雪上の銀河

 初めて聞いたその声に、私は誰が発したのかわからなかったが――彼には覚えがあったのだろう、閉じかけていた目をいっぱいに開いている。


「おにいちゃん、は?」


 蝋人形のような無表情が一転、命を吹き込まれたように少女らしい純朴な顔つきになっている。額の痣も、いつの間にか消えている。

 元に、戻ったんだ。奇跡を目の当たりにしたプロコーピー博士は、大きく開いた目を妹に釘づけにしていた。


「ま……マト――」


 まもなく少女の膝が、糸が切れたみたいに崩れ落ちた。途端に彼女は右肩を押さえてうずくまる。


「いたっ……痛い!! 痛い痛い痛い痛い!!」


 脂汗を浮かべながら悲鳴のようにそう繰り返して、尋常でないほどの痛がり方をしている。まさか、魔物に襲われたときの傷が開いてしまったんだろうか。


「ああ……マトリョーナ、マトリョーナ……!!」


 プロコーピー博士が絶望に染まった顔で妹の名を連呼する。幼い少女の右腕と両足に、ピシピシと割れた陶器みたいな亀裂が入る。


 その崩壊の音を、優しい手がかき消した。

 少女の丸まった背中をそっと支えて、ヤーラ君が穏やかな声で話しかける。


「大丈夫。大丈夫だから。自分の名前は言える?」


「……マトリョーナ」


「マトリョーナ、もう少しだけ頑張って。絶対に助けるから」


 煌々と光る風。2人の周りに、今度ははっきりと目に映る。光を散らせた水面のように、風が燦然と輝き始める。まるで、雪の上に銀河が生まれたかのようだ。中心で光る恒星は錬金術師の奇跡の手。それはやがて赤い生命の色を帯びて、まばゆく煌めいた。


 その幻想的な銀河がふっと消えると、少女は眠るように少年のほうへ身を預けた。ひび割れた手足は、嘘のように綺麗になっている。奇跡が通り過ぎたあとの静寂に、少女の静かな息遣いだけが聞こえる。


 そこへ血混じりの咳の音が、2回ほど被さった。


「……博士」


 心配そうな眼差しを送るヤーラ君を、枯れ枝みたいな手のひらがそっと制止した。


「その呼び名は……もう、私にはふさわしくない」


「あなたは僕にいろいろなことを教えてくれました」


「ならば……わかるだろう。私の魂は、大いなる魂のもとへ還る。なぜなら――」


 震える人さし指が、自分の還る場所へ伸ばされた。


「すべてはそこから生まれて、そこへ還っていくからです」


 老人の吐息が小刻みに揺れる。笑っている。我が子の成長を喜んでいるかのように、心底満足そうに。指は力が抜けたように折り畳まれて、雪の上に下りた。

 それから、すぅ、と深く息を吸う音。私もヤーラ君も、神経を集中させる。


「……マトリョーナはな、ピーマンが嫌いなんだ」


 話が一変して私は少し戸惑ったが、すぐにその意図を察した。


「外を歩き回るのが好きで……平気で知らない道にも入ってしまう。年の割に見た目には気を遣っていて、ときどき妙に大人びた物言いをする……」


 次々に語られる情報を、ヤーラ君は一言一句漏らさぬようメモしていく。声が小さくなって、断片的になっても、ひとつひとつ丁寧に確認しながら――やがて何も聞こえなくなるまで、休みなくペンを走らせていた。



  ◇



 街に戻る頃には空はまた灰色に覆われて、塵みたいな雪が街並みを掠れさせていた。薄暗い窓から室内に並ぶベッドに視線を戻す。


 あの少女――マトリョーナちゃんはいまだに深く眠ったまま、起きる気配がない。

 その隣には、病人みたいな顔色で寝込んでいるヤーラ君がいる。


 あの後ヤーラ君は倒れていたアレクセイの腕を修復し、力を使い果たしてか、その場で倒れ込んでしまったのだ。


 復活したアレクセイが2人を街まで運んでくれて、運よく住民に見つけてもらって宿屋の一室を借りている。街の手前までいたはずのアレクセイはどこかに消えてしまった。たぶんまた、ヤーラ君の中に戻ったのだろう。


 安らかな寝息と、疲れ果てたような息遣いが交互に聞こえる。私はヤーラ君の頭をそっと撫でた。細くて柔らかい茶髪が手の甲に触れてくすぐったい。と、まぶたが薄く開いて緑色の瞳が覗いた。


「あ……ごめん。起こしちゃった?」


「いや……大丈夫、です、そのままで……」


 よくわからないけど、許可が下りたので私はそのまま手をどけないでおいた。


「具合はどう?」


「いつもよりは、だいぶましです。それより……」


 ヤーラ君は横目で隣のベッドに眠る少女を見やる。ほとんど自我も失ったまま何十年という時を過ごし、兄を亡くしてしまったばかりの少女を。


「……どうやって説明すればいいか……悩んじゃうよね」


「……」


 明確な答えも出せないまま、沈黙だけが漂っていた――そんなとき。


「……しってるよ」


 ぽつり、と小さな呟きが分厚い毛布の内から漏れ出てきた。私もヤーラ君も思わずそちらを注視する。もぞもぞと毛布がうごめき、中からひょっこりと少女が顔を出す。


「あの白髪のおじいちゃんが、お兄ちゃんなんでしょ。あたしのこと、ずっと呼んでたし……」


 あどけなさが残るような、それでいて10歳かそこらの年齢とは思えないような、どこか諦めきった表情だった。


「覚えてるの? 今までのこと」


 ヤーラ君が尋ねると、マトリョーナちゃんは考え込むように目を伏せた。


「うーん……くわしくは、覚えてないけど。なんか、ずっとぼーっとしてたみたいな……」


「そっか。はっきり思い出せることはある?」


「マモノがいて……すごく痛かったのは覚えてるよ。でもなんか、昔のことみたいな感じ」


 ホムンクルスになった後も、うっすらとした時間の感覚は残っていたんだろうか。

 いったん言葉を切った彼女は、顔色をうかがうように私たちを見上げると、すっと深く息を吸った。


「お兄ちゃんは……死んじゃったの?」


 もう、その事実を隠し通すことはできない。ぎゅっと眉間に力が入ってしまって、それでたぶん、彼女も察しがついたのだろう。くりくりとした大きな瞳に、悲しげな色が混じった。


「……あたしの、せい?」


「そんなことはないよ!」


 ヤーラ君は半身を起こして、被せるように否定した。


「だってそれは、僕が君を、お兄さんから離そうとしたからで……」


「でも、君はあたしを助けようとしてくれたんでしょ?」


「そう、かもしれないけど――」


「じゃあ、誰のせいでもないんだよ」


 私は淀みかけた空気を振り払うように、2人の間に入った。


「誰も、悪いことをしようと思ってそうした人はいなかった。たまたま不幸が重なっただけ。それなら、誰も悪くないでしょ?」


 こちらを見上げる2人の純真な瞳は、私の言葉を素直に受け入れてくれたようだった。

 事の発端は、マトリョーナちゃんが魔物に襲われてしまったこと。プロコーピー博士は妹を助けようとしただけで――本当は、誰も悪くない。

 マトリョーナちゃんは無意識なのか、傷を負ったという右肩をさすっている。


「……あたしの身体って、どうなっちゃったの?」


 ヤーラ君は慈しむように眉をなだらかに下げて、その疑問を受け止めた。


「君が怪我をしたところ――右腕と両脚、左脇腹がホムンクルス化、つまり人工的な身体になってる。正直、この技術はすごく難しくて……少しでもバランスが崩れたら、その状態が維持できなくなるかもしれない」


「……」


「でも大丈夫。そうならないように、僕が守るから。一生かけてでも、絶対に……」


 ヤーラ君の決意のこもった右手がぎゅっとシーツを握る。マトリョーナちゃんは大きな丸い目でそれを聞き入れて――眉をいぶかしげに寄せながら、うっすらと目を細める。


「それ、口説いてんの?」


「…………へ?」


 予想外の方向から飛んできた言葉に、ヤーラ君の声がひっくり返る。

 ……確かに、「一生かけて守る」というのは、解釈によってはそういう受け取り方もできるかもしれない。本人にそのつもりはないのだろうけど。


「んー……さっきそこのお姉ちゃんに撫でてもらってデレデレしてた人に言われてもねぇ」


「っ!? しっ、してないよ!」


「ほんと~? オトコなんてみんな口先ばっかりカッコつけるもんなんだから。少なくともあたしの経験上は」


「経験って、君10歳くらいじゃ……」


「ちょっとー! 女子の前で年齢の話しないで」


「す、すみません」


 マトリョーナちゃんは結構おませさんなようで、ヤーラ君が年下の女の子に翻弄されているのはなんだか珍しくて微笑ましかった。もしかしたら、本当に2人は気が合うのかも……なんて。

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