声が届くまで

 さっきの家はほとんど更地みたいになっていて、中には誰もいなかったのでその近くを探し回った。ぽつりとそびえる枯れた木の根元に、彼は寄り掛かって休んでいた。ホムンクルスは相変わらずその傍に佇んでいる。


 近づいてみれば、疲弊しきった薄い目で細い骨ばった右手を眺めていた。手からは血のようなものが滴っていて、よく目を凝らすと、ナイフでめちゃくちゃに切ったみたいな傷が入り乱れていた。


「……来ないでください。殺しますよ」


 夜の底のように冷え切った声。虚ろな視線はこちらに注がれることはない。


「ヤーラ君」


 意を決して、足を進める。その気配を感じ取ったのか、木に手をつきながらよろよろと立ち上がった。月夜の色に染められた顔からかろうじて浮き上がる両目は、しだいに私に焦点を合わせ始める。


「……それ、痛かったですか」


 血だらけの右手がハンカチの巻かれた私の手を指す。なんて答えればいいのか少し迷ったが、嘘をついても仕方がない。


「痛いけど……平気だよ」


「……痛かったんだ」


 言い方は平坦だが、どこか嬉しそうに口端を上げている。

 彼は私を傷つけようとしている。けれど、本当に傷つけたいわけではない。よどんで、濁って、何もかもがめちゃくちゃに混ざり合った心の深淵には、いったい何があるのだろう。


「帰ろうよ。みんなのところに」


 そっと右手を差し出す。傷だらけの手で握り返してくることはなく、かわりに嘲るように鼻で笑った。


「僕の帰れる場所なんて、もう、ないですよ」


「私はいつでも待ってるよ」


「……だから、僕はいられないんだ」


 その笑顔に哀しげな影が差す。誰も拒んでなんかいないはずだ。そのこともわかってくれているはずだ。一番彼を疎外しているのは――


 どしどしと何かの足音が迫ってきたのに気づいて、辺りを見回した。

 いつの間にこんなに用意したのか――何体もの、巨大なホムンクルス。


「ありゃあ、お前の友達か?」


 すでに剣を抜いていたゼクさんが、彼らを睨みながら問いかける。


「あれは……ただの、化物です」


「そうか。じゃあ、ぶっ殺しても怒るなよ」


 小さい子供が粘土で乱雑に作ったような、人型の怪物。振り回した太い腕が、ゼクさんの大剣と衝突する。静かな夜空に、鐘楼のような音がこだまする。やはり恐るべき腕力だ。


 今度は両腕を空へ向かって振り上げるが、動作はまだぎこちなく、ゼクさんは容易に懐に潜り込んだ。


「ぬおらぁ!!」


 ひと薙ぎで大木のような胴体が真っ二つになる。両断された上半身がぐにゃぐにゃと蠢いたが、すぐに動かなくなった。

 他のホムンクルスも、それぞれゼクさんに襲い掛かろうとするが――


「おおおおおおおおっ!!」


 もうひと薙ぎ、今度は何体も巻き込んで。

 鉄板のような広い刃が風を立てるたびに、ホムンクルスたちの身体が切断されていく。強い。本当に、強い。


 ヤーラ君はというと、自分の作った怪物が散らされていく様を、微笑みをたたえながら眺めていた。どこか満足そうなその顔は、自分で組み立てた積み木を壊して喜んでいる子供みたいだった。


 散り散りの肉塊を積み上げたゼクさんは、ずるりと何かを引きずるような音に振り返る。

 最後の1体は、私たちのよく知っているもの。


 赤く鋭い眼差しが、月影を背負った大きな塊に注がれる。無数の牙を内包した裂け目から、風が唸るような吐息が漏れる。


 ホムンクルスは単純な動きしかしない。前方にしか攻撃できない、という話もあったように。

 そうであれば――打撃の嵐をかいくぐって背後に回り込むのは、ゼクさんにとっては容易かった。


「うらぁ!!」


 瞬く間に太い両腕が切断され、地面に落ちる。ホムンクルスはじりじりと振り返るが、ゼクさんはすでに次の攻撃の態勢を取っていた。


 口の裂け目に垂線を引くように、一閃。


 ホムンクルスは十字型に切れ目が入って崩れかけた身体をうごめかせ、苦しみ悶えている。

 ヤーラ君は薄ら笑いはそのままに、冷や汗を流して肩で息をしていた。その姿に、何か違和感を覚える。


 ゼクさんも瀕死のホムンクルスに意識を留めつつ、ちらっと横目でヤーラ君を確認する。あと一撃で勝負が決まろうかという場面だが、とどめを刺すのをためらっているようだ。


「おい、降参すんなら今だぜ」


 なんだかんだ、ヤーラ君を気遣っているんだろう。ずっと傍にいたあれに何かしらの執着があってもおかしくはないのだ。軽率に破壊していいものなのだろうか。


「……その化物は、いないほうが、いい」


 喘鳴混じりだが、はっきりとした声で言い切る。どことなく憎しみがこもっているようにも聞こえた。


「じゃあ、やるぜ」


 低く宣言して、大剣を月に向かって高く振り上げる。

 その大きな刃の奥、儚い光を発して佇む満月が目に入ったと同時――降って湧いたように、次々と脳裏に蘇る言葉。


 ――あの子は。


 ――助けたかったのよ。弟も。だから、あれが出るときは、いつも……。


 ――でも、無理なのよ。だって、一番救われたいのは……。



『これは……この、醜い人喰いの化物は――僕だ』



 気がつくと、私は振り上げられた剣とホムンクルスの間に割って入っていた。


「うお!?」


 すんでのところで剣の勢いを止めたゼクさんは、不可解そうな顔で私を見る。


「何やってんだ、危ねぇだろ!!」


「ご……ごめんなさい。でも……これ以上傷つけるのは、やめてください」


 そこでゼクさんは、はっとしたように目を見開く。

 ゆっくり振り返れば、もう笑みも消え去って疲れ果てた顔のヤーラ君と目が合った。


 わざとなんだ、と理解した。わざとホムンクルスを――自分の分身を壊してもらおうとしていたんだ。

 前にホムンクルスを魔物に攻撃されたときは、目で見ただけで欠損した部分を治していた。それだけじゃない。あの錬金術を使えば、ゼクさんを直接傷つけることだってできたはずだ。


「やっぱり、あなたは人を傷つけるような人間じゃないんだよ」


 私が近づこうとすると、ヤーラ君は怯えたように一歩後ずさった。


「こ、来ないでください。来たら――」


 私は足を止めず、震えながらナイフを握りしめる手をそっと包んだ。


「本当に刺す気があるなら、後ろから襲い掛かればよかった。でも、そうしなかったよね」


「ち……違う。僕は……」


 弱々しく震えるヤーラ君は、もう人殺しを騙る余裕を失っていた。この肉切包丁みたいなナイフは、結局自分を傷つけただけだった。これ以上は、私が許さない。


 ふわっと離した手を肩の後ろに回して、優しく、丁寧に――私はヤーラ君を抱きしめた。


 小さくて、細くて、冷たい感覚が全身にじわりと染みてくる。強張った身体から徐々に力が抜けていくのが伝わってきて、カランと刃物が落ちる音がした。


「ごめんね、本当に……」


 思わず謝っていた。ヤーラ君は棒きれみたいに立ち尽くしたまま、弱々しく手を添えるように抱き返してくれた。


「……エステル、さん」


 細長くたなびく煙みたいに、空気に溶けていきそうなかすかな声。私は「うん」とだけ返す。


「もう……何も、聞こえない……聞こえないんです。な、泣き声が、うるさくて……」


「ヤーラ君が、悪い夢を見てるときは……私、ずっと名前を呼ぶから。悪夢から覚めるまで、ずっと」


 服の裾を力なく掴んでいた手がずるりと垂れ、重みをほとんど感じさせない身体がこちらに寄り掛かる。


 やがて静かな寝息が聞こえ始めたのと同時、傷だらけのホムンクルスは淡い月光に消えていった。

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