Case 1
Case 1-1.Gloomy sky
その日も、朝からずっと雨が続いていた。
もう六月なのだから、当然の天気。かといって季節の移ろいをしみじみと味わうほどの感受性を、俺は持ち合わせていない。というか、雨は嫌いだ。服は濡れるし。空気は重いし、何より空が曇っている。
「はあ……」
放課後になっても全く変化のない空模様にため息をつきながら、南校舎四階の一番奥――地学準備室まで移動する。廊下に響くのは、俺の足音を除いて他にない。生徒のいる教室から最も離れたこの立地のおかげで、放課後の喧騒は遠く、他から切り離されたみたいな感覚。それが好きだった。
入口のドアには手書きで『天文部』の貼り紙。
職員室から借りてきた鍵で扉を開く。中はいつもどおり埃っぽい。かといってこの雨の中窓を開けるわけにもいかない。
地学準備室――もとい天文部の部室は教室の半分ほどの広さで、東西の壁にはそれぞれ空きスペースの多い本棚と水屋がある。そして、部屋の真ん中には余りものの学習机とパイプ椅子がいくつかあるだけで、なんというかまあ、かなり殺風景だ。
本当は、もっと設備を充実させたいところではあるけど、そんなことに充てる部費は天文部にはない。
カバンを適当に置いてから、俺はここ数日続けているルーチンワークにとりかかった。
天体望遠鏡のメンテナンス。
本棚の一番下の段にある大きめの箱から、レンズのついたパーツを取り出す。レンズキャップを外して、鏡体の中に貼り付けてある防カビ剤をはがして新品と交換。メンテナンスといっても大層なものじゃない。早い話が、湿気対策だ。
「……」
雨粒が窓に、地面に、木々に打ち付ける音をBGMにしながら、黙々と手を動かす。時折窓の外に目をやっても、ガラスの向こうにあるのは、灰色の絵の具を溶かした水をぶち撒けたみたいな景色。
「早く晴れないかな」
ぼんやりと考えていたことが思わず口をついて出た。と、その直後、
「もう来てたのね」
声がして、入口の方を向く……が、目に映るのが見知った顔で俺は小さく肩を落とした。
「なんだ、部長ですか」
「なによ、私じゃ不満?」
「そうですね、てっきり入部希望の人でも来たのかと思ったので」
「もう入学式から二か月以上経ってるのよ? そんなの来ないわよ」
ありえないとばかりに、部長は鼻で息を吐く。
「そんなのわかんないじゃないですか」
「わかるわよ。そもそもここが天文部だってことを知ってる人、私たち以外にいると思う?」
彼女の言ってることは間違っちゃいない、事実だ。なので、俺はそれを言い負かすだけの反論を用意できない。かといって何も言わないわけにもいかない。
「でも、俺は
「……そう」
小さく応答すると、話はおしまいとばかりに、天文部部長――
「……部長こそ、たまには手伝ってくれませんか。まがりなりにも部長なんですから」
「遠慮しておくわ。だって私、天体望遠鏡の扱い方なんてわからないし」
「はいはい、そうですか」
俺は投げやりに答え、それ以上は何も言わないことにする。
なぜって、このやりとりは今回が初めてというわけじゃないから。
四月に入部してから二か月あまり経ったが、天文部としてまともに部活動に勤しんでいるのは俺だけだ。俺が入部した時点で、この部屋は先輩部員である彼女の私物と化していた。
そんなわけで悲しいかな、本棚には彼女が持ち込んだ文庫本が数冊収納されているだけ。
これじゃあ文芸部と言った方がまだマシじゃないだろうか。
「ねえ
「はい?」
「今日もやることはそれくらい?」
「まあ、雨ですしね」
晴れていたら夕暮れ時の一番星でも見に行きたいところだったが、この空模様じゃあ到底不可能である。他にやることがあるとすれば、てるてる坊主を作るくらいか。
「じゃあ、何か温かい飲み物でもいれてくれない?」
「……」
「だって、今日涼しいじゃない」
部長はわざとらしく両腕を抱いて寒そうなジェスチャーをしてくる。
「……部長」
「なにかしら」
「優雅な読書を満喫したかったら、それこそ家に帰るか喫茶店にでも行ったらどうですか」
どう考えても天文部でやることじゃない。読んでるのも小説みたいだし。
「いいじゃない、ここが落ち着くんだもの。それに、晴人くんがいれてくれるココアが美味しいのが悪いんだと思うけどなあ」
「なんで俺のせいになるんですか。自分でやってくださいよ」
「ふーん?」
と、部長の表情が
「そういえば晴人くん」
「はい」
「夏休みの天体観測に向けて、新しい備品がほしいって言ってなかったっけ?」
「ええまあ、言いましたけど」
「今、部費を握ってるのは誰だったかしら……?」
ストールからちらつく唇は、やわらかな弧を描いている。
そこから先は言わずともわかるだろう、とでも言うように。
「……わかりました」
渋々、マグカップにココアの粉を入れ、電気ケトルのスイッチを入れる。ちなみに、ココアの粉も電気ケトルも、部長の私物だ。
「できましたよ」
机に置くと、部長は文庫本を閉じ、細い指をマグカップの取っ手に通す。いつも思うが、病的ともいえる肌の白さだった。
「うん、美味しい」
一口すすって満足そうに言ってから、タイツをまとった足を組み直す。かと思えば、再び小説の世界へと帰っていった。
もう少し感謝があってもいいんじゃないかこの人は。内心ぼやきながら、俺はついでにいれた自分のマグカップに口をつける。やわらかい甘さが口の中に広がる。けれど、頭の中の苦悩までは溶かしてはくれない。
こんなのでいいのか……。
とてもじゃないが、こんな状態で天文部としてきちんとした活動をしているとは言えない。
しかし実際のところ、それはまだ
それは、東雲とばりが行っている「ある活動」で――
「やっほー! ハルー、遊びに来たよー!」
ガラララ! と勢いよくドアが開いたと同時、雨模様とは真逆の快活な声が響いた。
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