平和主義者

 太陽も雨ももたらさない闇色の空。弱々しい燭台に照らされた古びた壁と、粗末なカーペット。

 もはや動くこともままならなくなったヨアシュは、何の感情もなく故郷の景色を眺めていた。いっそ、あのまま地面に叩きつけられてしまったほうが良かったかもしれない、と思った。


「おかえり」


 薄汚れたカーペットを踏みしめる、男物のブーツ。ロングコートにすっかり包まれた高い背丈の上に、深々と収まった帽子と――仮面。


「……レメク兄ちゃん」


「本当は、俺が『ただいま』を言う側だったのに」


 レメクは満身創痍の弟を軽々と抱き上げ、簡単な治癒魔術を施す。仮面の下には、呆れたような苦笑を浮かべていることだろう。


「帰ってたんだね」


「ああ、魔王様のお呼び出しでな」


 人間界に潜入、というよりも好きで長居しているとも言えるレメクは、嫌々仕方なく、という調子で返答する。

 そんな彼を、魔王がわざわざ呼び返す理由は1つしかない。


「……やるの? 大侵攻」


「みたいだな」


 人間界に通じる巨大なゲートを開き、大勢の魔族を率いて侵攻する――歴史上、幾度も行われてきた一大作戦。決戦の日が、迫っているということだ。


「へぇ……じゃあ、僕は見限られちゃったわけだ」


「無事に帰ってくりゃ、魔王様もお前を参加させてくださったよ」


「僕みたいな言うこと聞かない駒は、扱いづらいでしょ」


「それを言うならダリアだよ」


「……ダリア姉ちゃん、何かやっちゃった?」


 レメクは仮面から漏れ出すほどの、深いため息をついた。


「大侵攻のおおよその計画が決まった途端、勝手に人間界に行って、宣戦布告したんだと」


 さしものヨアシュも言葉が出ない。ダリアの頭が弱いのは重々承知していたが、ここまでとは。


「というわけで、これから俺は人間界にとんぼ返り。予定外の潜入作戦決行さ」


「ご愁傷様」


「はは……。そういえば、どうだったよ。<ゼータ>は」


「そうだね、死ぬほど嫌いになった」


 うんざりした様子だったレメクは、今度こそ純粋にくくっと笑う。


「なるほど。こりゃあ、楽しみだ」



  ◇



 ヨアシュたちとの戦いから数日、西方支部は相変わらずバタバタしているけれど、「最果ての街」はようやく落ち着きを取り戻しつつある。一方で、今度は帝都の本部のほうが慌ただしくなっている――というのを、ドナート課長から教えてもらっていた。


「大侵攻、ですか……」


『そうだ。近いうちに、魔族が軍を成して<黒き谷の遺跡>から侵攻してくる計画があるらしい。我々<勇者協会本部>が中心となり、対策を講じていく所存だ』


 支部長室で<伝水晶>を囲んでいる仲間たちの顔が険しくなる。


 そう、この事態に対処するのは、おもに本部だ。だから――私たちも、帝都に帰らなければならない。


『もちろん、君は<ゼータ>のリーダーとしての務めに集中してもらって構わない』


「ありがとうございます、でも――私が言うのもなんですけど、そっちも忙しいんじゃないですか?」


『問題ない。今回の件で、職員も大幅に増員されてな。うちの課にも有能な新人が来た』


『有能~っ!?』


 後ろでレミーさんの裏返った声が聞こえてくる。


『確かにあいつ、仕事はできるかもしれねぇよ!? でもな、俺はああいうすました野郎はいけ好かねぇっ!! ぜってぇ裏で悪いことやってるぜ!?』


『わけのわからん憶測を言うな。少なくとも、仕事面では文句のつけようがない。エステル、君には帰ってきたときに紹介しよう』


「はぁ……」


 へっぽこの私を補って余りある人が来てくれたのは喜ぶべきなんだろうけど、どうもレミーさんはその新人さんが好きじゃないみたい。

 ともかく、詳しい話は帰ってからということになった。


 となれば――私は西方支部の支部長を晴れて解任。後継者を決めなければならなくなる。

 適任者と呼べる人は、今のところ1人しか思い浮かばない。



 その彼に掛け合ってみたところ、驚くほど簡単に承諾してもらえたのだけど――私はかえって不安だった。


「あの、本当に大丈夫ですか? ファースさん……」


「ええ。肩書が変わるだけで、やることは今までと変わりませんから」


「いや、そうじゃなくて……その……」


 今までは協会に身を潜めていたらしいというのを聞いていたけれど、これからは本職の……つまり、ギャングのボスとしても忙しくなるんじゃないだろうか。2つの組織を束ねる立場になって大丈夫なのか……その心配が顔に出ていたのか、ファースさんも察したように微笑んだ。


「気にしないでください。今後は部下にもいろいろ任せていこうと思ってます。まあ、向こうにも話はつけておきますよ」



  ◆



 ファースはギャングのボスとして出るときは、伊達眼鏡も大きすぎる帽子もつけないことにしている。ひと気のない路地裏で、剥き出しの貫禄を放つ主を前に、3人の獣人は居住まいを正している。


「――そういうわけで、オレはまだ協会のほうにいる。そっちは今まで通り、トニーに任せる」


「……はい」


 指名された青犬は、少し自信なさげに目を伏せる。対して兄の赤犬は能天気だ。


「そんな顔しないの~。逆らう奴がいたら、僕が皆殺しにしてあげるからさっ」


「兄貴が一番の不安要素なんだよ」


 弟の苦言などどこ吹く風で、赤犬は飄々と話を変える。


「そういえばボス、ヴォル兄ちゃんはどうすんの?」


「ヴォルフはオレがいないと何もできないからな。判子の押し方から覚えさせる」


「マジっすかぁ、旦那~!!」


 狐はぐったりと気力をなくしているが、ファースは正直なところ、彼には<ゼータ>なき後の戦力補強のほうを期待していた。

 煙草を1本咥えると、すかさず青犬が火を寄越す。


「まあ、しばらくは街の復興だな……。資金繰りも考えないと――」


「そのことならお任せくださいッス――っ!!」


 どこからともなく響き渡る高らかな声。図ったようなタイミングで登場したのは、<サラーム商会>のルゥルゥだった。


「街のほうはなんかめちゃめちゃになっちゃったッスけど? 我々<サラーム商会>は無事というか、お陰様でライバルほぼ全滅したんで絶好調なんス♪ というわけで、お金にお困りでしたらこちらまで!」


「あー……ええ、ご融資の申し出ですか。ボクらとしてもありがたいんですが、その――」


「およ~? まーだちびっ子副支部長モードなんス?」


「晴れて今度から『支部長』です。協会のほうを支援してくださる、というお話ではないんですか?」


「<ウェスタン・ギャング>に、って言ったらどうしまス? ビッグ・ボスさん」


「なるほど」


 煙草の先端が橙色に燃え、また黒にくすむ。ゆったりと吐き出された煙が、空へ立ち昇る。

 ファースは声を発することもなく、ほんのわずかな顎の動作で指示した。


 途端、犬の兄弟が幼い少女の首元すぐ近くに短い刃物を突きつける。


 目の前と両脇から殺意に囲まれた少女は、繕った笑顔を一切崩さなかった。


「商売は、信用が命……。でもな、小娘。以前、お前が契約書にふざけた文言ぶち込んでくれたのをオレは忘れてねぇんだ」


「あれは協会と交わしたものッスよ」


「そんなことをする連中を信用できるかって話だ。犬の餌になりてぇのか?」


「おっ、ルゥルゥちゃん食べちゃっていいの~? どこからいこっか。そのくりくりした可愛いおめめから抉り出しちゃおうかな~?」


「遊びじゃねぇんだ、兄貴。……やるならひと思いにやってやるが、どうする。よく考えな」


 犬の兄弟はスタンスは違えど、ボスの一声ですぐこの場を血染めにする用意ができている。ルゥルゥはわずかに目を細めた。


「……うちは、世界規模の組織ッス。ド辺境のゴロツキが、真っ当に相手できるとでも?」


「利害得失しか頭にねぇ拝金主義どもが、小娘の命と引き換えに何の旨味もねぇ喧嘩やると思ってんのか?」


 遠慮無用の殺意の応酬を交わしていた2人は、しばらく睨み合った挙句――同時に笑い出した。


「あはははっ! 冗談ッスよぉ~。もちろん、前みたいなややこしいことは一切しません。協会でもギャングでも、お安くご融資させていただくッス!」


「それはどうも。今後とも、仲良くやっていきましょう。『平和商会』さん」


「こちらこそ、温厚で平和主義のホビットさん」


 赤犬も青犬も、さっと刃物をしまう。

 この街では血が流れなければ平和なのであり、ファースもルゥルゥもそのことをよく心得ていた。


 2人のやりとりに最も怯えていた「エース」が一番血の雨を降らせてきたという事実は、何よりの皮肉だった。


「それと……そちらが世界規模だというのは重々承知しておりますが――」


 ファースは煙草をぽとりと地面に落とし、足でぐりぐりと踏みつけて火を消す。


「この街は、オレのシマだ」

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