何だ?)と思った。

 列車の中で目覚める前の記憶を、僕は持っていない……はずだ。

 それとも自分自身も意識できない心の奥底に封印された記憶でもあるのだろうか?

 ふと視線を感じた。

 窓の方からだ。

 何ものかが僕を見ている。

 ジッと見ている。

 いけない、と思った。しかし間に合わなかった。僕の目玉が勝手に窓の方へ動いた。

 ほんの少しだけ、視界の端に窓のガラスが入った。

 何かが霧の向こうから窓ガラスを覗いて、僕を真っ直ぐに見つめていた。

 なぜだか(ああ、もう駄目だ)という感覚に襲われた。

 それは、恐ろしく、残念であると同時に、安堵でもあった。

 子供の頃の、寝小便をした直後のような感覚。(そんなものが僕の記憶にあるのだろうか?)

 あるいは小学校のとき、運動会の徒競走に出て、ビリッけつでゴールラインをまたいだ時のような感覚だ。

 物事が最悪の結果で終わって残念だという気持ちと、にもかくにも終わったんだという安堵感が入り混じった。

 たとえ最悪の終わり方を迎えたとしても、それでも終わらないよりはだ、という感覚。

 僕は一度目を閉じた。

 そして目を開けた。

 窓から入る光はますます強く、電燈が無くても部屋の隅々まで良く見える。

 明るい交番の中には、僕一人だけだった。

 警官は二人とも消えていた。

 犬も消えていた。

 僕は立ち上がった。

 交番の奥に扉があった。

 開けてみると、狭い待機室のような場所で、こぢんまりとした流し台と食器棚とテーブルと椅子とソファがあった。

 奥の壁に、さらにもう一つの扉。

 その扉を開けると、便器と洗面台と鏡。

 鏡を見た。

 地下列車の窓に映っていたのと同じ二十歳代のやさおとこが居た。

 便所から出て待機室に戻った。

 テーブルの上に水差し。

 食器棚を開けて、そこにあった湯呑みを適当に取った。

 棚の中に、ブリキ製の缶を見つける。

 ラベルが貼ってある。ビスケットの絵と、洒落た書体の商品名が印刷されていた。

 開けてみると、ラベルの通り、ビスケットが入っていた。

 椅子に座り、缶をテーブルに置き、水差しから湯呑みへ水を注いで、ビスケットを食べた。

 空腹と渇きが癒やされたら、少し眠くなった。

 ソファにゴロンと倒れた。

 すぐに目蓋まぶたが重くなる。

『濃霧警報が解除されました』眠りに沈む意識の中に、市内放送の女放送員アナウンサーの声が入ってくる。『全戸自動施錠装置への通電を終了します』

 目覚めたら、鞄を持って夜の街を歩こう。と思いながら、僕の意識は消えた。

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慢冥市奇譚 青葉台旭 @aobadai_akira

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