静かな家
レイはただ無我夢中で走った。余計な思考を振り払うように、迫りくる絶望に支配されないように、必死で足を動かした。
あてなどなかった。ほとんど廃墟と化した家々を一軒一軒、しらみつぶしに探し回った。転がっている焼死体にどきりとしては、見覚えのない姿に束の間の安堵を覚えた。
弾んだ息を整える間も惜しんで、レイは比較的形の残っている民家の前に立った。外からでも中の静寂が伺えるほどで、ドアを開けるのを妙にためらった。立ち止まっていたら一気に不安が押し寄せてきそうで、レイは力いっぱいドアを押し開けた。
そこには寒々しいほどの闇が広がっていた。時間が、空間が、死んでしまっているかのように静かだった。レイは全身が鉛になったような重さに襲われたが、歯を食いしばって、乾いた木の床を踏みしめて進んだ。
中は空っぽなのかと疑うほど何もなく、誰もいなかった。地獄の跡地となった外からは完全に切り離されているかのようだった。
レイの駆り立てられるような焦燥感はしだいに落ち着き、打ち捨てられた家を眺め歩くような感覚で、最後に寝室に足を踏み入れた。
そこにあったのは、斜めにずれたベッドと、落ちて壁によりかかった枕と、くしゃくしゃのまま床に広がった毛布、それから死体が2つ。
死体は、この部屋にあって、乱雑に置かれた寝具と同じ立ち位置に溶け込んでいた。捨て去られた家具となんら変わりのない存在感に、レイはそれらを認識するのに少しの時間を要したほどだ。
「……は?」
しだいに、その無残な母娘の姿とレイの記憶が合致していった。母は愛娘のほうへ手を伸ばしたまま事切れており、娘の見開かれた両の目からはどす黒い涙の跡がくっきりと残っていた。
「――ッ!!」
麻痺していたレイの情動は急激に息を吹き返し、抑え込んでいたものを一気に溢れさせ、胃の内容物を吐き出させた。生きていた頃の2人が、エミュナのあどけない笑顔が脳裏に蘇ってくると、吐くものがなくなってもなお止まらなくなった。
「なん、で……」
絞り出した問いかけは、虚空の中に消える。
そのとき、部屋の外でガタッと物音がして、静止していた家の中が時間の流れを取り戻した。
レイは倒れそうな身体に鞭打って無理やり立ち上がり、剣を抜く。誰かがここに近づいている。大きくなる足音で距離を測り、タイミングを見てドアを蹴破った。
無人であるはずの家でいきなり扉が開いたら、驚かない者はいないだろう。外にいた誰かは短い悲鳴を上げ、その隙にレイは剣の切っ先を首元に突きつけた。
「ひっ……!」
「お前――」
侵入者の顔にも覚えがあった。村に最初に訪れたとき話を聞いた、魔人を目撃したという男だった。改めて内装を見回すと、確かにここは彼の家だ。
「テメェ……寝室のあれは、何だ」
死体という言葉は避けて、レイは問いただす。男は怯えながらも、すぐさま思い出したように敵意を向けてきた。
「何だって、お前らこそどういうことだ!! 魔人は倒したなんて偉そうに言っといて、3体も残ってるじゃねぇか!! 奴らと組んで、この村を襲わせたんだろ? この、ド悪党ども!!」
村人たちの認識では、レイたちが魔人とグルだったということになっているようだ。そんな勘違いを訂正する前に、確かめておかなくてはならないことがあった。
「その魔人が、どうしてお前の家にいるんだよ」
「山の見回りに行ったんだ。あんたらの話が本当か確かめるためにな。確かに魔物はほとんど出てこなくなってたが、あの魔人のガキがうろついてるのを見つけた。そいつを捕まえたら、今度は女が出てきた! 最初はあんたらの取りこぼしかと思った」
「それで、ここに連れてきたのか」
「ああ。他にも魔人がいやがるんじゃねぇかって、尋問するためにな。だが、女は何も喋らねぇし、ガキはギャーギャーわめきやがるしで、始末することにしたんだ。そうしたら、あの男が来て――」
聞きながら、レイは腸が煮えくり返る感覚にじっと耐えていた。彼らにとっては魔族など害獣と同じで、命を奪うことに何の抵抗もないのだろう。山に入るなという警告も無視して、挙句がこの惨状。とうてい弁護できるものではない。
この男をどうするか、レイは迷った。あの母娘を殺害したことは万死に値する蛮行だったが、自分が手を下すことは躊躇された。相手は魔物ではなく、人間なのだ。
そのためらいが、隙を生んだ。
突如、レイは後頭部に鈍い衝撃を受けて、床に叩きつけられた。手放した剣が乾いた音を立てて離れる。
ぼやけた視界には、先ほど話していた男とは別の、やたらと体格のいい男が映っていた。
「兄貴、無事か?」
「助かったよ」
激痛に阻まれながらも、レイは記憶を手繰った。この男は確か、山に入るときは腕力のある弟を連れていくと言っていた。そのことをすっかり失念していた。
「この子供はどうする?」
「奴らの仲間だろ? なら、魔族と変わりゃしねぇ」
「それもそうだ」
彼らはまた、畑に侵入した獣を前にしたような調子で短い話し合いを済ませた。弟のほうがレイを押さえつけて、兄が床に落ちた剣を拾う。
レイはもうほとんど動ける気力もなく、振りかざされた自分の剣を他人事のように眺めていた。
その剣は、吹き散らされた鮮血とともに再び宙を舞った。柄には男の肘から先だけが生えていて、首と、胴体と、順番に落ちていった。
瞬間的に輪郭を取り戻したレイの視界に、怒りの形相に全身をこわばらせたガルフリッドがいた。
降り注いだ血がレイの顔に点々と生ぬるさをもたらす。男をバラバラに分断した斧は、間髪入れずに反撃に転じた弟のほうに向いていた。
刃は幹のように太い腕に食い込むが、切断には至らず、途中で食い止められる形となった。弟は空いているほうの手でガルフリッドの顔面を捕まえ、思いきり壁に叩きつけた。
轟音とともに壁が粉々に砕け、ガルフリッドの身体はその向こうへ放り出された。手負いにもかかわらず、弟は壁の穴を乗り越えて無事なほうの腕で追撃にかかった。
ガルフリッドはかろうじて握っていた盾で、落石のような拳を受け止めた。その一撃は岩のように重く、両足が沈むほどの衝撃を与え――古傷を補強していた足の器具を、へし折った。
これでは足を失ったに等しい。が、彼は続く二撃目を、盾で殴り返す形で迎え撃った。
鈍い金属音と、拳がひしゃげる音。弟が痛みに呻いたところで、ガルフリッドはすかさず斧を振るった。
太い刃は、巨漢の下腹部を一文字に斬り裂いた。
「うお、ご……」
中のものを裂け目からボトボトと飛び出させて、弟は膝をついた。ガルフリッドは片足を庇いながら、その前に立つ。
「こ、の……悪魔ども……!!」
死に際の呪詛の言葉を、ガルフリッドは鬼のような顔つきで跳ねのける。
「女子供に手ェかけた馬鹿に言われる筋合いはねぇ」
無骨な斧が、一切の躊躇もなく男の首をはねる。
レイは薄ぼんやりと、生命の気配を失った2つの死体を見ていた。唯一生きているガルフリッドだけが、自分と現実を繋ぎとめているように感じた。
「……飲めるか」
差し出されたポーションを、レイは素直に受け取った。瓶の中身を飲み干してすぐ、嘘のように痛みが引いた。通常のポーションとは効き目が段違いだ。
レイは改めて、寝室に横たわる母娘の亡骸を見た。こんなところに捨て置かれているのが不憫でならなかった。
ふと、エミュナのポケットに何かが入っているのに気づく。
取り出してみると、それは一輪の花だった。あの山奥の彼らの家に咲いていたものだ。
「……!」
そこでレイは、ある想像に行きついた。このいたいけな少女は、自分たちと別れた後――この小さな手土産を届けるために、後を追ってきたのではないかと。その途中で、不幸にも人間に見つかってしまったのではないかと。
「それは、お前が持っておけ」
ガルフリッドの不愛想な声が、今までにないほど優しい響きをもってレイの中に染み透っていった。
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