東雲とばりは諦める

今福シノ

プロローグ

My perfect match

 東雲しののめとばりについて話せと言われれば、真っ先に思い浮かぶのは一緒に星を見たことだ。それは最初に語るべきことであり、最後に語るべきことでもある。



 春の夜。俺は一人、自転車をこいでいた。


 明滅する街灯。真空みたいな静けさ。昼間よりも澄んだ空気。息を吸って鼻いっぱいに広がるのは、桜の香り。吐く息はまだ白くて、頬に当たる風は冷たい。けれど、それに負けない熱を俺の身体は帯びていた。


 平坦な道路が終わって上り坂が見えてくる。道の傾斜は次第にきつくなり、比例してペダルも重くなる。が、不思議と辛くはない。胸の鼓動を速めるのは、この先に待っているものへの期待と興奮だけだった。


 坂道を一気に上りきった先に待っていたのは、広い敷地に大きな建物がそびえる場所――俺の通う高校。いや正確に言えば、数日後から通うようになる学校だ。


 俺は今夜、ここに星を見にきた。


 校舎が小高い山の中腹に位置し、絶好の天体観測スポットであること。そして天文部だけが、その屋上に上ることを許されていること。そんな理由から、俺は春からの進学先にこの学校を選択し、受験し、そして合格した。家から自転車で通えるって理由もあったけど。


 無論、合格したからといって入学すらしていない俺が無断で学校に、それも夜に忍び込んでいいわけがない。

 だというのに、こうしている自分がいる。別に今夜は流星群が見えるとか、特別な日でもないのに。


「よいしょっ……と」


 敷地をぐるりと囲うフェンス脇に自転車を停める。合格者説明会の時にあらかじめ見つけておいた、フェンスにぽっかり空いた穴をくぐって敷地内へ――それから、鍵の壊れた窓を乗り越えて、校舎内へ。

 そして、頭の中にインプットした校内の地図を頼りに、一気に四階まで駆け上がる。


 目的地、最上階の四階よりさらに上にある、屋上。

 そこへと続く扉の前まで辿りついた。


 下の階と違って普段から人の往来がないからだろう、空気はよどんでいてどこか湿っぽい。非常口のランプに照らされて漂うほこりは、水族館で見るクラゲのようだった。

 この先に、待ちに待った眺望がある。はやる気持ちを抑えながら、ドアノブに手をかけ、ゆっくりと回す。錆びた金属が擦れる嫌な音が耳を引っいた。


 扉を開く。身体を再び外の世界に放り出して、黒い世界に身を投じて、


「――――」


 瞬間、呼吸が止まった。


 暗闇で何も見えないはずの屋上には、ほのかな明かりが満ちている。まるで空気の粒子ひとつ一つが、自ら小さく光を放っているかのように。しかしそんなわけはない。ここに光を与えてくれているのは、紛れもなく頭上に広がる、無数の星々だった。

 街灯も、街の光もここには届かない。真っ暗闇なこの場所を照らすのは、空に散らばるきらめく砂粒のみ。


 身体が地面を離れ、星空に身を投げ出しているかのような錯覚に陥る。星の海に漂い、手を伸ばせばすぐに届きそうで――


「……誰?」


 声がして、俺の足は地についた。現実に、引き戻された。


 首を縦に動かし、星空から真正面――ちょうど屋上の柵が見える方を向く。星明かりにぼんやりと浮かぶのは、一つのシルエット。

 シルエットからは、もう一度声が。


「誰かいるの?」


 今度はしっかりと聞くことのできたそれは、透きとおるような音となって鼓膜に届く。まるでこの世のものじゃないみたいに。


 まさか、幽霊? いや、まさか。


 早鐘を打つ心臓に、冷や汗。恐怖と好奇心がごちゃ混ぜになりながらも、意を決して足を一歩、二歩、前へ。そうしているうちに、わずかな光量に慣れてきた眼球が、彼女、、の姿を捉えた。


 女の子がいた。背中はこちらに向けたまま、首だけをひねってこちらを見ている。腰までの高さしかない屋上の柵に身体をあずけて。ちなみに足はちゃんとあった。


 俺よりも少し低い身長に、短めの黒髪。寒さ対策なのか首元にはストールを巻いている。夜闇の中だというのに、その瞳はあらゆる光を吸い込みそうなほど黒かった。

 学校指定のブレザー。そして、胸元には緑色のリボン。


 二年生、ってことは、先輩だよな。


「あなた……誰?」


「えっ? ああ、えっと」

 女の子も俺の姿を視認したようで、さっきまでとは違って疑心に満ちた問いを投げかけてくる。俺だってそっちを怪しんでいることに違いはないのに、学校に忍び込んでいるという事実が罪悪感となって心の余裕を失わせていた。


「俺はその、宵山よいやま晴人はるとっていって……春からこの学校に通うんですけど、屋上から星がきれいに見えるって聞いたから待ちきれなくて」


 うまい言い訳が思いつく前に、正直な理由が口からでる。


「そう……」


 俺の言葉に、果たして納得したのか、彼女はこちらを向き直りながら小さくうなずいた。そしてそれ以上は質問をしてこず、沈黙。凪いだ水面の上に立っているみたいだった。

 その静寂に耐え切れなくなった俺は、


「もしかして……天文部の方、ですか?」

「私?」


 春休みの今なら、天文部が屋上で天体観測をしていても何ら不思議ではない。制服を着ているし彼女も、きっとそうに違いない。


「俺も天文部に入りたいって思ってて。ちょっと早いですけど、四月からよろしくお願いします」

「私は――へくちっ」


 答えの代わりに、小さいくしゃみが聞こえた。春とはいえ、今夜は冷える。厚着してきた俺とは違って女の子の装いは制服にストールだけで、見るからに寒そうだった。


「あの、よかったら」


 ずず、と鼻をすする彼女に近づき、背負っていたリュックからボトルを取り出す。そして手際よく中の温かい液体をコップに注いだ。寒さ対策の一つとして、家から持ってきたのだ。


「ココアなんですけど、嫌いじゃなければ」

「……」


 コップを差し出した先の彼女は、目を丸くしている。あらためて、目が合った。

 すごくきれいな顔立ちだな。思わずどきっとしてコップを滑らせそうになる。

 彼女は少しだけ逡巡した後、


「ありが、とう」


 ぎこちなく言って、受け取った。

 湯気の立つコップをふーふーと冷ましてから、口をつける。ほう、と一つ吐いた白い息は、ふわふわと宙を舞って消えていく。


「あの……」


 気がつけば勝手に、口が開いていた。


「よかったら、一緒に見ませんか?」

「え?」

「えっと、無理にとは言わないですけど」


 自分の口から滑り出したセリフだというのに、慌てる。何言ってるんだ俺。いくら星を見にきたという目的が同じとはいえ、初対面の人と星を見るわけがないじゃないか――


「そうね。今夜は……そうしましょうか」


 しかし、彼女はそう答えた。

 そうして、二人並んで扉に背を預け、星空を見上げる。


「俺……諦めなくてよかったです」

「え?」

「正直言うと合格できるかギリギリだったんですよ。でも諦めずにがんばったから、この景色を今、見れてるわけですし」

「……そう」


 俺の隣で、ストールで口元を覆いながら小さくつぶやく。なぜだか、俺はその横顔を見ることができなかった。



 そこから先のことはどうにもうろ覚えだった。憶えているのは、星がびっくりするほどきれいだったことと、ココアが温かかったこと。そして、隣に女の子が座っていたこと。


 それが――俺と、一つ年上の女の子、東雲とばりの最初の出会いだった。

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