賢者の石
「博士、離れてください!!」
私は叫んでいた。プロコーピー博士が愛おしそうに頭を撫でているその少女は、すでに魔族の手にかかってしまっていることを――その、額の痣が示していたからだ。
突然のことに、博士はきょとんとした目でこちらを見つめるだけだった。私はなりふり構わずまくしたてる。
「その子は魔族に操られている可能性があります! 額の痣がその印です。すぐに離れないと……!」
必死で警告したにもかかわらず、博士は悠長にもう一度少女を見下ろす。彼女は変わらず、仮面のような無表情を貼りつけたままだ。
「……はははっ」
切迫した状況の中、老人ののん気な笑い声が響いた。
「そう怖がることはない。今のマトリョーナは少し人に慣れていないだけだ。本当はいい子なんだよ」
「そうじゃなくて……」
このときばかりは博士の温厚さを恨んだ。彼の慈愛のこもった眼差しは少女に一切の疑いをかけていない。
確かにレメクの力を与えられたからといって、すぐ私たちに攻撃してくるとは限らないけれど……危険なことに変わりはない。どう伝えればいいんだろう。
焦りばかりを募らせる私の背後から、か細い声が通り抜けていった。
「プロコーピー博士」
不安や恐怖による弱々しさではなかった。振り向いた先にあるのは、すべてを悟り、ただ哀しみだけが残ったようなヤーラ君の表情だった。
「その子は――……ホムンクルス、ですよね」
ほとんど確信したような言い方に、ゆったりと構えていた博士もまた、同じような哀愁を滲ませた笑みで答えた。
「妹だ」
……え?
私はもう一度、人形のような少女に目を注いだ。よく見れば似ているところもある気がするけれど……兄妹というには、あまりにも歳が離れすぎている。
「マトリョーナは、少し歳の離れた妹でな。明るくて、無邪気で……どこにでもいる普通の女の子だった。街はずれで魔物に襲われた、あの日までは」
博士の眼差しは、遠い過去を追想するように宙へ投げられている。
「両足は折れ、右腕は肩のあたりからなくなっていて、小さな身体に穴が空いていた。なんとも痛ましい姿だった。それでも、かろうじて息はあった。どうにか死なせまいと……私は禁術に手を出した」
「それで……ホムンクルスに?」
「失った身体だけでも、と思ったんだ。あのときの私は若かったが、それなりに錬金術を学んでいたし、ホムンクルスの技術も心得はあった。その甲斐あってか、マトリョーナは死なずには済んだ。だが……彼女の魂は、眠りについたままだ」
ああ、そうか。ホムンクルスは成長しないんだ。じゃあ、博士はどれだけの時間、この変わり果てた妹さんの魂を取り戻そうと苦心してきたのだろう。
この研究室に積み上げられた年月が、一気に頭上にのしかかってくる。10歳かそこらの幼い少女と、白髪と皺をたっぷり湛えた老人。その年齢の差が、果てしなく遠く、悲しいほど重く感じられる。
「じゃあ、その……妹さんの、額の痣は?」
ヤーラ君が尋ねると、博士は諦めに満ちたような微笑みを浮かべた。
「もはや、人間の扱う錬金術では限界があると感じていたのだ。そんなとき、知らぬ男が訪ねてきた。この雪国には珍しい、スーツに身を包んだ男だ」
レメクだ。私は直感した。博士が魔族と接触した、という点は事実だったんだ。
「彼は私に魔族の力を与えると申し出た。だが、私は断った。そんなものを私が使っても仕方がないからね。かわりに、マトリョーナに与えてもらったのだ。魔族の力なら、もしかすれば……と、一縷の望みに賭けた。結局、それも無駄だった」
もう、藁にもすがる思いだったのだろうか。魔族の力にまで期待をかけるしかなかった博士の心中を思うと、やるせない。
「その魔族は、何か言いませんでしたか」
ヤーラ君は少し身を強張らせながら、上目で博士の顔をうかがう。
「……ああ。『これからここに子供が訪ねてくるから、助けてやってほしい』とな」
助ける? 試練を与えるという話だったはずだけど……。
「その子供というのが、イロフスキー君の息子とは思わなんだが……今ではよくわかる。君の魂を進化させる手伝いをしろと、そういうことなのだろう」
話が戻ってきた。ホムンクルスに魂を与えるには、作り手の魂を進化させるしかない。それが成功すれば、博士の妹さんだって、助かるかもしれない。
「それじゃあ、どうすればいいんでしょう?」
博士がさっき何か言いかけていたのを、私は覚えていた。博士がやや顔をうつむけると、見たこともない不思議な微笑が、薄暗闇に滲む。
「『賢者の石』の作り方を知っているかね」
『賢者の石』なんて、私でも知っている錬金術の究極の技術だ。鉛から金を錬成したり、病を治したり、果ては不老不死にもなれるという、奇跡の物質。
もちろんヤーラ君だって知らないはずはなく、すらすらと模範的な答えを述べ始めた。
「一般的には、硫黄と水銀を丸いフラスコの中で結合させて、反射炉で加熱を――」
ヤーラ君は何かに気づいたように言葉を切ったかと思うと、血相を変えて私に叫んだ。
「逃げてください!!」
その声が届くのと、私の身体が何かに縛り上げられるのは、同時だった。
「っ!?」
口まで塞がれて、声を上げることすらかなわなかった。何が起こったのかわからない。ただ、太い木の根みたいなのが身体中に巻きついているのが見える。その根の元を辿っていくと――あの女の子がいた。
おそらく数十年間変わらない無表情に、あやしく光る額の痣。その右腕が、化け物のように変形して、私を捕まえている。
「硫黄と水銀を入れたフラスコは『哲学者の卵』と呼ばれる。それを加熱していくと、中の物質はまず黒色になる。それがしだいに白くなっていき、最後は赤色となって完成する。黒は死、白は再生、赤は完全を意味するわけだ」
人差し指を突き立てた博士の講義が遠くに聞こえる。ヤーラ君は険しい顔で自らの師を睨んでいた。
「エステルさんは関係ありません。離してください」
「いや、君たちは硫黄と水銀だ。これから『哲学者の卵』の中で、同じ経過を辿るのだ。そうすれば、完全なる魂が手に入る」
同じ経過。死と再生を経て、完全になる。ということは――
そのとき研究室のドアが破れそうな勢いで開いて、大勢の人間が押し寄せてきた。どれも見覚えのある人たち――博士の弟子や使用人だったが、先ほど見たときとは打って変わって、彼らも一様に魂が抜けたような無表情を貼りつけていた。
彼らは迷いなくヤーラ君の細い両腕に掴みかかり、動けないように押さえつける。
信じられないことだったが、今、ようやくわかった。彼らもまた、人間ではなかったのだ。初めから、この研究所には人間は1人しかいなかった。
「思い出すだけでも腹立たしいのだがね……君の父親は、酒に酔って君たちにした仕打ちをよく自慢げに話していたよ。まったくおぞましい男だった。しかし……今の君に必要なのは、それを乗り越えることだ。そうだろう?」
博士は部屋のテーブルを少しずらし、その下に隠されていた扉を開ける。床に空いた長方形の穴からは、どこまで続いているのかわからない古びた梯子が真っ黒な地下へ溶けているのが見えた。
人間ではないものたちの集団は、私たちをその墓地の入口のような穴へ押し込もうとする。抵抗することはかなわなかった。
「……久しぶりに、魂のある人間と話せて嬉しかった。ここが『哲学者の卵』だ。君たちが完璧な『賢者の石』になれるよう、祈っているよ」
老人のその穏やかな笑顔には、恐ろしいくらいに――善意と希望が満ちあふれていた。
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