儚い炎
月は分厚い黒雲に隠れ、燃え残った火の明かりだけが周囲の状況を知らせてくれる。ほとんど黒い影となったヨブさんは、感情のない声で語った。
「皆さんの忠告通りに逃げる準備をしていたとき、エミュナの姿が見えなくなりました。致命的な油断でした。妻と二手に分かれて探したのですが……結局2人は、村人に見つかってしまったようです」
表情のわからない顔に、赤い瞳だけがうっすらと浮かぶ。
「私はもうなりふり構っていられませんでした。妻と娘がいなければ、私はこの世界で生きていられません。村に下りて適当な人間を捕まえ、問い詰めました。……2人はすでに殺したと、聞きました」
淡々と告げられた事実が、冷たく背筋を撫でる。
「もうだめだと、思いました。とにかく、この村の人間を殺すことにしました。無関係の人間も大勢いるのは知っています。ですが、妻と娘だって、無関係だったはずです」
どのくらい時間が経ったのかわからないが、レイもガルフリッドさんも、まだ帰ってこない。ヨブさんは、とうに覚悟を決めてしまっていたのだろう。
「どうか、今回は見逃さないでください……。私はきっとこの先も、無関係な人間を殺してしまうでしょうから」
手のひらの上に、小さな炎が灯った。火が、絶望に侵食された顔を照らす。
ヨブさんと戦わなければならない、ということだ。誰も救われない戦い。そんなの、やめてほしい。けど……やめたところで、私はヨブさんに何と言えばいいのだろう?
「やるしかねぇんだろ」
ゼクさんが剣を握りしめる。スレインさんもロゼールさんも、手を引くつもりはなさそうだった。
「テメェらはすっこんでろよ。俺一人で十分だ」
「そうは見えないけどねぇ。腰が引けてるわよ、大きなワンちゃん」
「ああ⁉」
ロゼールさんはからかい半分だが、確かにゼクさんも少しやりづらそうだった。ヨブさんがかすかにため息を漏らす。
「これほどお優しい方とは思っていませんでしたよ、ゼカリヤ様。しかし……私に対しては、情けは無用です」
そう言ってすっと手のひらを突き出し、火炎の球を生成した。ゼクさんは刃を盾にして攻撃に備える。
が、その火のつぶてはまったく別の方向に射出され――私の眼前に、迫っていた。
「え……」
「エステル!!」
スレインさんの叫び声が鼓膜を刺すと同時、私は後ろへひっくり返された。背中は地面にべったりつき、すぐ前には私に覆いかぶさるスレインさんがいて、その後ろから黒煙が立ち上っている。
「スレインさん……⁉」
横転して倒れたスレインさんの背中は、硫酸でも浴びせられたみたいに痛々しい焦げ跡を残している。あの小さな火で、ここまでの威力だなんて……。
「何やってるのよ、馬鹿!」
「野郎ッ!!」
ゼクさんが反撃に転じようと前に踏み出した瞬間、巨大な炎の壁が一面に広がり、その道を阻んだ。剣で振り払おうにも、炎の勢いが勝って前に進めない。
すかさずロゼールさんが、さっきと同じように燃え盛る炎を凍らせる。真っ赤な壁は冷たいガラスに包まれて、空気に溶けるように掻き消えた。
気づけば、ヨブさんの姿まで消えていた。
「おい、後ろ!!」
はっと振り向いたロゼールさんは、暗闇から突き出た腕に殴り倒される。流れ出る鼻血を手で押さえる彼女に、蹴りの追い打ちが入る。
「ロゼールさん!!」
私の叫び声など聞こえないかのように、ヨブさんはロゼールさんを殴打し続けた。いったん手を止めた彼は、ゆっくりと首を捻って不気味な無表情を向けてくる。
「ゼカリヤ様。お仲間が死んでしまわれますよ」
深淵から響くような挑発だった。ゼクさんは深い皺ができるほど眉根を寄せて、ぎりりと歯噛みする。
「この……クソがぁ!!」
自分を奮い立たせるような怒声を上げて、真っすぐに前進する。剣と炎が交差して、爆風みたいに火花が飛び散った。
倒れ伏している2人は、命にかかわるような負傷ではなさそうだった。スレインさんは痛みを堪えるように身を震わせていて、ロゼールさんは絶えず咳き込んでいる。私はすぐに手当てに取り掛かった。たぶんもう、私が狙われることはないだろうから。
炎の帯と銀色の刃が何度も交差して、オレンジ色の光が地面の上で明滅する。
あの炎の壁を出させないためだろう、ゼクさんはかなり距離を詰めて戦っているが、大きな剣では小回りが利かず、何度も空振っている。ヨブさんも炎を巧みに操って目をくらまし、隙を与えないよう立ち回っている。
ゼクさんの渾身の突きが虚しく空を裂いたとき、その突き出た腕をヨブさんが掴んだ。そこから赤い煙が噴き上がる。
「あっちィ!!」
思わず手を引いたゼクさんは、はずみで剣を落としてしまう。拾う間もなく、ヨブさんの足が大剣を遠くへ蹴飛ばしてしまった。
失った武器を追っていたゼクさんの眼は、すぐ鼻先まで迫っていた拳に気づき、間一髪のところで回避にまわる。
が、火炎を纏った拳が次から次へと襲い掛かり、ゼクさんは素手での戦闘を強いられることになった。
単純な力比べならゼクさんのほうが勝っているだろうけれど、ヨブさんには炎の魔術がある。まともに触れれば火傷する危険性のある中では、ゼクさんのほうがやや不利に見えた。
隕石みたいに光の尾を引きながら夜の中を駆け回る両の拳と、鞭のようにうねり跳ねる炎は、単純に考えれば腕が増えたようなもので、それらの猛攻を捌くのにゼクさんは必死だった。
防戦一方。彼には一番似合わない状況。
攻めの手を休めないヨブさんは、依然として無感情の鎧を身につけたように虚ろな表情だった。飛び散る火が、光の中で命を散らしていく蛍みたいだった。
激しい戦闘が儚い情景に見えてきて、ヨブさんの鎧が徐々に剥がれ落ちていくような気がした。
反対に、ゼクさんの面相は険しさを増していった。怒りや苛立ちとは少し違う、何か歯がゆさを含んだ険しさだった。
その激情が頂点に達したとき、ゼクさんは何を思ったか、ヨブさんの両手をいっぺんに鷲掴みにした。
そんなことをすれば当然、掴んだ手から放たれる炎で焼かれてしまうに決まっている。実際、すでに彼の両手から黒い煙がじりじりと立ち上っていた。
が、ゼクさんはその手を離さず──後ろに反らした頭を、ハンマーみたいに振り下ろして頭突きを叩き込んだ。
額を真っ赤にしたヨブさんはよろよろと後退し、ここだとばかりにゼクさんは顔面に拳を打ちつける。ようやくまともに入った一撃だった。
ヨブさんもふらつきながらも踏み止まり、ゼクさんの頬に重い一発を返す。殴られた顔は微動だにせず、あえて避けなかったようにも見えた。そうしてまた、次の一撃をぶちかました。
殴って、殴り返して、また殴られて。小細工なしの殴り合いは、お互いの顔が腫れ上がるまで続いた。戦う理由なんて忘れてしまったみたいに、夢中になっているようだった。
「オ……ラァ!!」
何度目かわからない拳の打撃が、ようやく勝負を決める。地べたに背を沈めたヨブさんは、もう起き上がる気力も残っていないらしかった。
「……ふふっ」
倒れたまま、彼は笑った。すがすがしそうな顔だった。
「私はあなたが羨ましかった……魔族でありながら人間に受け入れられて、こちらの世界で生きているあなたが。……きっと、相応の苦労もあったのでしょうが」
ゼクさんは何も言わず、ただ肩で荒い呼吸を繰り返している。
「ですが、私はあなたのようにはなれない。今、思い知りました。ここで終わるべき運命なのだろうと……」
さっきまでの悲壮感は、不思議と感じられなかった。
「さあ、殺してください」
村の奥からずるずると鈍い足音がして、ガルフリッドさんを支えながら歩くレイが見えた。2人のほかは誰もいなかった。レイは何も言わず、悲しげな子犬のような眼でゼクさんを見上げている。
ゼクさんはゆっくりと剣を拾って、哀れな魔人を家族の元に送り届けた。
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