クイーン

 濁った雨にしっとりと包まれて、きょとんと2人を見つめるアイーダからは、普段の冷徹な雰囲気をほとんど感じなかった。冷たいというよりは、どことなく悲しい姿だった。


「……あまり濡れないほうがいいんじゃないですか?」


「ここは煙突に近いので、かえって安全なのです」


 彼女は雨を濁らせる装置のことを熟知しているようだった。返答は機械的で素っ気なかったが、ファースは何かぎこちなさのようなものを感じた。


「ボクらのこと、覚えてますか」


「……協会の……ほうでしたね。ファース・ヘイマンス、ホビット族、副支部長……業務上の最高責任者。そちらが、狐さん……獣人族、協会に居候、生活力に難あり……」


 アイーダはメモの内容をただ復唱している。そんなことをしなくても、顔を見ただけですぐに誰が誰だか判別できていたはずだ。おそらく今は、少し混乱している。


「<ウェスタン・ギャング>のトップは『キング』で、その下が『ジャック』ですが――それ以外にもう1人、『相談役』というのがいたのをご存じですか」


 いきなりギャングの話題になって、アイーダは一瞬戸惑ったような顔を見せたが、すぐに合点がいったように小さく頷いた。


「それがボクです」


 ファースはじっくりと反応を伺うが、思ったよりも驚いてはいないようだった。


「……あなたは、ギャングでもあるのですね」


「疑わないんですか?」


「なんだか、そんなような気がするんです。そういえば、狐さんは『白狼』さんに似ています」


「ああ、そりゃあ、親父なんだ」


「なるほど。……『狐』なのに、ですか?」


「俺はビビリのヘタレだからさ。ガキの頃からそう呼ばれてたんだ」


「そうですか。私のことを、恨んでいますか?」


 ほとんど不意打ちのように切り込まれた言葉に狐はひるみかけたが、ぐっと眉間に力を入れる。


「全然。親父たちをやったのは、キングの野郎だと思ってる。君は命令されただけだ」


「私は命令1つで誰かを殺すような人間です」


「奇遇ですね。ボクも似たようなものです」


 ファースの声は低く、あえて温度をなくしている。


「秩序を守るためなら、暴力的な手段も厭わない。この街では珍しくもありません。殺人を悪いことだと思えるほどの善良さがあるなら、あなたは<勇者協会>に帰るべきです。ソルヴェイさんも待っています」


「……ソルヴェイさん……エルフ族、技師、錬金術師――」


 魔族はやはりというか、ソルヴェイのことを何一つ教えていないようだ。本当は同僚以上の深い結びつきがあったことを、アイーダは知らない。


「あなたはギャングに所属していたという記憶を持っているかもしれない。ですが、それは魔族が植え付けたものにすぎないんです。帰りましょう、風邪をひいてしまいます」


 ファースは穏やかに微笑んでみせた。が、アイーダはそれに応えることなく、ふと街中に呪いを撒き散らしている煙突を見上げる。


「これを作ったのは、私です」


「……ええ。でも、それは――」


「誰の命令でもありません。私の意志でそうしました。確か」


 こんな装置を考案したのはてっきりキング辺りだと思っていたファースは、思わず面食らってしまった。狐も同じように目を丸めている。


「え? こんなもん、何のために?」


「さあ……。ただ、こうやって街を見下ろしていると――なんだか、しっくり来るんです」


 3人の足元には、変わらず地獄が広がっている。人々が争い、泣き叫び、地に伏す、この世の終わりのような光景。


「私は、こういうものを……見たかったんだと、思います」


 そのときだけ雨音が一切消失して、彼女の淡くかすかな声がくっきりとファースの耳に残った。伏した眼差しは冷たく乾いていて、その心の底には広漠とした味気ない空洞が広がっているようだった。


「記憶がある、というのが……どうにも、不思議な感覚です。<ウェスタン・ギャング>にいたのが、つい先ほどのことのように思われるんです。魔族の術、だからでしょうか」


「そうかもしれません。ですが……ボクも、昨日のことのように思い出せることはたくさんあります。あなたと初めて会ったときのことも、仕事で何度も助けられたことも、ボクが会議で糾弾されているときに庇ってくれたときのことも……」


「私は覚えていません」


「いいんです。ボクは本当に嬉しかったから。あなたが忘れても、ボクがずっと覚えています」


 雨脚が少し強くなり、汚れた水滴の幕が顔を俯けた彼女の姿を薄めていく。



「――私だって、忘れたくないんですよ」



 ふとファースの脳裏にノートの紙面が浮かんだ。彼女の部屋にあった、毎朝欠かさず見るというノート。あれを調べたときに、最初に書いてあったもの。


 『私の記憶は1日ですべて消えてしまう』


 何も知らない彼女は、1日の始まりごとにその事実を宣告される。いいことも悪いことも、すべてが消えてしまうという前提で生きている。だから感情は表に出さない。誰とも親しくしない。ただ他の人が困らない程度にきっちり仕事をこなす。彼女の人生は、喪失の繰り返しだ。


 浅はかだった、とファースは自分の失策を悔やんだ。何か言おうとしたものの、アイーダの視線はもう降りしきる雨に囚われてしまっているようだった。


「……中央の……一番大きい装置が動力源です。あれのレバーを動かせば、動作は停止します」


「アイーダさん……」


「私はここにいます」


 同行してくれるつもりはないらしかった。無理に連れて帰るわけにもいかず、途方に暮れて狐と目を合わせる。

 ひとまず素直に装置を止めに行こうと視線を外した、わずかな隙だった。


「――!!」


 嫌な予感に振り返れば、今の今までそこにいたはずのアイーダの姿がなくなっている。

 低いフェンスから身を乗り出して見下ろすと、金色の長髪を風に巻き上げて遠のいていく人影がある。


「アイーダさん!!!」


 決死の呼び声が虚しく響き、彼女の身体が地面に吸い込まれていくのを見送る。狐も助けに降りようとしているが、どう考えても間に合わない。


 果たして、彼女はそのまま湿った大地にぶち当たった。


 ――ただし、通常ではありえないほどの弾力を伴って。


 ふかふかのベッドに飛び込んだように小さく跳ね返ったアイーダは、困惑したまま半身を起こした。

 その傍に近づいていく1つの傘。黒い多角形がアイーダのほうにずれると、それを持っている白衣のエルフの姿が露わになった。



「よお。雨の日は足元に気をつけろって、いつも言ってるだろ」



 傘の影に覆われたその顔は、穏やかに見えてどこか悲しげで――不思議な既視感のようなものがあった。


「……ソルヴェイさん」


 アイーダはメモの内容を頭の中で手繰り寄せる。彼女は錬金術師でもあるから、地面の形質を変えて衝撃を緩和したのだ。

 だが、それだけではない。何か見落としている情報があるような気がした。何か、忘れてはいけない重要な……。


「風邪ひくぞ」


 あれこれ考えているアイーダにも構わず、ソルヴェイは自分の白衣を乱雑に放り投げる。


「……ソルヴェイさん、私は――」


「知らん」


 ピシャリと言い切られ、アイーダは何も続けられなくなってしまう。仕方なく寄越された少し大きめの白衣を羽織ると、ほんのりと心地よい温もりに包まれて、自分の身体が思いの外冷えていたことに気づいた。


 使い古されたよれよれの白衣に染みついた、薬品のにおい。ぶっきらぼうで気のない物言い。何を考えているかわからないようで、何もかもをわかっているような顔。


 それらすべてが、アイーダの中でしっくりと来た。


「どうして……私を、助けてくれたんですか」


 ソルヴェイは一瞬きょとんとしていたが、その顔は徐々にいたずらっぽい笑みに変わって、そっと右手が差し出される。


「――わかんねぇ」


 握り返した手から、懐かしい温かさが伝わってくる。

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