太陽の魔法
薄鈍色に閉ざされた空の下、ひらひらと舞い降りる塵のような雪の中で、プロコーピーは棒立ちに佇んでいる最愛の妹を見下ろしていた。
この程度の降雪ならば庭を平然と駆け回り、雪だるまを作って遊ぶような元気な子供だった。今はもう、置物のように微動だにせず、ただそこにいるだけだ。
「博士、裏庭のほうもやっときますか?」
雪かきをしていた弟子の一人が無粋に尋ねてきた。普通の人間のように振る舞っているが、彼はすでに死人であり、今は生前の行動を機械的に再現しているに過ぎない。
「……ああ、頼む」
彼はスコップを担いで裏庭のほうへ回った。
ホムンクルスになる前も働き者で、マトリョーナの話を聞いて自分を実験台にしてほしいと申し出るほど熱心で従順だった。そして実験の結果、全身が膨張し、四肢がねじくれ、内臓が裂けて死んだ。
その後、時間をかけて元の人間らしい形に戻した。勤勉な性格はそのままだが、新しい記憶は定着せず、同じ日々を繰り返す人形と成り果てている。ホムンクルスとなった他の者たちも同様の末路を辿った。
しかし、マトリョーナは以前の面影など微塵もなく、魂がぽっかり抜けてしまったままだ。その違いがなぜ生じるのか、数十年かけてもわからなかった。
風が鳴り始めた。白い粒は綿ほど大きくなり、灰色の世界はさらに温度を失っていく。少女の口元から白い息が漏れる。それは、彼女が生きていることの何よりの証であり、救いだった。言葉を発することはなくても、ガラス玉のような眼がこちらを向くだけで愛おしさを感じる。
「冷え込んできたね。そろそろ戻ろうか」
風雪に晒されている他の者たちのことは気にも留めず、プロコーピーは最愛の妹を温かい屋内へ連れ戻そうとする。ホムンクルスが体調を崩したりすることはない、とわかっていても。
地下に閉じ込めた2人はどうなったのだろう。これまで数えきれないほどの実験を繰り返し、そのたびに失敗を味わってきたプロコーピーは、結果もわからぬうちに期待してはいけないと学んでいた。それでも、心のどこかで今度こそはという気持ちを否定できないでいる。
戻ったら少し様子を見てみるか――と玄関への階段に足をかけたその瞬間。
地下から巨人が頭突きでもしているかのようなとてつもない衝撃が起こり、大地が跳ね上がった。
その衝撃は2、3度ほど繰り返され、木造の研究所はそれに耐え切れず崩れ落ちた。柱は斜めに傾き、屋根に押しつぶされた木材がバラバラになって外へ流れ出る。
倒壊した家屋の周りで弟子たちが何事もなかったかのように除雪作業を続ける中、プロコーピーだけが唖然と我が家の残骸を見つめていた。
雪崩のように押し出された木材の一部がガタガタとうごめき、中から2人の人間が出てくる。お互いの無事を確認し合っているのか二言三言交わした後、先に出てきた少年がプロコーピーのほうに気づいた。
「あ……家、壊しちゃってすみません」
「ははは!」
こんなときでも礼儀正しさを忘れない少年に、プロコーピーは豪快に笑った。
ひと目見ただけでわかる。哲学者の卵が、孵化したのだ。家のひとつふたつ、安いものだ。
「気分はどうかね、ヤロスラーフ君」
「そうですね。ひとつ、確かなことがあります」
少年の声は落ち着いていたが、両の眼には強い意志が宿っている。
「プロコーピー博士。あなたは大きな間違いを犯している」
バキッ、と少年の背後で木材の山が破れた。ガラガラと木片を散らばせながら、中から何かが出てくる。人間ではない何かが。
「ほお、これは……話に聞いていたものとは随分違うようだが」
それは、ホムンクルス。ただし、プロコーピーも見たことのないような形状だった。
人間というよりは、それより少し大きめの人型の魔物に近い。全身は真っ白で、屈強な胴体には先端にいくほど太くなる手足が生え、紙粘土で竜を模したような頭部が載っている。
「それが、君の弟かね」
「さあ、わかりません」
ヤーラはそんなことには関心がないとでも言うように、あっさりと言い切った。
「ホムンクルスは、ホムンクルスです。それ以上でもそれ以下でもない」
――このホムンクルスは、研究所の地下でヤーラが夢から覚めたとき、初めからそこにいたかのように傍に座っていたのだ。真っ暗で姿は見えなかったが、それがホムンクルスであることはすぐにわかった。
不思議と恐怖を感じることはなかった。友人を相手にする感覚で「ここから出たいんだ」と言うと、ホムンクルスはその意を汲んだのか――天井を破壊するという力業で、その希望を叶えてくれた。あまりの破壊力で建物ごと巻き込まれてしまったのは不本意だったが。
外に出て、改めてその姿を見たヤーラは、特段驚くこともなく自然と受け入れていた。これが本来の姿なのだろう、と。
眼窩の大きな黒い窪みから、赤く光る瞳が覗いている。お互いにじっと目を合わせる。夢の中で、羊にそうしていたように。
「君のことを、弟と同じように『アーリク』って呼んでいたけど」
この生物は、弟でもなければ自分自身でもない。何者であるかを決める権利など、そもそもないのだ。
「今度から、『アレクセイ』って呼ぶことにするよ」
ぶるる、と竜のような口から白い息が漏れた。アレクセイと名付けられた生物は、その名を了解したようだった。
「ホムンクルスに魂を与えたというのか……素晴らしい」
プロコーピーは感激に打ち震えているが、彼を見るヤーラの目はどこか冷ややかだった。
「与えたわけではありません。元々魂はある。でも、僕が抑え込んでしまっていたんです。……博士、あなたも同じことをしてしまっている。それが僕らの過ちなんです」
「……なるほど。私はマトリョーナを愛するあまり、その魂を封じ込めていると……そう言いたいのかね」
「愛じゃない。執着です」
プロコーピーは口を結んだ。次の言葉を待ち構えているかのように。
「その子を救うには、一度あなたの制御下から離れる必要があります」
すなわち、マトリョーナのホムンクルス化を解除して、魔物に襲われた直後の状態に戻すということだ。当然、プロコーピーの返答は――
「それはできない。今度こそマトリョーナが死んでしまったら……私は耐えられん」
「じゃあ、また無謀な実験を繰り返すつもりですか」
「次は成功するかもしれん」
そんな根拠などどこにもないということは、博士本人もわかっているのだろう。それでも、わずかな希望にしがみつかずにはいられないのだ。たとえ、他の誰を犠牲にしようとも。
「……僕は、あなたを止めないといけない」
「マトリョーナは誰にも渡さない」
決裂。こうなることは避けられなかったのだ。
1つ深呼吸をして、横目で後ろをうかがった。ずっと見守ってくれていたエステルは、全幅の信頼を乗せた微笑みとともに頷いた。彼女の眼差しを受け取ると、温かな勇気みたいなものが全身に染み渡っていく気がする。
ヤーラは薄鈍色の空を見上げ、風の唸り声に耳を澄ませた。モノクロのベールの向こうから声が聞こえる。
「今から30秒後に雪がやんで、太陽が見えます」
プロコーピーは怪訝な表情で同じように空を仰ぐ。晴れる気配もない灰色に覆われた空。
やがて風が静かになり、空中を舞っていた雪がふっと姿を消した。そして一面の灰色に一筋の裂け目が生じ、白い光芒が地上に降り注いだ。そこから灰のカーテンが一気に開いて、朗々とした青空が天を覆いつくした。
まばゆいほどの白光が雪に照り返って、雪原に無数の星を散りばめる。太陽はそうやって、地上にぬくもりと生命を与えてくれる。こんな、凍てつくような北の果てにまで。
世界を焼き尽くすことのないよう距離を保っているから、近づくことはかなわない。あの人と似ているな、とヤーラは思った。
手のひらを空に差し出して、金色の光を手に乗せる。心地よい温かみが指先から身体中に巡って、命が満たされていくのを感じる。
――僕は、こんなにも愛されている。
もう、飢えに苦しむことも、孤独に怯えることもない。すべての魂と、固く結びついているような感覚。恐れることは何もない。
隣にいる新しい友人と、視線を交わし合う。お互いに、覚悟はできている。
「行こう、アレクセイ」
右の瞳の小さな太陽が、黄金色に煌めいた。
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