あの夏の日へ

よるの

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「それでは、ウミちゃん。お元気で」



 握った手が震えている。その手は私の手だろうか。いいや、これはこの人の手だ。


 昭和十年。八月。入道雲が夕陽に照らされる中、その人は強がるように顔を笑みを作って、私の手をただひたすらに握っていた。


 プラットホームの上から「行ってこい、ミノル」「気ぃつけて」と彼の友人たちが声をかけている。「ああ」と力強く頷くその人の手が震えていることに誰一人気づいていない。


 いや、本当はわかっているのかもしれない。けれど、誰も何も言えない。


 言ってはいけない空気がこの国全体を支配している。「行きたくないよな」とも「行かんくていい」なんてことも口が裂けても言えない。




 彼が海軍に志願しようと考え始めたのは中学の頃だった。


 「どうせ陸軍に行くくらいなら海にしたい。苦しい時はお前を思い出せるだろう?」とまだあどけなさの残る顔で、当然のように言われた。思えばキザのような、けれど正直な人。


 シロツメクサを摘みながら「全く、その志願理由を聞いたらお父様怒るんじゃないですか」とくすくすと笑えば「そうだな。だから秘密だ」と白い歯を見せて笑う。


 黙っていれば無愛想に見えるその顔が笑うと幼くなる。そんな顔が大好きで、二つ年上の彼のことを幼い頃から慕っていた。



 そんな彼が十七になり、ついに入隊日がやってきてしまった。汽車に乗るまでの道のりが橙色に染まり出す。空を見上げると、陽が落ち始めていることに気が付いた。二人並んで歩くこの道を私はよく知っているはずなのに、なんだか不慣れな道を歩くようにふらふらと歩いた。




「ウミちゃん、来年から工場で働くんだって?」


「え、聞いたんですか?」


「うん。お別れの挨拶をしに行ったときにウミちゃんのお母さんが言ってて」


 普通の会話がやけにもどかしかった。もう、こんな風に他愛ない話などすることなどないのに。まるで明日があるように会話が続く。


「でもウミちゃん、新聞記者になりたいんでしょう?」


「……無理ですよ。私、頭よくないし」


「なれるよ、君なら。なんにでも」


 彼は私を否定しない。それが無理でも、間違っていても、意見を尊重しながら話を聞いて、それでいて前向きな言葉をくれる。


 そんなところが好き。でも言葉には出来なかった。もし、この気持ちを言葉にしたところで、なんになるのだろう。


 ミノルさんと目が合う。私を見下ろすその眼が優しく愛を孕んでいるように見える。


 きっと私の目だって、ミノルさんと同じような目をしているのだろう。


 何も言えない、互いに。手の甲がふいに触れあって、なんとなしに繋いだ。


 骨張った彼の手は幼い頃より大分大きくなった。簡単に私の手をすっぽり埋めてしまうくらい。


 血が通っている。あたたかい。確かにここにいるのに、明日にはもういない。


 彼は今日、このお国のために命を捧げに行く。


 それが誇りだと思う人間もいれば、そうじゃない人間もいる。けれどそんな気持ちを表に出してはいけない。決して。


 だから、酷くもどかしい。愛している人に一生傍にいて、一生支え合って欲しい、のだと軽々しく言えないこの世の中が憎かった。


「そうだ。手紙を書くよ。海の上の生活って陸とはまた違うだろうし、君が驚くことがいっぱいあるかも」


 明るい声で言われて、私は強張りながらも「楽しみにしてますね」笑うしかなかった。彼の意志を私が引き止めてはいけないとわかっていたからだ。


 他愛ない会話を繰り返しながら駅舎に辿り着く。ああ、もう着いてしまった。


 駅には彼の友人たちも待っていてくれた。「頑張れよ」「俺も来月行くからな」とそんな会話を交わす姿を私はただ静かに眺めていた。


 あんなことを言いつつも、やっぱり生きたいはずだ。


 だって私たちがどんなに忠誠を尽くしても、この国が、世界が、何をしてくれたというのだろうか。




「それでは、ウミちゃん。お元気で」


 汽車に乗り込む前に、最後にもう一度手を握られた。その手が震えていることに気がついて、私はどうしようもない気持ちになった。


 誰も、誰も、この人の気持ちを汲んでくれる人はいない。家族も友人も私でさえ、この人のことを称賛し、立派だと、この姿を見送らなくてはいけない。


 唇を噛み締めて、耐え切れなくなって、その身体を精一杯抱き締めた。「う、ウミちゃん?」と戸惑いを隠せないその人の声が聞こえたあと、彼はしっかり私の背中に手を回して「よしよし」と柔らかな声で告げた。



 優しい人。本当は自分が泣きたいのに、叫びたいのに。この人の気持ちは誰に知られることもなく、ずっとその心の奥に眠り続けるのだろう。


「ぜったい、ぜったいに手紙を書きます!だからミノルさんもお返事してください!いつになっても構いません!でも絶対、絶対に生きて、お返事をください!」


「……」


「ずっと、ずっとここで待ってますから。私、わたしっ」


 死にに行くなんてばかみたい。何が栄光だ、英雄だ。そんな名誉が、なんだっていうんだ。


 いなくなってしまっては、誰に褒められたって嬉しくない。


 あなたがしてきたことを、あなた自身が語れないと、なんの意味もない。


「生きて、かえってきて……っ」


 彼の学生服に顔を埋める。覚悟を決めた男性に向かって、こんなこと言っちゃならない。


 わかってる、わかっている。それでも、死にたくて生まれる人なんて、この世にいない。


 私たちはみんな、やっぱり生きたくて、この世に生まれ落ちる。


 苦しいのも、痛いのも、寂しいのも、嫌に決まってる。


 格好良くあろうとする必要なんて、本当はどこにもない。



「……ウミちゃん」


 抱き締めた私の肩に腕が回った。


「ありがとう」


 静かに告げられたそれは、優しくて、それでいて少し掠れていた。は、と目を見開いて、その後、私の目から涙が落ちて止まらなかった。


 結局、生きて帰ってくるとは、言わなかった。


 汽車に乗る前、友人たちに笑顔で手を振った彼が、私と目を合わせて、少しだけ情けない顔で笑って、その学生帽を深く被った。気丈にふるまっていた彼が、唯一見せた人間らしい表情だった。


 汽笛が鳴る。手を振る友人の間を縫うように走り出す。


 窓から身を乗り出した彼が、帽子を掴んで手を振った。


「みのるさん、みのるさんっ!ぜったい、てがみ……!!」


「ああ、書くよ!!約束だっ!!」


「みのるさんっ、」


 私、あなたのこと……大好きなんです。


 言葉が続かず、ホームの端に来て私の足は立ち止まった。


 叫びたかった。大好きだと。けれど結局、その気持ちを伝えることは叶わなかった。













 暫く月日が経ち、いつまでも気が休まらない生活に私たちは疲弊していた。


 そんな中、約束通り彼から手紙が届いた。


 当たり障りのない挨拶から始まり、お国のために懸命に頑張っていること、内地での思い出話と、そして私たちは何をされていますか?というシンプルな内容。


 前向きな言葉だけを綴ったそれは、検閲をすり抜けるための建前なのだろうか。それとも本心なのだろうか。


 綴られた字がところどころふやけているのも、気のせいなのだろうか。


 悔しい気持ちを滲ませながらも、彼が生きているという証が何よりも嬉しくて私はすぐに返事を書いた。


 手紙のやりとりの中で、「ウミちゃんに会いたい」という文字を見た時、「私も」と素直に綴った。


 会いたい。私も。


 昔のように笑い合って、なんでもない時間を過ごして、そうしてただ、手を繋ぎたい。


 多くは望まない。ただ寄り添って生きていきたい。それだけだった。


 そんなある日、彼の乗っている空母が爆撃を受けたのだと風の便りで聞いた。大本営の発表では具体的な話は出なかったけれど、きっと国が嘘を言っているのだ。


 いや、この場合は国を信じたかった。彼が無事だと、祈りたかった。


 手紙がぱったりとこなくなった。いくら待っても、待っても待っても。


 彼からの連絡は完全に途絶えてしまった。


 そして暫くして、はがきが一枚届いた。彼がこの世からいなくなってしまったのだという通知だった。


 たった、はがき一枚。


 彼の命は、一銭五厘で買える、一枚のはがきで締めくくられたのだ。








 彼の家族は涙すら流すことを許されなかった。あそこの息子さんは名誉の帰還をしたと、悲しむより誇らしくなければならなかったからだ。


 彼のお母さんが平気なふりをして、毎日そわそわしながら郵便物を見ていたことを知っている。


 彼のお父さんが彼の無事を確認するためにラジオを毎日欠かさず聴いていたことを知っている。


 くだらない、なんてくだらないんだ。


 私たちは、なんのためにこの世に生まれ落ちるのだろう。


 考えれば考えるほど、わからなくて馬鹿みたいだと嘲笑うしかなかった。


 けれど私たちがどんなに悲しんでも、明日はやって来る。朝日は昇って、今日と言う日が始まってしまう。


 私はなんのために生きればいいのだろう。何を目標にすればいいのだろう。


 私の手を繋いで歩いてくれる人はもういないのに。


 好きという気持ちを伝えることさえ叶わなかった。


 本当の後悔とは、こんなにも身を引き裂かれるような思いになるのだと私はこの時初めて知った。


















 それから時が経ち、終戦を迎えて数年後の夏のこと。ある日、私の家に手紙届いた。


 三十手前になった私は周りから早急に見合いをしろと、毎日毎日結婚を促される日々にうんざりしていた。


 そんな何でもない夏の日だった。



『ウミちゃんへ』


 手紙のはじまりはあの頃と一緒だった。あまりにも驚いてその手紙を足元に落としそうになった。


 縁側に駆け寄り、太陽の日差しがよく入る場所で、私は今一度冒頭から読み直した。



『ウミちゃんへ


 お元気ですか。ミノルです。暫く手紙を書かず、連絡もせず、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 僕は今、四国の方から君に手紙を書いています。話すと長くなるので割愛しますが、僕は空母の爆撃後、仲間と駆逐艦に乗り、落ち延びました。

 空腹に耐え激痛に耐え、陰に隠れて忍ぶ生活が長い間、続いている内に僕の訃報が家に届いたのだと知りました。生き残ってしまったことが恥ずかしく、僕はもういない存在として扱ってもらおうと、今までずっと連絡出来ずにいました。ごめんなさい。』


『こうして手紙を書いているのは、君の記事を見たからです。ウミちゃん、夢を叶えたんだね。おめでとう。

 君の記事はとても心を打ちました。たったはがき一枚で締め括られていく僕たちの命を叫びを、文字にして伝えていこうとするウミちゃんが、あまりにも素敵で、真っすぐで、僕や僕の仲間たちも報われたような気がして、耐え切れず手紙を書かせていただきました』



『本当に素敵な女性になったんだね。僕はそれが知れただけで生き延びてよかったと思っています。家族に連絡はしていません。この手紙はウミちゃんだけに書いています。だからどうか秘密で。……なんだかウミちゃんにはいつも秘密話をしてばかりだね。

 君はもう、素敵な人を見つけているのでしょうか。僕は君の笑った顔が好きだから、君が心から選んだ殿方と素敵な未来を歩んでいって欲しいです』


『今後、手紙は送りません。君の生活を邪魔したくないから。ただ、一つだけ。これは何度も死ぬんじゃないかと思った時、君に気持ちを伝えてないことを常に後悔した僕の独りよがりの想いです。死にぞこないの戯言だと思って聞き流してください』


 瞬きすら忘れて、ゆっくりと文字を追う。そこには――、


『ウミちゃん、好きです。君の行く末がどうか、幸せなものでありますように』


 その一文で、手紙を持つ手がさらに震えた。目には涙の膜が張り、呼吸が浅くなった。


 うそ、という気持ちのまま「っあ……」と声を零せば、ぽたぽたと涙が落ちた。


 終わってしまった恋だと思っていた。未完成のまま。


 けれど、続いてた。私がした後悔を、この人もまた経験していたのかと。



『暑い日々が続きます。どうかご自愛ください。 ミノル』


 蝉の声も、風鈴の音も、私の耳には何も入らなかった。手紙を抱きかかえて、ぽろぽろと涙が溢れて止まらない


「よか、った……よかったぁ……っ」


 安堵の中、零れた言葉はまずそれだった。生きていてよかった、よかった。本当に。


 そして背中を丸めて暫く泣きじゃくったあと、それを拭い払って私は立ち上がった。今度は私の番だと。


 私だって、幾度も後悔してきたのだ。あの頃の、ただ待つだけの女ではない。


 時が経ち、大人になった。それでも、私はこの気持ちをあなたに直接伝えるまでは、この恋が終わったなんて、言わせない。


 手紙の返事を書くなんて、まどろっこしいことはもうしない。


 だって生きているのだ。同じ時代を、同じ時間を。


 顔を合わせて、声が聞ける。


 そんな当たり前のようで、当たり前に出来なかった日々を過ごしてきた私にとって、ただ待っていることはなんてできなかった。


 私も好き、大好き。ずっと恋焦がれていました。


 この気持ちを伝えるために、どんなことだってしたいと思う。


 夏の日差しが照り付ける中、私は少量の荷物を抱えて飛び出した。





 息を切らして、駅までの道をひた走る。


 空を見上げれば入道雲が橙色に染まり出していた。彼とお別れしたあの日の空によく似ている。


 ずっと終わったと思っていた。


 だからこそ、こんなに胸は高揚しているし、未だに涙が溢れて止まらなかった。


 私とあなたの恋物語は、まだまだ始まったばかりだと背中から吹き付ける風が訴えているようだった。




 走って、走って、たまに歩いて、また走って。


 あなたの元へ会いに来た私を見て、彼はどんな顔をするのだろう。


 汗だくで、お世辞にも綺麗じゃない崩れた身なりで。



「ミノルくん、会いに来たよ」



 そうやって呼びかけた私に、どんな顔をして振り返るのだろう。



 驚くのかな、笑うのかな、それとも泣くのかな。



「あのね」



 どんな顔でも嬉しいけれど。



「私も好き。大好き」



 優しい顔で、受け入れてくれたら私はまた明日も頑張ろうと思えるのだ。






 あの夏、私の永遠の恋がようやくはじまりを告げた。











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