死と再生
自分の手のひらでさえ、すぐ目の前に持ってこないと認識できないほどの暗闇。プロコーピー博士の言う『哲学者の卵』は、縦も横もどこまで続いているのかわからない真っ暗な地下室だった。入口の扉も闇に隠され、そこに掛かっていた梯子も壊されてしまった。
風が入り込む余地もない閉鎖空間だが、空気は外と同じくらいに冷たい。床に触れているところから体温が奪われていくみたいだ。
「ヤーラ君?」
一緒にここに落とされた少年の名前を呼ぶ。聞こえるのは返事ではなく、激しい息遣いと苦痛に悶えるように絞り出される声。
「……ぃ、やだ、いやだ……出して……出し――」
カリカリカリ、と硬い床を爪で引っ掻くような音が繰り返される。その音を頼りにそっと手を伸ばすと、柔らかい髪に触れた感触がした。が、私の手はすぐに振り払われてしまう。
「っ……あ……ごめ、なさ……」
「ううん、私こそごめんね」
顔は見えなくても、今どんな表情をしているかはわかる。血の気も失って、絶望の淵に落とされたような、そんな顔が目に浮かぶ。
「……僕から、離れて……ください」
何をするかわからないから。また傷つけてしまうかもしれないから。輪郭の掠れた声が、そう警告している。
でも、私は言う通りにはしなかった。暗闇の中をまさぐって、細く、小さな右手をそっと握った。手のひらの中から弱々しい振動が伝わってくる。
「一人にはしないよ」
華奢な指がぴくっと小さく跳ねて、荒く弾んでいた息が一瞬だけ途切れる。
「ヤーラ君は私の声、ちゃんと聞いてくれたよね。だから、大丈夫」
闘技場のときも――いや、その前からずっと。ヤーラ君はどんなに正気を失っていても、最後には私に応えてくれた。もう何があっても私に危害を加えることはないと、自信を持って言える。
「私も、ヤーラ君の声ならちゃんと聞くよ」
「……」
呼吸が少し落ち着いてきた。時折、何かを言おうとして、言葉になり切れなかったものが、吐息といっしょに漏れ出ている。私はそれが言葉になるまでじっくり待った。
中は暗くて、寒くて、いつ出られるかわからない。二度と出られないかもしれない不安と恐怖が脳裏にこびりついて離れない。いやに静かで、波打つ心臓の音が嫌でも耳につく。何も映さない闇の圧迫感で、息が苦しくなってくる。まるで、棺桶の中にいるみたいだ。
こんな思いを、何日も――
「…………が――」
言葉の断片が、私の耳に届いた。
「弟の、泣き声が……してたんです。最初のうちは、ずっと……」
「うん」
プロコーピー博士に語っていたときの淡々とした感じではなく、胸の奥底でぐちゃぐちゃになっていた感情をそのまま声に乗せたような話し方だった。私はちゃんと聞いているのがわかるように短い相づちをして、その次を待った。
「僕は、必死でなだめてました。そのうち父さんか母さんが、ここから出してくれるからって……大声を出すと怒るから、大人しく待っていようって……」
「うん」
「でも、いつまで待っても誰も……来なくて……。弟は泣き止まなくて、僕も……お腹がすいて……。そのうち、弟は静かになって……」
断片的に紡がれる言葉の合間合間に、苦しそうな息遣いが挟まる。その当時の記憶に、喉を締めつけられているかのように。
何度かの深呼吸を繰り返して、ヤーラ君はようやく吐き出した。
「弟を殺したのは、僕です」
その声だけは明瞭で、確かな輪郭を持っていた。
「このままじゃ、2人とも助からないから。お腹がすいてどうしようもないから……弟を殺して食べてしまえば、僕だけは生き延びられるって」
しだいに感情の色が消えていく。なくなっているわけじゃない、必死で抑え込んでるんだ。そうしないと、喋ることもできないから。
「弟に触れてみたら、すごく冷たくて……生きているのかもわからなかった。怖くなって手を離しました。でも……弟が泣くと、父さんと母さんは怒るんです。僕はいつも弟のせいで怒られてる、こんなところに閉じ込められたのも弟のせいだって、そう言い聞かせて……」
もう、胸が詰まって返事ができなかった。かわりに、震えている手を強く握った。
「そこからは……よく覚えていません。気がついたら、レオ先輩たちがいました。父さんと母さんがどうなったかも、ホムンクルスのことも、後から聞きました。だけど、たぶん、僕は本当に――……」
記憶をなくすようになったのも、ホムンクルスが制御できなくなったのも、お肉を食べれなくなったのも、きっとその頃からなのだろう。
助けなければならなかったはずの最愛の弟を手にかけてしまったという罪悪感。奥底にずっしりと根づいている呪いのような感情が、彼を蝕み続けていたのだ。その日から今日まで、ずっと。
神様がいるのなら、どうしてこの優しい少年にこんな苦難を与えたのか。天井を見上げても、どこまでも真っ黒な平面が広がっているだけだった。
「エステルさん……僕は、こんな奴なんです。弟を殺して、自分だけ生き延びて……いろんな人に迷惑をかけて、傷つけて……。――あのとき、死んでいればよかった、って思うんです。僕なんかいなければ……先輩だって、右腕を失わずに済んだのに」
悲痛な声音は暗い地面に落ち込んで、彼の中に閉じ込められていくみたいだった。彼は今、両膝を抱えて一緒に沈もうとしているにちがいない。私はか細い右手をしっかり握りしめて、どうにか引き上げようとする。
「どうしてヤーラ君は、弟さんをホムンクルスにしたんだろう」
ぴく、と手のひらの中の指が動いた。うつむいていた顔が少しだけ浮上する。見えなくてもわかる。
「それは……たぶん、弟を生き返らせようとしたんです。罪滅ぼしのために。……だったら、初めから殺そうとしなければよかったんだ」
「……私、違う理由があると思うんだ」
「え?」
弱々しく薄れた瞳がこちらを向いた。
「弟さんを助けるのは、もうどうやっても無理だったと思う。でも、ホムンクルスになれば――外には出してあげられる。そう考えたんじゃないかな」
かすかだけれど、はっと息を呑む音。
「こんな形でも、暗くて寒い地下室からは助け出してあげたかったんだよ。ヤーラ君は、そういう子だよ」
息が喉に引っ掛かるような音がしだいに大きくなって、嗚咽が混ざり始める。
「私は、ヤーラ君に会えて……本当に幸せだよ。この先何があっても、それは変わらない」
私の手の甲に、温かい雫がぽつぽつとしたたり落ちてきた。降り始めの雨みたいに私の手を叩いていたそれは、だんだん激しさを増していった。
「……ひっ……ぐ、う……っ」
とめどなく溢れ出てくる涙も、深く息を引いてしゃくり上げる声も、それに合わせて跳ねる肩も、全部、私は両腕で包み込んだ。か細い手が私の背中に縋りついてきて、左肩のあたりが徐々に熱く湿っていく。
好きなだけ泣いてくれればいい。今まで我慢していたぶん、全部ここで出してしまえばいい。
子供みたいに泣いているヤーラ君は、今ここで、ようやく子供になれたのだから。
――やがて背中を握っていた指先の力も抜けてだらりと垂れ下がり、その息遣いも穏やかで静かなものになった。軽く肩を叩いてみても反応はなく……どうやら、疲れて眠ってしまったようだった。その眠りは深いようで、やっと得られた安心感に身を委ねているみたいだった。
しばらくはこのまま休ませてあげようと、痩せているようで意外と重みのある身体を支えていると、ふいに、何か――人間ではないものの気配がすぐ傍に現れたのを感じた。
私はその気配の主を知っていた。
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