最後の約束
マリオさんのこんな表情を見るのは初めてだった。私の知る限りでは、笑顔か無表情のどちらかしかない人だったから。大怪我を負って、痛みまで感じるようになって、すごく苦しいはずなのに――彼は、大真面目な顔でジミーを見据えている。
意識を失っていた数分間に、何があったのだろう。マリオさんは変わった――いや、これが本来の彼なのだと考えたほうが、しっくりくる。
「ありがとう」
短い礼を添えて、私の頼りない支えから離れる。私も後ろに退いて距離をとった。
ジミーは薄笑いを浮かべたまま、右手のナイフをくるくる回している。その背後に、あの黒い霧に包まれたナイフがずらりと整列した。
「それじゃ、ズタボロの勇者様がこの窮地を抜けられるか……試してやるよ」
一斉に射出される刃物の矢。マリオさんは跳びのいてかわすが、そのわずかな動きでも痛みに響いたのか、苦しそうに顔を歪めている。その隙を逃さないジミーは外れたナイフをまた浮かせて、追撃にかかる。
水中から飛び上がってくる魚のような軌道を描く刃は、マリオさんの両脚を狙っている。彼もそれを察したのだろう、退くのではなくナイフの群れに跳び込んで、ちょうど刃の当たらない位置に片足を差し込んだ。並外れた動体視力は健在のようだ。
ナイフが通過した直後、もう片方の足で落ちている瓦礫をサッカーボールみたいに蹴り飛ばす。
「うお!?」
顔面に直撃しそうだった石の塊を、ジミーはすれすれのところで頭を逸らして回避した。すかさずマリオさんが接近を試みるが、ジミーはその不安定な体勢でナイフを1本指に挟み、即座に放つ。
銀の刃は、咄嗟に身を庇ったマリオさんの腕に深く食い込んだ。
「……!!」
苦悶の表情がその顔に走る。刺さったナイフをすぐに抜くと、噴き出た血が床に散った。赤い跡の残る額から、玉のような汗が滲んでいる。
追い打ちをかけるように、黒い霧を纏ったナイフがふくらはぎの辺りに飛び込んでいく。
「!!」
とうとうマリオさんが膝をついた。もはや刺さったナイフを抜く余裕もなくなっているらしかった。立ち上がることもできず、ただ荒い呼吸を繰り返している。
「おやぁ? もう終わりですか、勇者様」
ジミーが勝ち誇ったようにゆっくりと近づいてくる。呼応するように、いくつものナイフがマリオさんを取り囲んで、それぞれの切っ先を向けている。
「まあ、久しぶりに楽しかったよ。君と会えてよかったって、本気で思ってるんだぜ」
マリオさんはじっとジミーの顔を見上げている。何か機をうかがっているかのように。
ふん、とジミーが鼻を鳴らすと、ナイフで虚空を何度も切り裂いた。
「だから、見えてるんだって」
あらかじめ張ってあったらしい糸を看破して切り落としたのだ。万策尽きたマリオさんを、ジミーは乱暴に蹴り倒した。
「っ!!」
「おっとごめんよ、痛かったかい。悪いけど、もっと痛い目に遭ってもらうよ。エステルちゃんも、しっかり見ててね」
言われなくても、しっかり見ている。マリオさんがどれほど苦しんでいるのか、こちらにまで伝わってくるほどに。
だから、ジミーに見えないようにそっと左手を身体の下に隠しているのも、目に映っていた。
「さあ、お楽しみはこれからだぜ」
ギュン、と糸巻が唸りを上げる。ジミーがはっと振り返ったときにはすでに遅い。
彼の顔面に、凄まじいスピードで瓦礫が飛びかかっていた。
「いっ!?」
ガン、と鈍い音が響く。鼻柱に石の塊の直撃を受けた彼はその衝撃でよろめき、操っていたナイフも魔力が途切れて地面に落ちる。
素早く体勢を立て直したマリオさんがぐっと腕を引くと、全身に糸を食い込ませたジミーが地べたに伏せられ、磔にされた。
一瞬にして、両者の立場が入れ替わったのだ。
「……あー……さっき蹴ってた瓦礫。最初から糸を絡ませてたのね」
「君は……トドメは絶対自分の手でやるって、思ってたから」
「バレてたかぁ」
勝負は決した。なのに、ジミーは清々しそうに笑っている。こうなることを、待ち望んでいたかのように。
「オイラの負けだぁ。スカッと殺してくれよ、モーリス」
マリオさんは何も答えず、額の傷を押さえて息を弾ませている。足に刺さっていたナイフを抜いてどうにか立ち上がると、親友の顔を見下ろした。
辛そうな顔だった。それが痛みによるものか、これから自分が為す行いを考えてのことか、判別がつかなかった。
「思い出したかい?」
対するジミーは、どこか懐かしむような笑顔で親友を見上げていた。
「君はそんな顔で、人を殺す奴だったよ」
マリオさんは、弱々しく握ったナイフをじっと見据えた。血と脂で汚れた刃を、憐れむような眼差しで凝視している。
そうして彼は、その刃物を投げ捨てた。
「――なっ……!?」
ジミーは絶句していた。マリオさんは気が抜けたようにその場に座り込んでしまう。
「なんだよ、それ!! 早く殺せって――」
「ごめん」
被せるような謝罪の言葉と、荒い呼吸に挟まる長い溜息。汗の雫がしたたり落ちて、石の破片にしみ込んだ。
「……友達を、殺したくない」
ジミーの怒りが一気に頂点に達したのが見て取れる。彼は魔術でナイフを操り、自分を縛っていた糸を一気に切断した。それまでの負傷など忘れたかのように、床をドンと踏み鳴らして立ち上がる。
「ふざけるなよ……2人まとめて殺されたいのか!?」
「……ごめん。本当に、ごめん」
心の底から申し訳なさそうに、マリオさんは俯いたままだ。怒りに燃えたジミーがナイフを構える。
――その、刹那。
ジミーの左肩が、ごっそりと抉り取られた。
「――!?」
あまりにも、一瞬だった。彼自身、傷を負ったことに気づくのに時間がかかった。カラン、とナイフが落ちる音がして、ようやく気づいたときには、そのクレーターみたいな傷跡からおびただしい血が噴き上がった。
「……血を、残しておいたんだ。あの廃教会に。その臭いで、ぼくらを辿れるように」
マリオさんが淡々と説明するのが、耳に届いていたかはわからない。ただジミーは呆然と、自分の肩を抉った狼の獣人を見つめていた。
獰猛な唸り声を上げて赤い牙を覗かせる、<ウェスタン・ギャング>のエース。
彼がここにいるということは、ファースさんたちもじきにやって来るのだろう。ジミーもそのことを悟ってか、血の気を失った顔に観念したような小さな笑みを滲ませた。
「ぼくは君を殺さないけど」
マリオさんの静かな声に、ジミーの薄れた瞳が動く。
「君のことは忘れないよ」
「……はは」
ほとんど吐息に近い力のない声。それでも、どこか満ち足りたような響きがあった。
2人の間に流れる空気に触れてか、狐さんは少したじろいでいる。ジミーはそんな彼へ、一転して悪意で塗りつぶした表情を晒した。
「あのエルフの女さぁ、もう死んだ?」
瞬間的に怒気が激発した狐さんは、雄叫びを上げながらその憎むべき殺人鬼に飛びかかり、鉄拳を打ち込んで一気に身体ごと地面に叩き落した。そのまま馬乗りになって、怒りに任せた拳を何度も何度も振り上げた。
肉が潰れるような嫌な音が耳についても、私は目を離せなかった。マリオさんもそうしていたから。何も言わず、ただ粛々と親友の最期を見届けようとしていたから。
「――んで、そんなに、笑ってんだよ……」
狐さんが手を止めずに、独り言のように漏らす。
「楽しいか、人を殺すのが……!!」
その声に、激情が乗せられていく。
「俺は!! ちっとも!! 楽しくねぇよ!!!」
嘆くような絶叫とともに、最後の一撃が振り下ろされる。ほとばしる血飛沫を浴びた狐さんは、その場からしばらく動かなかった。大きく上下する背中だけが、私たちの目に映る。
それから瓦礫を踏み荒らす音で我に返って、ちょうど到着したばかりのファースさんたちを振り返った。
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