光を呼ぶ者
死の煙が充満している部屋の中で、依然狐さんは正気をなくしたように興奮していて、ファースさんはまったく動じることもなくじっくりと煙草を味わっていた。
「……ナオミ、という名前だったんですね。その節はどうも」
「は、え? 私、お会いしたことありましたっけ?」
「ありますよ。あなたがゴミ捨てに困っていたときに」
ナオミはきょとんとしている。ファースさんに会ったことを本当に覚えていないのだろう。
それよりも、この毒ガスで誰も倒れていないのが不思議だった。もう人影が薄くなるほど空気は濁っているのに、誰もが平然としている。私も、なんともない。
「……え? あれれ?」
ナオミもそのことに気づいたのか、わけもわからずきょろきょろしている。ファースさんはふーっと煙を吐きながら続けた。
「あなたが作ったものは、こちらで解析が進んでいまして――とうに対策済み、ということです」
ピンときた。ソルヴェイさんだ。ナオミの製作した毒薬を、アイーダさんと一緒にずっと調べてくれていた。もうすでに毒を無効にする手段を見つけていたんだ。もしかすると、彼が持っている爆弾も……。
ドドド、と慌ただしい足音が響いて、今度は何人もの人が中に踏み込んで来た。
誰だろうと確認する前に、私の身体はひょいっと持ち上げられてしまった。煙の中から四角い眼鏡と犬の耳が浮かび上がってくる。
「あ、青犬さん?」
「悪いが、大人しくしててくれ」
彼がいるということは――予想通り、元気な甲高い声も響いてくる。
「ボス――っ!! 敵、敵は!? 誰をヤればいいのっ! ねぇねぇねぇっ!!」
「ツノの生えたガキと女だ」
「りょーかぁ~~いっ!!」
短い指示で満足したらしい赤犬さんは、ぴょんぴょんと床を鳴らしながら標的に向かっていく。他に突入してきたギャングらしき人たちも続いた。
「ヨ、ヨアシュ様~~っ!! ど、ど、どうしましょお!?」
「……一旦退く」
ヨアシュの苦々しげな声をバックに、私は青犬さんに抱えられて魔族の牙城から脱出した。
◇
「――や、なんというか……すみませんでした」
「あー、マジで怖かったぁ……」
先ほどの威風堂々たるギャングの風格が嘘のように、ファースさんは元の大人しいホビットに戻っている。狐さんもいつも通りびくびくしていて、2人ともさっきまでの勇ましさが嘘のようだ。やっぱりこっちのほうが本性に近いのかもしれない。
結局ヨアシュとナオミには逃げられてしまって、行方を見失ってしまったらしい。
私は2人に仲間たちの元へ送ってもらっている。
ファースさんの話では、みんなはまだまともに行動できる状態ではないという。私は自然と早足になってしまったが、2人はちゃんとついてきてくれていた。
ようやく仲間たちが避難しているという家に到着して、急いで中に入った。
そんなに時間は経っていないはずなのに、ずっとずっと会いたかったみんなの顔が一斉に目に入る。元気そう……ではないけれど、ちゃんとそこにいるというだけで、たまらなく嬉しい。だけど――
「お約束通り、エステルさんを連れ戻しました。この通り、無事です」
ファースさんは丁寧な口調ながら、毅然と宣言する。ゼクさんは複雑そうな顔で舌打ちをしていた。
「エステル……すまない」
「いいですよ」
スレインさんは心底申し訳なさそうに顔を俯けていて、私はせめて気休めにでもなればと微笑みかけた。
ふと、テーブルに突っ伏していたロゼールさんがふらりとこちらに寄ってくる。ぼんやりした表情はそのままに、がばっと倒れ込むように私に抱きついてきた。
「ちょ、ちょっと、ロゼールさん!?」
「んー……ちゃんと、エステルちゃんの匂い……」
すぐ耳元ですーっと鼻で息を吸う音がして、なんだか恥ずかしくなってくる。視界の隅でファースさんと狐さんが真っ赤な顔を横に反らしていた。
「……うん。お風呂入ってこようかしら」
やがて満足したらしい彼女は、ぱっと離れてどこかに行ってしまう。この呆れてしまうような気まぐれさに、かえって安心した。
「それで、ファース君。ヨアシュ君たちはどうなったのかな」
安心といえば、マリオさんも本当に普段通りだ。彼が平静さを失うところが想像できない。
「逃げられました。この雨では狐もうまく鼻が利かないようで、追跡は難しいですね」
雨はしばらく止みそうになく、また私たちは袋小路に陥ってしまった。
――だけど、その前にもっと重大な問題がある。
「あの……ヤーラ君は……?」
ここにいる仲間は、私を除いて4人。ヤーラ君の姿だけが、どこにもなかった。そのわけも、なんとなく想像がついてしまう。
「まだ街をうろついてるんじゃないかな。ぼくが話しかけたときは、もうなんにも聞こえないみたいだったよ」
マリオさんはあっさりと告げた。もしかすると、ヤーラ君はいまだに私が死んでしまった世界線にいるのかもしれない。
「ゼクさん!」
やり場のない感情を彷徨わせていた彼は、ぱっとこちらを向いてくれた。
「行きましょう!」
「……ああ」
ゼクさんもなぜ自分が呼ばれたのかわかっていないようだったし、実は私もよくわかっていないのだけど、とにかく彼しかいないと思ったのだ。
◇
私の<伝水晶>はヨアシュに奪われたままで、ゼクさんのものを使ってヤーラ君を捜した。
雨粒は相変わらずこの街を等しく湿らせて、闇が覆っている。薄暗い空の下、さらに光の届かない路地の陰に、屈められた小さな背中があった。
「ヤーラ君!」
名前を呼んだ。声が届いてくれたのかどうか、とにかくヤーラ君はふらふらと立ち上がって、空と同じ眼をこちらに向けた。
「エステルさん」
虚空に溶けていきそうな声だった。茶色の髪からは大粒の水玉が滴り、ぶかぶかのローブは水分を吸って重たそうに垂れている。
その足元には、白目を剥いて口から泡を溢れさせて倒れている女の人がいた。
「お前……」
生きているのか死んでいるのかもわからない女性を見つけて、ゼクさんが呟く。
「僕は……エステルさんが、死んでしまう……夢を、見ました」
「私は生きてるよ」
これ以上濡れないように、私は自分の傘をヤーラ君のほうに傾ける。
「それから……アーリクの首を絞めて殺す夢を……見ました。父さんと母さんを、ナイフでめちゃくちゃに刺して、殺す夢を見ました。ゼクさんたちが、どこかに行ってしまう夢を、見ました……」
「……」
「もう、何が夢で……何が、現実か……わからない、です。僕は今、正気……ですか? おかしくなって、ますよね?」
ホムンクルスはいないけれど、その眼は不安に濁っている。私たちのことを認識してくれているが、喋り方も覚束ない。でも――
「大丈夫。ヤーラ君は、ちゃんとヤーラ君だよ。だって……その人を、助けようとしてたんでしょう?」
地面に伏している女性が、ぴくっと指を動かした。あれは「Q」に侵されてしまった犠牲者なのだろう。私たちが来る前、ヤーラ君は彼女を見守るように屈んでいた。
「だめ……です。僕じゃ、だめでした。何もできない……誰も、救えない……」
途方もない無力感。それは、私も身に覚えがあった。助けたい人は大勢いるのに、自分には何一つ力がない。
後ろでゼクさんが苛立たしげな吐息を漏らすのが聞こえた。
「そんなこと……そんなこと、ないよ。私、ヤーラ君の顔を見ただけで、救われた気持ちになったよ。無事でよかった、って」
「……。僕も、エステルさんに……会いたかった。もっとお役に立てれば、って……思うんです、けど」
「じゃあ、魔族ぶっ殺すの手伝え」
力なく目を伏せたヤーラ君に、力強く視線を送るゼクさんがいる。
「奴ら、この雨の中に隠れてやがる。どうすりゃいいかはわからねぇが、とにかく手伝え!」
理屈も何もあったもんじゃないけど、それがゼクさんのいいところだ。
ヤーラ君のきょとんとした視線はやがて私たちを通り過ぎ、空へ上った。
「……雨じゃ、ない」
「え?」
「雨じゃない。太陽だ……」
さっきのような虚ろな感じではない、透明な声。細い右手が雲を掴もうとするように、高く掲げられる。その手につられて私も天を見上げた。
灰色に濁ったベールの向こう側、淡い光の塊。
その存在を確かに認めたとき、曇天が渦を巻くようにうごめいた。
激しい突風が一陣吹き荒れて、傘が風に攫われてしまう。両腕で身体を庇うように風に耐えていると、雨粒のかわりに暖かい何かが肌に触れるのを感じた。
見上げると、街を覆っていた雲が綺麗に裂けて、そこから金色の光が降り注いでいた。
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