青天の霹靂
天まで届きそうなほど伸びる木々の上、大きな黒い影が太い枝をたわませている。立ち上がったそれは分厚く盛り上がった胸筋を何度も叩き、対峙するマリオさんを威圧している。
――ホワイトエイプ。Bランク級の難敵。遠くにいるのが信じられないくらい、その巨躯は目立った。
「あれがボスね」
スターシャさんは想定通りといった冷静さで、巨大な魔物を眺めている。
ボスの後ろには何体もの仲間が控えていて、放つ重圧を増していた。マリオさんは平素の笑みのまま、小さなナイフを上着の内ポケットから取り出す。
手首をひゅっと捻って飛んで行ったナイフは、ボスの肩の辺りに浅く突き刺さった。白い体毛から短い刃物が塵のようにこぼれ落ちる。虫に刺される程度の攻撃でも、魔物の神経を逆なでするには十分だった。
「……ヴォオオオオオオ!!」
枝葉を揺るがす雄叫びを合図に、ホワイトエイプの群れは一斉に動き出した。その図体からは信じられないような俊敏さで、ちっぽけな人間に襲いかかる。
殺気を覆いかぶせてくる獣たちを前に、マリオさんは足場にしている枝から飛びのき、空中に身を投げ出す。
地面に吸い込まれていった身体は突如ふわりと弧を描き、落下スピードを味方につけて振り子の軌道で空を突き抜け、遥か高い枝に着地した。
糸を巧みに操って三次元空間を縦横無尽に駆け回るマリオさんには、樹上をフィールドとするホワイトエイプたちも追いつくことができなかった。時折嫌がらせのように放たれるナイフが、彼らをますます混乱させる。
そのとき、雷鳴が空を裂いた。
稲光が木の中を破りながら走り抜け、バキバキと音を立てて倒壊させる。そこを足場にしていた何体かの魔物は、巻き込まれて地面に転がされた。
「か、雷……!?」
上空は真っ青に晴れ渡っていて、落雷の気配は微塵もない。慌てる私をたしなめるように、スターシャさんが言い添える。
「あれは、クルトの魔術よ」
「え? クルトさんって、魔法剣士なんですか?」
「ええ。雷の魔術と二刀流の剣術――どちらも腕は一流よ」
クルトさんは今まさに、ボスの後ろから双剣を振り上げて斬りかかろうとしていた。
だが、そう容易くやられてはBランク級とは呼べない。ボスは丸太のような腕を振り回し、2つの太刀筋を腕力で弾き返した。クルトさんは空中で一回転して別の枝によろけながら着地し、剣を構えなおす。
その背後から、まだ上に残っていた数体の魔物が迫ってくる。前方からはボスの怒りの眼差し。クルトさんは前後から挟まれる形になった。
突如、後方から飛び込んできた魔物たちが、宙づりになって空中に固定された。
私にはもう見慣れてしまった糸の罠。仕掛けたマリオさんは、すでにボスの背にピタリとついて、長い針を構えている。
それでもボスは抵抗の意志を鈍らせず、上半身を思いきり捻って肘でマリオさんを吹っ飛ばす。命綱になっていた糸も殴打の衝撃は殺しきれず、マリオさんは太い幹に打ちつけられた。
入れ替わるようにして飛び込んだクルトさんは、今度は致命傷を狙わず左手の剣を脇腹に滑り込ませる。ボスがうめいたところですかさず二撃目――というところで、肉厚の手のひらがクルトさんの胸倉をがっちりと捕まえる。
槍でも投げるみたいに大きく振りかぶったボスは、クルトさんを思いきり空高くへ放り出した。山なりの軌道を描き、あわや地面に向かって一直線に落下しかけたとき、彼は小さな枝にぶら下がって死を免れた。
が、2本の剣はすでにクルトさんの手を離れており、すぐに逃げられる体勢ではない。ここぞとばかりにボスは一気に距離を詰め、トドメを刺そうとする。
「チェックメイトね」
スターシャさんが静かに言い放った瞬間、再び雷鳴。
見上げれば、ホワイトエイプの真っ白だった体毛が、黒く焦げついて煙を立ち昇らせている。筋骨隆々の獰猛な獣は、力なくその巨体を枝に垂らしていた。
一瞬で勝負を決めた雷魔術は、スターシャさんの評した通りの実力だった。
必死でぶら下がっていたクルトさんは、マリオさんの糸でどうにか救出され、上でぺこぺこと感謝している様子が伺えた。2人とも大した怪我がなさそうなのは、きっとヘルミーナさんの補助魔術のお陰なのだろう。
これでクエストはほとんど完了。あとはヘルミーナさんと合流して――と気を抜いたとき。
どさっ、と上から何かが降ってきた。
大きな黒い岩の塊にも見えたそれは、間違いなく、さっきまで樹上にいたはずのホワイトエイプのボスだった。
「っ⁉」
「下がって」
息を飲んだ私を、スターシャさんが冷静に庇ってくれる。でも、私たち2人でこんな魔物を相手にできるわけがない。
雷に打たれたにもかかわらず、ボスはすさまじい勢いでこちらに走ってくる。一呼吸遅れてマリオさんも地上に降り立ったが、すでに私たちの目と鼻の先に猛獣の巨躯が近づいていた。
――が、恐ろしい魔物はなぜか私たちを素通りして、大急ぎで雪の上を駆け抜けていった。
遠のく背中を茫然と見送っていると、クルトさんがいそいそと木から降りてきた。
「スターシャ、エステルちゃん、大丈夫だった?」
「はい。なんか、私たちなんて眼中にない様子でしたけど……」
「追いかけたほうがいいかも」
雪に残る足跡を見据えて、マリオさんがぽつりと告げる。
「あっちはヘルミーナが向かった方向だ」
◇
落石で陥没したみたいに刻まれた足跡は、ときどき蛇行しながらも真っすぐ目的地へ続いている。辿っていった先には小さなほら穴がぽっかりと空いていて、入口の手前には見知った後ろ姿があった。
「ヘルミーナさん! 大丈夫だった?」
「あ……はい」
「こっちのほうにホワイトエイプのボスが逃げてきたはずなんだけど」
マリオさんが言うと、ヘルミーナさんは何か言いづらそうに口を結びつつ、横目でほら穴の中を示す。
「中だね」
「やだなぁ、狭くて暗いとこ」
マリオさんは右手で糸を手繰り、クルトさんはぼやきつつも剣を抜く。迷いなく穴に入っていく2人に私とスターシャさんも続いたが、ヘルミーナさんだけは妙にためらいがちだった。
中は日差しのまったく届かない暗闇で、クルトさんが剣先を帯電させて照らしてくれた。このほら穴はそう深くはないようで――すぐに、奥の漆黒から2つの眼光が浮かび上がった。
「グゥウウウウ……」
低いうなり声が這い寄ってくる。あのボスは手負いだが、両目に灯る戦意はますます強くなっている。
「先は行き止まり。敵は袋小路よ。魔術で一気に畳みかけましょう」
スターシャさんの冷徹な声に従って、クルトさんが剣に稲光を纏わせる。その雷電を射出しようとしたとき――
「まっ、待ってください!」
上ずったようなヘルミーナさんの必死の叫びが、クルトさんの手を止めた。
「え、な、何?」
「奥に何かいるね」
マリオさんは暗くても目が利くのか、ボスの後ろにいるものに気づいたようだ。クルトさんが魔法で明かりを強めると、その姿が光の中に浮かび上がった。
ひしめき合うように丸まっている、小さな白い毛玉。ホワイトエイプの、子供だった。
よく見れば、ほとんどが傷を負って弱っている。今にも消えてしまいそうなか細い命を庇うように、ボスは大きな身体を広げている。
「これは……怪我をした子供を守ろうとしている、ってこと……ですよね?」
誰にともなく確認する。ヘルミーナさんは先にこの中を探索していたのか、子供たちのことを知っていたのだろう。
魔物とはいえ、傷ついた子供まで殺すのか。まず判断を下したのは、スターシャさんだった。
「構うことはないわ。あの幼体が成長すれば危険な魔物になる」
その通りだ。魔物は人を襲う。危険の芽は早めに摘む、というのも正しい選択なのだろう。でも――
「やーめた」
2本の剣を地面に突き刺して、クルトさんが座り込んだ。
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