傷口にして刃
普段からは想像もつかないほどの乱暴な手つきで、私の胸元が掴まれる。別人みたいに血走った目に睨まれ、その奥で振りかざされた小さな刃物に戦慄した。
自分の心臓に向かって一直線に降ってくるナイフを、根元を握る手を掴んでなんとか止める。その勢いで足のバランスを崩し、背中が床に衝突する。なおも力一杯押し込もうとする小さな手に、奥歯を噛みしめて必死に抗った。
眼前に迫る瞳からは、殺意に似た何かが滲み出している。
私の知っているあの優しい少年とは全然違う人間にも見えるし、それでも確かに目の前にいるのはヤーラ君だった。
「や……めて……」
喉の奥から絞り出した懇願に、返ってきたのは寒気のするような冷笑だ。
「怖い、ですか? 怖がってください。怯えているあなたを見るのは壮観です」
声色は亡霊のように無機質で、見開いた目はガラス細工みたいに冷たいのに、口元だけは嬉しそうに歪んでいる。
ああ、本気で私を殺すつもりなんだ。だめだ。それだけはだめだ。絶対にだめだ。ヤーラ君のためにも。
「お願い……こんなこと、本当は、したくないでしょ……?」
とにかく決死の思いで訴えたが、冷笑が無表情に変わっただけだ。
「僕の望みは、叶わないんですよ」
「……え?」
「だから、こうしたほうが、まし、なんです」
急に力を緩めた手は、再び月光を背負うように振り上げられ――真っすぐ降下する。
「――ッ!!」
慌てて自分の身体に覆いかぶさる細身を突き飛ばしてしまった。よろけた勢いでナイフは顔のすぐ脇の床を突き刺す。
その隙に転がるように脱出して、急いで立ち上がる。見れば、ヤーラ君は外れたナイフを見て茫然としていた。刃は深々と床板を抉っていて、あれが自分の身体に刺さっていたらと思うと背筋が凍る。
どうすべきか悩んだ挙句、何か声をかけようとしたものの――黒く濁った瞳がぎょろりとこちらを睨んできて、私の喉を締め付けた。
抜いたナイフに添えた左手が刃を撫でると、刀身が長く、鋭利な形に変貌する。満月を受けて青く輝くそれを、ぐっと握りしめて立ち上がる。
――逃げなきゃ。
今は何を言っても聞いてくれない気がする。とにかく殺されないように逃げなければ。直感的にそう判断し、ドアを弾き飛ばすようにして外に出た。
ボロボロの板を踏み抜きそうになりながら、階下へ急ぐ。血の臭いにむせ返りそうになりながら、玄関のドアノブに手をかける。
が、内外を隔てる薄い板は、凍り付いたように動かない。どれだけ力を入れても、びくともしない。
別の部屋に行って窓から出ようとしたが、この家のどこにも窓が見当たらなかった。何かがおかしい。辺りを見回して、ようやく気付いた。
家の間取りが変わっている。
さっきとは違う場所に階段があって、そこからギィギィと木の軋む音が下りてくる。
音を立てないように寝床の下に隠れた。狭くて暗い中で、じっと息を殺す。ふらふらと床を歩くのが振動で伝わってくる。確実に、近づいてきている。
小さな民家程度なら、脱出不可能な迷宮にしてしまえる、とてつもない力を持った錬金術師。
今見つかるのはまずい。心臓が警鐘を鳴らしている。
「エステルさん……どこにいるんですか……? ここからは、出られませんよ。外からも、誰も入れません。諦めて……いや、あなたはきっと諦めたりしない。そういうところ、素敵だと思います」
何か家具を撫でるような、ざらざらした音がする。
「……汚いなぁ」
今度は布で木を擦るような音が続いた。こんな状況で、部屋の掃除をしているらしい。聞いているだけでも、随分と丁寧にやっているのがわかる。ああ、ヤーラ君だな、と思う。
「こんなに汚れてたら、また母さんに叱られる……――違う、違う。母さんはもういない。あいつらは、もういない……」
ぐっ、ぐっ、と汚れを拭き取る手に力がこもっている。静かな部屋で、そんな摩擦音が虚しく繰り返されていく。
「……1人に、しないでくださいよ」
不意に、寂しくこぼれる声。
ごめんね、と心の中で謝った。ごめんね。辛いよね。本当は今すぐここから出て、いっぱい話を聞いてあげたい。あなたを1人にしたくないんだよ。でも、出られない。
「ぐっ……う、ああ……」
苦しんでいるような呻き声。それに呼応するように、何かが粉砕される轟音で家全体が揺れた。バリバリと木が破れる音が続く。ホムンクルスがこの家を壊し始めたようだ。
破壊の魔の手は、私が隠れ蓑にしているベッドにまで伸びてきたらしい。
土煙みたいに木くずが舞い上がり、真っ暗だった視界が薄く晴れて、ボロボロになった部屋の輪郭がぼうっと浮かび上がる。ぬらりとこちらを見下ろすホムンクルスが目に入って、急いで別の方向から這い出た。
「そこにいたんですね」
立ち上がってそちらを向けば、悲しそうに笑うヤーラ君の姿がある。解体包丁みたいなナイフを愛おしそうに撫でて、壁を背に後ずさる私に焦点を合わせる。
「だっ……だめだよ。ヤーラ君だって、嫌でしょう?」
一か八かで話しかけてみるが、希望は薄い気がした。
「僕は、とっくに人殺しです」
「違うよ。こんなの……悲しいだけだよ」
「……今は、あなたを悲しませたいんです」
私のせいなんだろうな、と思った。私が至らないばかりに、小さなひずみが蓄積していって、ヤーラ君を追い詰めてしまったんだ。
「ごめんね……」
じりじりと歩み寄っていたその足が止まる。笑みの消えたその顔が一気に青ざめて、ガクッと膝をつく。
「うぅ……ふ、ぐ……ッ――!!」
ほとんど液体しかない胃の内容物が、勢いよく撒き散らされる。
「だ、大丈夫!?」
思わず声をかけてしまった私に、ヤーラ君はさっきとは違う辛そうな瞳を向けた。
「……に、げ……て」
その短い言葉は、混沌の渦の中のわずかな隙を潜り抜けて出てきた本音に違いなかった。
申し訳ないと思いながらも、言われた通り踵を返して駆け出す。背後から聞こえる苦悶の声を振り切るように、壊れた壁の穴から外へ出た。
◇
どのくらい走ったかわからない。誰もいない。何も聞こえない。あるのは輪郭の曖昧な自分の影だけだ。
ああ、助けてあげられなかった――どうすることもできなかったのが、歯がゆくて、悔しくて、情けない。
あの子が本当に望んでいるものを、私は与えられない。刃物を向けられた。殺されそうになった。そうせざるをえなかった心境を思うと、名状できない痛みが響く。
結局、逃げることしかできなかった。私にはもう、何もできない。
どうして私はお兄ちゃんみたいに強くないんだろう。あの、すべてを包み込んでくれるような優しい笑顔に縋りたくなった。もう、会えないのに……。
「おい!!」
孤独を吹き飛ばす声。
くすんだ血で汚れていても、しっかりと地を踏みしめる大きな足。息は弾んでも、紅い双眸は力を失っていない。
「……ゼクさん」
「ど……どうした? あのチビは?」
何か言おうと口を開いたが、言葉がつっかえて出てこない。私の視界は重力に負けて下に落ち、暗い土ばかりを映す。
「……お前、手」
指摘されて初めて、右手の側面に切り傷があるのに気がついた。反射的に左手で覆い隠すが、彼には誰につけられた傷なのか悟られてしまったと思う。
「違っ……違うんです。これは、その……」
うまい言い訳なんて浮かぶわけもなく、ゼクさんは苦い顔で黙っている。
とりあえず、持っていたハンカチを巻いて止血することにした。花柄の布地に、赤い染みが滲む。
「……気にすんなよ。あいつに何言われようと」
そう呟く彼は渋い顔のまま、視線を脇に傾けている。
仲間たちのことを、嫌いだ、と言っていた。ヤーラ君が本心からそう思っているはずはない。思ってもいないことを言って、やりたくもないことをしてしまう。それはどんなに辛いことだろう。早く止めなきゃ。でも、どうやって?
「行くぞ」
「え?」
力を取り戻した眼差しが、真っすぐ向けられる。
「でも……私、もうどうしたらいいか……」
正直、これ以上打つ手が見つからなかった。私が話せばなんとかなるという見通しは甘かった。
悩む私に、ゼクさんは至極単純な返答を投げる。
「知るか。いざとなったら、ぶん殴って止めりゃいいんだよ」
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