エース
1つの傘に守られながら、アイーダとソルヴェイが協会のほうに帰っていくのを、ファースと狐はほっとしながら見送っていた。
「とりあえず……あれですかい。機械のなんちゃら止めに行きゃいいんすよね」
「いや……待て」
まだ安心してもいられない。街を一望できる高台から、じっくりと辺りを見回す。実は普段使いの眼鏡には度が入っておらず、彼も多くのホビットと同じように本来は視力が優れているのだが――その目が、ある一点で止まった。
「あの魔族の小坊主が――わざわざ呼び出して記憶を戻してやった彼女を、ただ放置しておくと思うか?」
「……え?」
「どっかで見て、楽しんでやがるに違いないんだよ」
もはや怒りを隠す必要もない。剥き出しの憎悪を声と眼差しに乗せて、少し離れた薄汚れた建物を見据える。そこはだいぶ前に閉鎖したホテルで、誰も住んでいないはずだったが――明らかに、人のいる気配がある。
ヨアシュと似たような輩はこの街でも珍しくない。人を陥れて、自分は外野で愉快がっている反吐のような連中だ。アイーダがいたこの場所がよく見えるところにいるのは確実で、あとは人目につかない場所を絞り込むだけだった。
奴は、あそこにいる。おそらくエステルも一緒に。
「行くぞ」
「うす」
ファースは忘れていない。ソルヴェイが去り際に、傘の隙間から工場の内部のほうをさりげなく指差していたことを。
◇
どこかに出かけたかと思えばすぐに帰ってきて、帰ってきたかと思えばすぐにベランダに出てしまい、しばらく外にいたかと思えばつまらなそうな顔で戻ってくる。そんなヨアシュを、私はリビングの椅子で紅茶を啜りながら眺めていた。
「……あーあ、死んじゃえば面白かったのに。まあ……いっか。向こうも気づいたみたいだし。ふふっ」
よくわからないことをぶつぶつ呟きながら、うろうろしている。彼が嬉しそうに笑い出したのは、何か良くない兆候のような気がする。
とはいえ、私にできることは何もない。仲間との連絡手段もないし、ナオミがなぜか出してくれるお茶を頂くだけだ。
敵陣のど真ん中だというのになんとも緊張感がないけれど――せっかく出されたものを無碍にするのも失礼な気がしてしまう。ここがホテルみたいに居心地がいい場所なのも関係しているかもしれない。
ヨアシュはそんな所在なげな私の顔を覗き込む。
「助けが来るかもよ。<ゼータ>じゃないけどね」
「……。あなたにとっては、まずいことなんじゃないの?」
「面白いよ。何して遊ぼうかって考えるだけで、すごく面白い」
彼にとっては、私を連れ去るなんてどうでもいいことなのかもしれない。みんなを混乱させるための、ただの餌にすぎないのだろう。魔王の意向に迎合する気はあまりないように見える。
「あ、ヨアシュ様ぁ。お茶はいかがです?」
「ナオミ。敵が来るよ、備えて」
「は……えっ? えっ? 敵? ど、どどど、どうしましょう!?」
ナオミの緩い感じは相変わらずで、ティーセットを片手におろおろ動き回っていた。ヨアシュのほうは椅子に腰かけてゆったり構えている。
どこか遠くで、狼の遠吠えのようなものが聞こえた。
直後、入り口のドアのほうから爆発音が迫ってきた。
私はびっくりしてティーカップを倒してしまい、ナオミは大げさな悲鳴を上げて、1人ヨアシュだけが余裕ぶって微笑んでいる。
本当に助けが来たんだろうか。<ゼータ>じゃないと言っていた。じゃあ、誰が……?
どしどしと近づいてくる足音が1つ。その姿が見えたとき――よく知ってはいるけれど、ここに来るとは予想もしなかった人で、しかも別人のような雰囲気を醸しているものだから、味方だと認識するのが遅れてしまった。
彼はどこから調達したのかわからない爆弾を片手に、ただ一点ヨアシュに向けて凄みのある眼光を放った。
「ここにいたか、クソ坊主」
低く荒い声音とともに、挨拶代わりと言わんばかりに爆弾を放り投げる。
私は反射的に頭を庇う姿勢を取ったが、もの凄い爆音のわりに突風を浴びただけでなんともなかった。
見ると、幅は人1人分通れるくらいの狭さだが、家具も後ろの壁もその先の部屋も吹き飛ばした爆破の跡が生々しく残っている。
「ヨアシュ様!?」
ナオミが叫ぶと、瓦礫の中から薄い紫色の盾のようなものに隠れたヨアシュがひょっこり起きあがった。
「面白いお土産だね。まさか、弱っちいホビットが1人でのこのこ爆弾抱えてやって来たってわけじゃないよね、ファース・ヘイマンス」
目の前にいる彼は、私の知っている温和で真面目なファースさんとはまるで別人で――誰よりも、この「最果ての街」に馴染んでいる気がした。
彼はヨアシュの言葉をまるで無視して、まさに第二撃を打ち込もうとしていた。
が、それと同時に私は黒い霧に巻き付かれ、手足の自由を奪われてしまう。夢で見たときと同じだ。
「ナオミ」
「は、はいっ!」
ヨアシュの一言で、ナオミは慌てて別の部屋に退避する。再びファースさんに向き直ったヨアシュは、自らの鋭い爪をちらつかせる。
「それ以上火遊びなんかしたら、せっかく見つけたお姫様まで死んじゃうよ? いいの?」
今度こそ本当に命の危機に晒された私は、ぞっとする。しかし、ファースさんは依然落ち着き払っていて、煙草までくわえて火をつけた。
「お前はオレが誰だかわかってるのか?」
「もちろん。<勇者協会西方支部>の副支部長、兼――<ウェスタン・ギャング>のボスでしょ?」
「え?」
思いもよらない事実を告げられて、困惑が恐怖を上書きする。確かに、今のファースさんは貫禄というか、修羅場を潜り抜けてきた無頼漢のような勇ましさを感じる。だけど……。
「そうだ。もう<勇者協会>とやらに興味はない。そこの小娘がどうなろうが、オレたちには関係ないんだよ」
あまりに冷徹な口ぶりで、本当に私など気にかけていないように見えた。彼は構わず2つ目の爆弾にマッチの火を近づけている。
「……つまんないなぁ」
それまで悠々と微笑んでいたヨアシュは、初めて顔をしかめた。用済みになった私を解放し、再び魔力で形成した盾を構える。
だが――ヨアシュを襲ったのは、前方から来る爆弾ではなかった。
ガラスが砕ける音がして間もなく、黒い獣のような何かがヨアシュの背後から飛び掛かり、その小さい身体を地に叩き伏せたのだ。
「グァルルルルルッ!!」
猛り狂った狼のような唸り声。目玉をひん剥いて鋭い牙を剥き出しにした彼もまた、よく知っているはずの人で――
「き、狐……さん?」
「エステルさん、離れてください」
ようやく私に目を向けてくれたファースさんが、冷静に指示をくれる。かと思えばすぐにまた怒りのこもった低音に戻った。
「容赦するなよ、ヴォルフガング。そのガキが泣いて命乞いをしようと、容赦するな。地の果てまで追いかけて、殺せ」
「ウウウゥゥ……ガルルル……!!」
「こ、の……駄犬が……!」
苛ついたらしいヨアシュはぶわっと黒い霧を放ち、自分の背を押さえつけている獣人を暗黒で包んでいく。本能で危機を察知したのか、狐さんは離れて霧を払いのけようとする。
起き上がったヨアシュは間髪入れず、小さな黒い球体をいくつか空中に出現させた。あれは確か、サラも使っていた魔術だ。
「危ない!!」
私は咄嗟に叫んでいた。黒い球体が一斉に狐さんに向かっていく。彼は避けるでもなく、腕を振り回してすべて綺麗に弾き飛ばしてしまった。こんなに強かったなんて、知らなかった。
その隙に次の攻撃の準備をしていたヨアシュの横に小さな何かが転がったかと思うと、またさっきのように鋭い爆発が起こった。盾を作る暇もなかったヨアシュは後ろに飛び退いたようだが、顔に少し焦げ跡がついている。
「この……!」
魔族の赤い眼が、爆弾を放ったファースさんを睨む。形勢は2対1、こちらが有利――に、見えた。
何か薄いピンクの煙が、壁の壊れ目から湧き出て部屋を満たすまでは。
「そっ、そそそっ、そこまででっ……そこまでだぁっ!! この、えっと、あれで……」
戻ってきたナオミがしどろもどろに宣言する。その間の抜けた空気を、ヨアシュの冷笑混じりの静かな声が一変させた。
「これは毒ガスだよ。吸っただけで全身が麻痺して、やがて死に至る」
手で口を塞ぐまでもなく、私の呼吸は止まりかけた。
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