消えた1ページ
本棚には日付通りに並んだ分厚いファイル、壁の掲示板にはマス目のように規則正しく貼られたメモ、ベッドサイドには毎朝必ず見るというノート――整然とした空っぽの部屋で、デスクの上の魔道具だけが異物感を醸していた。
本来ならば、勇者パーティが不正防止用に所持しておくべき装置。それが、ノートの切れ端のような紙きれとともに据えられている。
紙には、「ソルヴェイ・シルヴマルク様へ」とだけ――アイーダのものではない字で、書かれている。
狐はすでに青ざめているが、名指しされた当人は無表情を保とうとしている。
「……再生、してもいいですか」
ファースが確認を取ると、ソルヴェイは強張った顔を縦に振った。何が映っていても、見ないという選択肢はとれなかったのだろう。
何もない空間に浮かび上がったのは、不気味な少年の姿。<ゼータ>の中でよく話題に上っていた、ヨアシュという魔族だ。
蝋人形のような冷たい微笑から、静かでほの暗い声が浸透してくる。
『こんにちは。見てくれているかな、ドクター・クイーン――の、偽者さん』
いつもは力のないソルヴェイの眉が、ぴくりと反応する。
『この道具、とても便利だね。勇者の人にお金を出したら快く譲ってくれたよ。人間界はすごいなぁ、こんなものまであるんだ』
言葉では感心しながら、その口調には一切の感情が消失しているようだった。
『本物のクイーンは記憶に関する研究に熱心だったみたいだね。お陰で僕らが適当にでっち上げた、君が薬を広めたって話……みんな信じてくれたよ。ほら、君もクイーンを騙りたがっていたみたいだし、ちょうどよかったでしょ?』
「Q」には特定の記憶を強化する作用があるという話だった。ヨアシュが魔術を使ったかどうかはわからないが、やはりそれでソルヴェイがクイーンだという情報を拡散したのだろう。
『それで……そう。ドクター・クイーンがすごいものを作ってくれて、僕も楽しませてもらってるんだけど……やっぱり、本人も自分の作品が活躍する様が見たいでしょ? そう思って、当時のことを思い出させてあげたんだ』
「――!!」
ファースはすぐにヨアシュの意図に気づいた。あの魔族は記憶を植えつける能力を持っている。クイーンの研究資料もすべて奪っていた。そこから当時の彼女の記憶を作り上げ、移植したのだとしたら――
『もしかしたら、当時と違うところがあるかもしれないけど……おおむね、正しく再現できたはずだよ。まあ、伝えたいことはそれだけなんだ。それじゃあ、お疲れ様』
小首を傾げて目を細めたその笑顔は、どこまでも混じりけのない黒だった。映像は消えても、淀んだ空気はそのままだった。
この映像を残すことには何のメリットもない。魔族からすれば、敵に手がかりを教えることになる。ヨアシュは愚鈍なのではなく、そのリスクを取ってでもソルヴェイにメッセージを伝えたかったのだ。
ヨアシュの狙いは憎らしいほど的中し、日ごろ滅多に感情を表に出さない彼女は――端正な顔を真っ青に染め上げ、今にも倒れそうになっていた。口元を押さえた手の細い指の隙間から、弱々しく震える声がこぼれ出た。
「……あの子が……何をしたっていうんだ」
グシャッ、という派手な音が、静寂を突き破った。
おぞましい伝言を乗せた魔道具は、頑丈な足に踏み潰されて破片を散らせている。その足の上方には、触れたら怪我をしそうなほど刺々しい怒気をみなぎらせた、街一番の無法者の顔がある。
「舐めやがって、小坊主が」
振り返ったファースは迷いなくベッドサイドのノートを拾う。素早くページを流して一番新しい部分を開き、中心の綴じ目を凝視する。
「……やっぱり、ページが破られてる」
狐はすでに動き出したボスの命令を待つ態勢に入っており、ファースがデスクの紙切れを指差すとそれに鼻を近づけた。
「……ありますね、2人分のにおい。1つはアイーダちゃんで、もう1つが魔族のガキだと思うっす」
「その紙はこのノートと同じものか?」
「そうっすね。……それが何か?」
狐は首をかしげているが、ショックで茫然としていたソルヴェイもはっとしてファースの顔を見る。
「アイーダさんは、魔族に呼び出されて馬鹿正直についていくような人じゃない。奴らはこれを使った。このノートはアイーダさんが毎朝欠かさずチェックするものだ。その日の予定も当然書いてある。――その予定の中に、たとえばどこかの場所に行くということを付け足す」
「……なるほど! アイーダちゃんをそこにおびき出して待ち伏せしたんすね!」
「あの魔族はさっき、『自分の発明品を見せる』というようなことを言っていた。彼女は今、雨に薬物を混ぜる装置か何かの近くにいる可能性が高い。呼び出された場所がここに書いてあったとすれば、すぐに特定できるはずだ」
ファースはそう言い終えて、白紙のページが開かれたノートをソルヴェイに差し出す。彼女の眼にはすでに、光が戻りつつある。
ソルヴェイはまっさらな紙面をそっと撫で、薄い灰色に染め上げる。破れたページに刻まれた筆跡が、白い筋となって浮かび上がった。
「……これだ」
彼女に示されるまでもなく、ファースは綺麗に整列した字の中に1行だけ歪な文字が入り込んでいるのを見つけた。
時刻も場所も、はっきりと記されている。その場所にはファースも覚えがあった。
「ヴォルフ」
「はいっ!」
忠実な獣人は名前を呼ばれてびしっと姿勢を正す。主はただ一言、命令とも指示とも呼べない強い言葉を放った。
「落とし前、つけに行くぞ」
◆
そこはかつて、工場として使われていた場所だ。ただの工場ではなく、ギャング所有の薬物製造所――つまり、「Q」を量産するための秘密の施設だった。流通停止に伴って、ここも閉鎖されたはずだった。
しかし、見れば今も煙突からもうもうとどす黒い煙を吐き出し続けている。
「いるか?」
薬品のにおいのせいか、狐は鼻をつまんで嫌そうな顔をしている。
「や……臭くてかなわねぇっすけど、アイーダちゃんのにおいはあるっす。上のほう、かな……? 他はたぶん、誰も」
待ち伏せの心配がないとわかるやいなや、ファースは遠慮なく中に入った。
巨大な機械が唸り声を上げながら動いているだけで、人の姿はない。ごちゃごちゃした部品が積み上げられ合体したような機械は複雑そうな造りで、とても操作の仕方などわからなかった。
狐が「上のほう」と言ったのに従って、階段を見つけて上っていく。密林のようにパイプや鉄骨の入り組む隙間を縫って、屋上付近の渡り廊下のようなところに出た。辺りを見回すと、一段と高い塔のようなものが見える。
隣にいる狐が無言で頷く。その円筒形の台のてっぺんまで、梯子を上っていく。
頼りないフェンスに囲まれた狭い円形の空間。天空を覆いつくす一面の灰色と、分厚い雲に押しつぶされそうなか弱い街並みが一望できるその場所に――彼女はいた。
いつも頭頂部近くにまとめあげていた艶やかな金髪は、今はバラバラに解かれて濡れたまま垂らされている。錆びた鉄の柵に寄り掛かって景色を見下ろす姿は、見たこともないあどけなさで、どこか幼い少女のようにも見える。
「アイーダさん」
ファースはなるべく普段通りの調子を保とうとした。彼女はゆっくりと振り返り、長い睫毛に縁どられた秀麗な目を静かに動かした。
「……誰かと思いました」
別人のように見えるのは、お互い様らしかった。
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