不便な生き物
ナオミを倒したという連絡が来て、空き家で待機していた私はひとまず胸を撫でおろす。スレインさんもロゼールさんも、どうやら無事らしい。まだ魔物の残党がいるということで、こっちに戻ってくるのは少し遅れるそうだ。
あとは、ヨアシュだけ。でも、なかなか期待通りの知らせは来ず――マリオさんが、3回目の空振りの報告をにこにこと聞いていた。
「それじゃあ、ヨアシュ君たちが隠れ家にしていた廃ホテルからも、痕跡はなかったんだね?」
『ああ、ケッタクソの悪ィことに……どうなってんだ、狐ェ!! テメェ鼻くそ詰まってんじゃねぇだろうな!?』
『真面目にやってるし、風邪もひいちゃいないっすよお!!』
「狐君、本当に何もない?」
『マジだって。俺が一番不思議だよ……あのにおい、絶対忘れないようにしてんのに』
「なるほど……。何か手がかりがあるかもしれないし、もう少しそこを調べてみたらどうかな」
『ああ畜生!!』
『わ! えっと……はい、了解です』
物に当たり散らしているらしいゼクさんに代わって、ファースさんが返事をする。どうも、状況は芳しくないようだ。
不安が顔に出ていたせいか、マリオさんはいつもより明るい笑顔を作ってくれた。
「大丈夫だよ。数ではぼくらが有利だ。この家も罠を張っておいたから、簡単に襲われる心配はないさ」
「そう……ですね」
「退屈なら、ギターでも弾こうか? それとも何か食べる?」
「いえ、平気です。ありがとうございます」
マリオさんは私を気遣ってか、いやに陽気に振舞ってくれている。それでもやっぱり、こんなときに寛いではいられない。
会話は途切れ、家主に置き去りにされた壁掛け時計の音と、一向に目を覚ます気配のないヤーラ君のかすかな寝息が、リズムよく繰り返される。落ち着かない静寂の中でも、マリオさんは人形のように動かない。
コンコン、というノックの音がその静かな音楽に加わった。
「はーい」
マリオさんが間延びした声でドアを開けに行く。誰だろう。スレインさんとロゼールさんが帰ってきたのかな。
――そんな甘い考えは、開いたドアから見えた人影に気づいた瞬間に消し飛んでいった。
「こんにちは。罠ってこれ? ごめんね、全部壊しちゃった」
空虚な声色。低い背格好と、見た目に不相応な不気味な笑顔。鋭利な爪の生えた小さな手からは、千切れてバラバラになった糸の束がこぼれ落ちる。
「ヨアシュ……?」
真っ白になった頭はろくに働かず、反射的に名前だけがこぼれ落ちた。
ぼんやりしている私とは対照的に、マリオさんはすでに魔道具の糸を放り投げていた。
だが、ヨアシュは腕を軽く一振りして糸の束を切り裂いてしまう。
「人間は不便だね。こんなおもちゃに頼らなきゃいけないなんて」
「そうだね、友達になろう」
ちぐはぐなやり取りをしつつ、マリオさんは左腕をぐいっと引っ張る。つられてヨアシュはその動きを追うが、視線とは反対側にあったタンスがぐらりと倒れてくる。
ヨアシュは小さく舌打ちして、手から黒いエネルギーの塊のようなものを放出し、タンスをバラバラの木片にしてしまった。
その間――どこをどう引っかけているのか、マリオさんは天井に蜘蛛のように張り付いていた。
はっとヨアシュが顔を上げると、マリオさんは床に着地する。同時にヨアシュに絡まっていたらしい糸がぐっと四肢を締め付ける跡ができ、シーソーみたいに入れ替わりでその身体を天井に叩きつけた。
「いっ……」
小さな悲鳴を上げたヨアシュに、休む暇はない。身動きが取れないまま床に落ちると、今度は大きく半円の軌道を描いて、窓のほうに放り込まれていく。
ガシャン、とガラスの割れる音が耳をつんざいて、小さな魔族の姿が消えた。
マリオさんはすかさず窓の割れた空洞を滑り抜けるように飛び越えて、ヨアシュを追い詰めに行く。
私も割れていないほうの窓から外の様子を伺った。
「ああ、びっくりした」
ヨアシュは平然と、身体中にこびりついているガラス片をぱんぱん払っている。あれだけ派手にやられても、ダメージはほとんど入っていないみたいだ。マリオさんは油断せず、次の一撃を仕掛けに行くが――
「……こう?」
すっとヨアシュが突き出した手に、どす黒い霧のようなものが纏わりつく。その霧はマリオさんのほうへ伸びていき、彼の左手首を黒で覆い隠した。あれは確か、身体の自由を奪う魔術だ。
そのままヨアシュは霧を糸みたいにぐっと引っ張るようにして、マリオさんを地面に引きずり倒した。すかさず、そこにさっきの黒い塊を放り込む。
「――!」
マリオさんの反応は早く、塊が到達する前にさっと身を起こして回避しようとする。
が、捕まった左腕だけは逃げ遅れてしまい、爆ぜる黒煙に巻き込まれてしまった。
左手はところどころ黒焦げになって、手袋も袖口も破れ目ができている。何より、手首にあった糸の魔道具がぐしゃぐしゃに破損していた。あれでは使い物にならない。
「壊れちゃったねぇ」
無垢なようで皮肉交じりの笑顔にも、マリオさんは応えない。無事なほうの右手を上着の懐に入れ、そこから鋭い何かを投擲する。
3本の投げナイフだ。同時に投げたにもかかわらず、タイミングも軌道もすべてバラバラで、三方向からヨアシュに接近していく。
ヨアシュはすぐに霧の鎖を解除して、ひらりと飛び退いてかわす。
でも、本命はナイフではなかったようだ。地面に突き刺さったそれに一瞬視線を奪われていたヨアシュは、突然何かに引っかけられたように転倒した。
はっとマリオさんのほうを見ると、右手が明らかに糸を持っている動きをしていた。
そうだ、糸の魔道具はもう1つあるんだ。ソルヴェイさんに作ってもらったものが。
足から引きずられているヨアシュは、そこで面白いものを見つけたように目を光らせた。
「あった、右足首」
倒れたままの姿勢で、あの黒い球体を射出する。マリオさんは咄嗟に右足を上げるが、それも読んでいたのか球体は上方に曲がって見事に命中してしまった。
左手に加えて右足までやられてしまった。まずい、このままじゃ……。
満足に動けず仰向けに倒れたままのマリオさんに、ヨアシュが微笑みながらゆっくり近づいていく。
「曲芸は終わり? つまらないなぁ。もっと楽しみたかったのに」
「ごめんね。手が動けば、もう少しいろいろできるんだけど」
「……君、あんまり面白くないね。全然痛そうにしてくれないし。もし僕がここでエステル姉ちゃんを殺しに行ったら、どうする?」
「ここからじゃ間に合わないな。困っちゃうね」
「本当に、面白くない。君を殺してエステル姉ちゃんの反応を見るほうが、楽しそうだなぁ」
ぎょっとした。マリオさんを失うわけにはいかない。慌てて窓を開けて、助けに出ようとした。望みは薄いが、もしかしたら――と思っていると、マリオさんが手で制止するポーズを取る。
「人間は不便だね、ヨアシュ君」
唐突な言葉に、私もヨアシュも動きを止める。
「においだろう、ヨアシュ君。君は狐君と遭遇したときに、彼にある記憶を植え付けた。偽りの、君のにおいの記憶だ。偽のにおいで記憶を上書きされたから、彼は君を見つけられなかった」
あ、と思った。さっきゼクさんたちと通話していたとき、ヨアシュの隠れ家からもにおいは出てこなかったと言っていた。ずっとヨアシュがいた場所なら、においがないのは不自然だ。
「……なるほど。それで?」
「1つのことに固執すると視野が狭くなるから、人間は不便だねって思ったんだ。ほら、君だって――ぼくやエステルのことばっかり意識してる」
ヨアシュの笑顔が薄れ、表情が硬くなる。
「実はね、君が来たときから通信を入れてあったんだ。……君の、お兄さんにね」
向かいの建物の壁が爆弾でも食らったように粉砕される。
壊れた大きな穴から、1人の魔族が――私の知っている、いちばん強くて頼りになる彼が飛び出してきた。
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