変わる明日へ

 予定外の太陽が内部の薄暗さに光を差し込み、壁にべったりと擦りつけられた血の跡を鮮明にする。身体がちぎれそうな痛みに耐えながら、ヨアシュはふらふらと大嫌いな日の下――時計の文字盤が見える屋上へと向かっていた。


 そこへ通じる階段は抜かりなく破壊してあるため、追跡される恐れはない。あとはゆっくり「ゲート」を開いて、あの枯れ果てた魔の世界に帰るだけだ。


 ようやく外に出ると、血痕は余計に目立つ。完膚なきまでにやられたのだという現実を、情け容赦なく突きつけてくる。ナオミは死んで、自分は重傷。地面にへたりこみながら、いっそ大声で笑いたくなった。



「――ひどい有様だな、小坊主」



 静かながら迫力のある声に、はっと顔を上げる。

 気づけば大勢の人間がヨアシュを取り囲んでいた。中央にいる2人は、よく見知っている顔だった。


「この野郎、俺の記憶いじくりやがったってぇ? 一発キツイ仕置きしてやってくださいよ、ファースの旦那!」


「そうやって他人に任せようとしてるから、お前は『狐』なんて呼ばれるんだよ」


 ――待ち伏せされていた? いつから?


 血を失った朧な意識でヨアシュは思考を試みるが、ろくに頭も働かない。


「不思議か、小坊主。お前の話は筒抜けだってのは聞いただろう。タネがわかれば簡単だ、ヴォルフにもう一度お前のにおいを覚えさせればいい。この時計台は、外の梯子からでも屋上に上れるんだ。知らなかったか?」


「……」


 ファースは葉巻をじっくりと味わい、晴天の下に煙をゆらめかせる。


「それで……どうする? その薄汚れた目ン玉をオレの灰皿にするか、ここで犬の餌になるか――選ばせてやる」


 その風格には、刺々しさも荒々しさもない。かわりに、ずっしりとした重みだけがある。

 彼の後ろには、出番を待ち焦がれる犬の獣人が2人ほど控えている。


「クソガキこの野郎、どこだァ!!」


 加えて、下のほうからゼクの大声まで迫ってきた。ヨアシュにとって、これ以上最悪な状況はない。


「……ふ、ふふ」


 小さく肩を震わせただけで激痛が走る。それでもヨアシュは立ち上がった。


「悪いけど……どっちも、お断りだよ」


 屋上縁の低い段差に足をかける。ファースがわずかに目を見開き、狐がアッと声を上げ、ちょうどゼクが飛び出してきたところで――ヨアシュの身体はふわりと宙を舞った。


 嫌味なくらい眩しい陽光が、視界を灼く。


 ゼクもファースたちもこぞってヨアシュが落ちたところから身を乗り出した。

 だが、遠い地面には無残な死体などはなく、ただ空中に楕円形の黒い穴が浮かび上がっているだけだった。



  ◇



 空を青く照らしていた太陽はすっかり傾き始めて、深く傷ついた街を優しい橙色で包み込んでいる。

 戻ってきてくれたゼクさんやファースさんたちの話によれば、ヨアシュにはすんでのところで逃げられてしまったようだ。それでも、脅威は去ったのだから結果は重畳だろう。


 スレインさんとロゼールさんはひどい臭いに不満げながらも帰ってきて、ヤーラ君も目を覚まし、マリオさんも歩けるようになって――私たちは、まっすぐ<勇者協会西方支部>に向かった。


 支部にいた人たちは、私たちが中に入るやいなや一斉に視線を注いでくる。

 帽子と眼鏡をつけて副支部長の穏やかな風体に戻ったファースさんは、黙って私に目配せした。


「魔族は去りました」


 その一言で、待機していた職員や勇者たちは大いに沸いた。今まで不安でどんより沈んでいたぶんを発散させるかのように、大喜びしていた。


「すげぇ~~っ!! 今日は飲み明かそうぜ!!」


「もう魔族にめちゃくちゃやられずに済むのね!」


「やっぱり<ゼータ>はとんでもねぇパーティだったな」


 賑わっていたロビーも、副支部長がぱんっと手を叩けばすっと声が止む。


「我々は魔族との戦いに勝利しました。ひとえに皆さんの働きのお陰でもあります。――ですが! 『Q』をはじめ魔族が街にもたらした問題はまだ残っています。やるべきことは山積みなんです」


「あのー……旦那? もしかして、まーだ働くつもり?」


「当たり前だ。狐、お前も手伝え」


 その言葉に、さっきまで沸き立っていた職員たちはげんなりと萎れてしまう。


「<ゼータ>の皆さんはお疲れでしょうから、ごゆっくりお休みください」


「いや、あの、ファースさんのほうこそ……。私も何か手伝いますよ」


「ボクは大丈夫です。でも……そうですね、エステルさんにはちょっとした伝言をお願いします」


「はあ……」


 ファースさんはそう言って、手近な紙にサラサラと何かを書き始める。



  ◇



 伝言というのは単にソルヴェイさんとアイーダさんへの仕事の依頼で、私はいつもの仕事部屋まで足を運んだ。

 2人は珍しく、特に何をするわけでもなく座って寛いでいたようだった。薬品のにおいに入り混じって、ココアの甘い香りがする。


「聞こえたよ」


 ソルヴェイさんがロビーのほうを指す。勝利の歓声はここまで届いていたらしい。


「はい。それで、この仕事をお2人でってファースさんが」


「……2人で、ね」


 紙を受け取ったソルヴェイさんはどこか嬉しそうにしていたが、すぐにそれをいろんなものが雑多に積み上がったデスクの上に放り投げてしまう。今やるつもりはないのだろう。

 一方で、アイーダさんはいつもより暗い顔で、何か思い悩んでいるように見える。


「どうかしたんですか?」


「いえ……その……。支部長から見て、普段の私は……どうでしたか?」


「え?」


「すみません。自分がどう振る舞えばいいか、少し……わからなくなってしまって」


 ああ、これはきっと、記憶がないことへの不安なんだ。

 そんなの、アイーダさんの事情を考えれば当然だ。朝起きたら今までのことを全部忘れてしまっている。自分が何者なのかも。


 それでも、彼女はそんなことをおくびにも出さず毎日を送っている。日々の「普通」を作るために、いったいどれだけ苦労してきたのだろう。


「アイーダさんはですね、すごく頑張り屋さんなんですよ。毎朝みんなの顔とか仕事のやり方とかをきっちり覚えてきてくれるんです。それでバリバリお仕事されるから、私もう本当に頼りにしてて――」


 喋っている途中で、アイーダさんの目の前に手帳とペンが滑り込んでくる。ソルヴェイさんが頬杖をついたままニヤリと笑った。


「メモっとけ」


「……私的なことですよ」


「いいから」


 いつものテキパキとした手つきとは打って変わって、アイーダさんはやりにくそうにペンを動かしている。そのぎこちなさに、私はくすっと笑ってしまった。


「どんどん喋っていいぞ。書くの速ぇから」


「知ってます。仕事早いですよね。そうそう、山積みだった書類の束が1日でなくなってて、ファースさんと一緒にびっくりした記憶があって……」


「ま、待ってください。どうまとめたらいいか……」


「そのまんま書けばいいんだよ。変なとこにこだわるよなぁ、いつも」


 ソルヴェイさんはまるで娘を見守る母親みたいに優しい顔をしていて、私はまた頬が緩んでしまった。


「あとで、ソルヴェイさんの話もしますね」


「や、あたしは別に……」


「私、こういうの得意なので。あ、それからアイーダさんは優しいんです! 前にファースさんが働きすぎて倒れちゃったときに、すぐに休憩室まで運んであげてて……」


 次から次へと流れるように湧き出る話にペンの動きが追随して、手帳の白紙は生き生きとした字に埋め尽くされていく。その手は夜更けまで止まることはなかった。


 明日には、アイーダさんはこのことを忘れてしまっているだろう。それでも、この記録があれば――明日には……。

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