夢の旅

 ヤーラが目を覚ますと、夜空に向かって枝を広げる大木があった。枝には葉のひとつもついていないかわりに、空に瞬く星が豊かに実っていた。それを見ながら、自分は大木の幹に寄りかかっているということと、どうやらまだ目は覚めていないらしいということを悟った。


 太くうねる木の根は砂の中に沈んでいる。周りは一面の砂原で、この大木以外に生命のあるものは存在しないのかと思えるほどだ。夜の砂漠の冷たい風が、砂粒をさらさらと撫でて通り過ぎていく。


 ふと見ると、羊の群れの中で遊んでいる子供がいた。5歳前後の小さな男の子だった。弟が生きていたらこのくらいだろうか、とヤーラは何とはなしにそう思った。


 立ち上がって砂を払い、羊たちのもとへ歩いていく。幼い少年の顔は白いスカーフに隠れているが、こちらに気づいて微笑みかけた口元ははっきりと見えた。


「羊と話しているんだよ」


 少年は見た目よりもずっと大人びた声で教えてくれた。


「僕には羊の言葉がわかるんだ。君にもきっとわかる」


 この少年は錬金術師だと、ヤーラは直感した。錬金術は砂漠で育った。偉大な功績を残した者から、おとぎ話のように素性の知れない者まで、さまざまな砂漠の錬金術師の話をラムラから聞いたことがある。その中に、羊飼いだった少年の話があった。


「羊の言葉は、どうすればわかりますか」


 ヤーラは彼を幼い少年としてではなく、錬金術師の一人として敬意をもって接することにした。


「じっと羊を観察して、耳を傾ける。余計なことは考えない。何も喋ってはいけないよ。自分が何かを話しているとき、相手の話は聞こえない」


 ふと、人と口を利くことをやめたハイエルフのことを思い出した。彼は自ら口を閉ざすことで、世界の声を聴いていたのだ。


 ――世界を知るのに、言葉はいらない。


 ヤーラは羊たちをじっと見つめた。こちらには関心を示さず、草も生えていない砂原に鼻を近づけてにおいをかいだり、鳴き声を上げたりしている。観察を続けていると、1頭1頭の表情や性格の違いが見えてくるような気がした。名前をつけて、呼んであげたくもなった。


「羊はよく喋る。彼らだけじゃない。すべてのものは僕たちに話しかけている。僕たちが気づかないだけなんだ」


 1頭の羊が少年に擦り寄ってくる。少年は何の意思も介在しないような自然さで羊を撫でる。


「すべての声を理解できれば……僕らの魂は、完全になりますか」


「僕らの魂は、元から完全だよ。すべてを生み出した根源は完全な魂だから。でも、気づかないうちにそこから離れてしまうんだ」


「じゃあ、どうすれば……」


「君はさっき、自分で答えを言っていたよ」


「……すべての声を、理解する」


 口に出すのはおそろしく簡単で、しかし「すべて」というものに本当に向き合おうとすると、それはあまりにも広大で気が遠くなりそうだった。


「そのすべての中で、君が無視しているものがある」


 少年の言うことには心当たりがあった。


「――ホムンクルス」


 ヤーラの記憶にあるうちで、その姿を認識したのはほんの最近だった。思い出すだけでもおぞましい、異形の怪物。


「恐れることはないよ。あれもまた、この羊と同じだ」


「羊……」


 羊たちは眠くなったのか、砂に身体を埋めてうとうとしている。夜になれば彼らは眠る。朝になれば起きて、牧草地を求めて歩き出し、腹を満たしてまた眠るのだろう。


「君はついこの間、ホムンクルスと対話をしていたはずだよ」


 それは半分靄がかかったような記憶だった。闘技場が魔族に襲撃されたとき、あのホムンクルスと対峙していたのは確かだ。だが、自分が何をしていたのかは夢の中にいたかのようにぼんやりとおぼろげだった。


「もう1つ、君が無視しているものがある」


「え?」


 むしろこちらのほうが重要だという含みを持たせて、少年は指摘する。


「君自身の声だ」


 想定していたものから最も遠い答えを告げられて、ヤーラは困惑した。


「僕は……僕の声は、ずっと聞こえています。騒々しくて、頭が割れそうになるくらいに……」


 ここから出してくれ、と。お腹がすいてたまらない、と。弟の泣き声を止めてくれ、と。見捨てないで、と。あの日からずっと、そんな声が頭の中で反響している。


「それは、君が君を黙らせようとしている声だよ。本当の声は聞こえていない」


「……」


 改めて、自分の心の内に耳を傾ける。耳障りな喧騒に捕まらないよう、神経を研ぎ澄ませる。それでも、返ってきたのは虚ろな沈黙だけだった。


「何も聞こえないのかい」


「……はい」


「心配いらないよ。君には聞こえなくても、君の本当の声を聞いてくれる人がいる」


 すぐに、その顔が脳裏に浮かんだ。彼女はすべての声を聞こうとしていた。すべての声に応えようとしていた。そして、すべてを愛そうとしていた。彼女を愛していないものに対してさえ、そうだった。


 ずっと心の底に押し込んでいたことも、彼女には話すことができた。それなら、彼女にそうするように話し、彼女がそうするように聞けばいい。


 砂の上に腰掛けて、砂粒の上に視線を落とし、意識を内側へと向ける。まだしばらくは沈黙が続いた。無理もないことだった。長い間声を上げることも許さなかったのだから、もう本当のことを話すのを諦めてしまったのかもしれなかった。


 ふと、自分の右手が目に入った。ヤスリの表面みたいにガタガタに歪んだ親指の爪。これまで何度も傷つけてきた、細くて小さな手。


「……ごめんね」


 謝罪の言葉が、自然にこぼれていた。


 途端に、胸の内から湧き水のように声が溢れ出した。とめどなく流れ出る感情の奔流。飲み込まれそうになりながらも、逆らわずに身を任せる。水のように不定形だったそれは、確かな輪郭を持ち始める。そのひとつを、丁寧に掬い取った。


「――僕は、誰かに愛してほしかったんだ」


 一旦声に出してしまえば、感情は次々に結晶となる。


「父さんと母さんは、僕らを愛してはくれなかったんじゃないかって……。誰かの役に立てば、愛してもらえると思って……でも、またいつか捨てられるかもしれないって、ずっと不安で……」


 自分の声が、自分の耳に伝わって沁みとおっていく。その声は、黙って佇んでいる少年にも届いていた。眠りこけている羊たちも、どこまでも広がる砂漠も、そびえ立つ大木も、夜空に瞬く星々も、すべてが耳を傾けていた。


「それで」


 少年が、そっと話しかける。


「君を愛してくれる人は、君を見捨てると思うかい」


 ――私は、ヤーラ君に会えて……本当に幸せだよ。この先何があっても、それは変わらない。


 今一度、その言葉が脳裏に蘇って、胸の底まで浸透していく。

 数えきれないほど迷惑をかけた。命を奪おうとしたことさえあった。なのに、一切の嘘偽りなくそう言ってくれたのは、いったいどうしてなのだろう。そういう人だから、としか言いようがない。


 今なら、何の迷いもなく、彼女を信じられる気がする。


「随分遠くまで来てしまったね」


 水平線が朝焼けの色に染まる。じきに、この旅も終わる。

 一陣の風が吹いた。風は砂を巻き上げて、小さな少年を覆い隠してしまう。強く吹きすさぶ風の中で、少年の瞳が金色に煌めいた。


「また会おう」


「ええ、また」


 たったそれだけ交わすと、少年も羊たちも風と一緒になって消えてしまった。


 彼は、死んだ弟なのかもしれない。自分自身なのかもしれない。伝説上の錬金術師なのかもしれない。あるいは、世界中を駆け回る風か、果てのない砂漠か、夜空に瞬く星か――きっと、そのすべてなのだろう。


 大木に実っていた星々は、ほとんどが朝焼けにさらわれてしまった。それでもまだ明け残っている大きな星の輝きに、そっと手を伸ばした。

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