君の勇者

 瓦礫の堅い感触が身体の前面を圧迫してくる。額はべっとりと濡れているらしく、おぼろげな視界に赤く染まった建材の破片が映る。どうやら最上階から落ちて、頭を打ったらしい――と、マリオは最低限の状況整理をした。


 速やかに戦線に復帰しなければならない。そう思っても、手足にうまく力が入らない。負傷の度合いは深刻らしい。


 まだ生きてはいる。身体が思うように動かなくとも、やれることはある。しかし、思考も靄がかかったように鈍っていて、策を講じる余裕がない。


 早く、戻らないと。


 ――どうして?


 エステルが、ジミーに殺されてしまう。


 ――何がいけないの?


 彼女がいなければ、<ゼータ>は存続できない。


 ――<ゼータ>がなくなるとどうなるの?


 みんな、勇者ではいられなくなるかもしれない。


 ――あなたはどうして勇者になったの?


「…………君が、言ったんじゃなかったっけ」


 脳裏に響く声に、確かに聞き覚えのある声に、そう返答した。肉声になっているかどうかもわからない。

 声の主は、こういうときは決まって口元にだけ品のいい微笑みを浮かべるのだ。色の薄れたガラス玉みたいな瞳に、弱々しい光を湛えながら。


 混濁した思考は堰を切ったように過去の記憶を流出させる。なぜ今になって彼女のことを思い出すのか――自由の利かない頭ではそれを止める術もなく、次々に浮かんでくる記憶の断片に流されるままとなった。


『君はこの娘のせいですっかり変わっちまった。ほら、覚えてるかい?』


 ジミーがそんなことを言っていた気がする。本当に? 標的を一人殺しただけだ。仕事だった。


 ――じゃあ、どうして私の家族まで殺したの?


 依頼主が――君の姉が、<サーカス>を密告しようとしていたから。


 ――仲間まで殺したのは?


 依頼主を殺したことに団長が怒って、処分されそうになったから。


 ――……嘘つき。


 そうかもしれない。すべて建前上の、便宜的な理由。本当は――

 どくっ、と脈動と一緒に額の傷から血液が溢れ出した。


 本当は――本当は、君を殺したくなかったから。


 彼女が笑った。今度は心底満足そうに。こういう笑顔の作り方を、彼は知らなかった。今までどうやって笑っていたのかも忘れそうだった。


 気づけば彼女以外のすべてが暗闇に呑まれ、感覚も薄れて曖昧になっている。この世界に2人だけしかいないかのように。


 ああ、そうか。

 ようやくすべてを理解して、死んだはずの少女の幻影に問うた。


「全部、君が望んだんだろう?」


 彼女の笑顔は揺らがなかった。それはおそらく、肯定。


 望みはすべて叶えてあげた。友達になってほしい。芸を見せてほしい。勇者になって、救い出してほしい。殺してほしい。死んだ後も、それは続いていたのだ。


 私の家族を殺してほしい。あなたの仲間も殺してほしい。私の言ったことを、ずっと守っていてほしい。――私のことを、忘れないでいてほしい。


 感情を持たない殺人人形に成り果てても、いや、成り果てたからこそ、彼女の言葉には忠実に従っていた。


「ぼくは、君の操り人形だったんだね」


 朦朧とした意識は、彼女の幻影すら覆い隠してしまう。どんな顔をしているのだろう。まだ笑っているだろうか。それとも――


 動かない両手に、彼女の細い首の感触が蘇る。おかしくなったのは、たぶんそれからだ。何の感情も湧かなくなった。痛みすら忘れた。人を傷つけても殺しても、何とも思わなくなった。

 そして彼女は、おかしくなりかけていた自分を見て、嬉しそうに笑っていた。事切れる最期の瞬間まで、こうなることを待ち望んでいたかのように。


 怒りも悲しみも湧き起こらなかった。むしろ、そんな彼女の目論見を自然と受け入れていた。自分はずっと誰かの操り人形だったのだから。「君は剣だ」と、意思を持たぬ武器と同じだと、「友達」の1人が言っていた。


 ひとりでは立つこともできないから、糸を繰って動かしてもらうしかなかった。仲間も居場所も失って、今日まで生きてこられたのは、死してなお糸を手繰り続ける少女がいたからだ。血と殺戮の世界から引き剥がして、外の世界に連れ出してくれたのも、彼女だった。


「友達、いっぱいできた?」


 おぼろげだった彼女の声が、明瞭に響いた。無邪気なその顔が浮かび上がってくる。


「君のお陰でね」


「そう。きっと、あなたのこと待ってるわ」


 口元だけに浮かぶ微笑。これは寂しさを包み隠すための彼女の常套手段だったと、ようやく思い出した。


「もう、お別れね」


 お互いに悟っていた。これからは、ひとりで立って、自分の足で歩かなければならない。意思もなく、感情も麻痺していた操り人形に、そんなことができるだろうか。


 それでも、と思い直す。殺した人間は、友達ならばすべて人形にしてきた。それなら、人形を殺して人間になることだって、あってもいいはずだ。


 沈黙していた身体の神経が、徐々に感覚を取り戻す。瓦礫や血の感触が蘇ってくる。入れ替わるように、少女の幻影が薄らいでいく。その姿が、完全に消えてしまう前に。


「君のことは忘れないよ、クラリス。絶対に忘れない」


 最後の悲願を約束された少女は、何一つ陰りのない純粋な笑みを咲かせる。


「ほらね、モーリス。あなたは友達想いの優しい人よ。私のほうが先に知ってたんだから」


 その笑顔を、綺麗だと思った。



  ◆



 ――蘇った視覚がまず捉えたのは、こちらを覗き込むエステルの顔だった。瓦礫の感触は背中のほうに移っていて、いつの間にか仰向けになっていたようだ。


「マリオさん、大丈夫ですか!?」


 必死の形相で叫ぶ彼女の手には、細かい装置の張り巡らされた手袋がはめられている。あれはソルヴェイが製作した、治癒魔術が使える魔道具だった。念のためにと持っておいたのを、今使ったのだろう。頭部の出血も収まっている。


 立ち上がろうと上体を起こして、マリオは違和感に気づいた。治療を施されたはずの額の左側に、強烈な衝撃が走ったのだ。


「……?」


 頭蓋の内側から金槌で叩かれているような感覚が、徐々に増していく。手で傷のあたりにそっと触れてみても、乾いた血が指先を汚すばかりだった。

 その様子を見ていたエステルが、驚愕したような表情で慎重に声をかける。


「もしかして……傷、痛いんですか?」


 その感覚の名前を、マリオはようやく思い出した。


 自覚した途端に痛みはさらに増していく。ズキズキと、脈動に合わせて断続的に響き渡る。積み重なるダメージが思考を阻んで、抵抗することもかなわない。


 ガラガラと瓦礫を踏みしめる音が近づいてくる。傷だらけで足取りは不安定ながら、余裕の笑みを浮かべているかつての親友の姿があった。


「やあ、まだ生きてるね。ようやくいい顔になってきたじゃん」


 ジミーの声のところどころに被せるように激痛が響いて、返答する余裕もなかった。


「……ひっでー傷だね。もう立てない? なら、ここで殺しちゃうけど」


 いたずらっぽい表情で、彼は愛用のナイフを見せびらかす。

 マリオは両脚に力を入れて、よろよろと立ち上がる。が、割れるような痛みが頭部を殴りつけて、膝が崩れそうになる。


 再び地に落ちかけていた背を、細い腕がしっかりと支えた。


「大丈夫です!」


 エステルが、力強い光に満ちた眼差しを注ぐ。


「大丈夫、立てます! 私もついてますから! 絶対、大丈夫です!!」


 立つのもやっとなほど満身創痍で、敵はまだ戦う力を残していて、エステルは自分で戦うこともできない。なのに、この少女の自信はどこから来るのだろう。不思議と痛みも和らいでいく気がした。


 もう一度、ジミーを見る。背中に痛みがあるのかやや猫背気味で、だらりと垂れた左腕は折れているようだ。勝機はゼロではない。

 マリオの反撃の一手目は、糸でも刃物でもなかった。


「君は……ぼくらを殺した後は、どうするつもりなんだい?」


 唐突な質問に、ジミーはきょとんと眉を上げたが、すぐに口の端をニィっと吊り上げた。


「殺すよ。いろんな人を殺し続ける。オイラが死ぬまで、ずっと」


「……」


「そういう君はどうなんだい、モーリス。ずっとその子のお守りをするわけ?」


 少し和らいだとはいえ、痛みはずっとズキズキと存在を訴えている。頭も思うように働いていないのに、その返答はすっと自然に出てきた。


「魔王を倒す。ぼくは、勇者だから」


 他でもない自分自身の意思で、そう宣言した。

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