狂人と罪人
全力で走ってきたせいか、息が苦しくて倒れそうだった。それでも今はロゼールさんとヤーラ君のところに急がなければならない。
さっきまで雲に覆われていた満月が、ひっそりと姿を現している。月明りに照らされた村の門は、別世界への入り口に見えた。
「クッソ、開かねぇじゃねーか!! どうなってやがる!!」
なぜか門が固く閉ざされているようで、ゼクさんは腹いせに蹴りを入れた。その後ろのスレインさんは深刻な面持ちで、マリオさんは普段通り平然と構えている。
「……嫌な臭いだ」
「1人2人じゃなさそうだねー」
鈍い私でもわかる。むわっと漂ってくる、血の臭い。中で何が起こっているんだろう。2人は無事だろうか。
「ぬおらぁ!!」
業を煮やしたゼクさんが、背中の大剣で門を破壊してしまった。木片を蹴っ飛ばして中に入る彼の背中を追う。
「――ッ!!」
入ってすぐ飛び込んできた光景に、吐き気と怖気がこみ上げた。息をするたびにひどい臭気が襲ってきて、頭がくらくらする。めまいがして倒れそうになったところを、スレインさんに支えられた。
「エステル、大丈夫か?」
「あ……はい」
辺り一面血の海で、肉片や衣服の一部がその中に浸っている。ゼクさんとマリオさんはどす黒い水たまりを進み、周辺を見渡す。
「ひっでぇな……何人死んでんだかわかりゃしねぇ。魔物、か?」
「足跡もないし、空を飛ぶ個体なら見落とすはずはないよ」
「死んでるのは村のクソ連中だけか」
「そうみたいだね。このちぎれた布切れ、村長の上着かな。そっちの指は奥さんで、あっちの足首は……」
マリオさんは人間だった残骸の身元を1つ1つ指摘する。村の人たちが襲われたというのはわかった。でも、いったい誰に……?
「これ、ヤーラ君の足跡だね」
淡々とした声音でその名が出てきて、ドキッとする。
「怪我をしている様子はないけど……足取りがかなりふらついてる。それから、足跡じゃないけど――大きな何かが引きずられたような跡」
私たちはたぶん、一斉に同じ考えに行きついたはずだ。
どうして。このところは落ち着いてきたと思っていたのに。やっぱり、うなされるようになったのが原因……?
「わかった。ゼクとマリオはヤーラを追う。我々はロゼールを助けに行く。それでいいか?」
スレインさんの提案に、私たちは黙って頷いた。
◇
<伝水晶>の反応を辿って行きついたのは、倉庫のような建物だ。氷漬けにされた人間が転がっていて、ここで間違いないと判断する。
中はところどころ破壊されていて、壊れた穴から降りると、そこは地下室だった。
奥のほうからまた嫌な臭いが流れ込んできて、最悪の想像が脳裏を過る。
「……心配するな。あの悪女がそう簡単に死ぬわけがない」
スレインさんは力強い笑顔で励ましてくれるが、それは自分に言い聞かせているようにも見えた。
やがて、悪臭の根源に辿り着く。何かが腐ったようなひどい臭気に覆われた部屋。氷に閉じ込められた無残な女性の亡骸の、その手前に――彼女はぐったりと倒れていた。
「ロゼールさん!!」
ぴくりと動いたのが見えたから、死んではいない。よかった。
でもロゼールさんは少し身体を動かしただけで、咳と一緒に血を吐き出した。
「手ひどくやられたな。大人しくしていろ」
小刻みな浅い呼吸をくり返しながら、ロゼールさんは力のない碧眼をこちらに向ける。
「……ヤーラ君、ですか」
動くのも喋るのも辛いのだろう、うんともすんとも言わなかったが、たぶん私の予想は当たっている。出てしまったんだ、あのホムンクルスが。
スレインさんが慎重にポーションを飲ませてあげているが、この傷ではすぐには治らないだろう。
「――あ、の……子は……」
虫の鳴くような、弱々しい声。
「助けたかった、のよ……弟、も。だ、から、あれが出るときは、いつも――」
「ロゼール、まだ喋るな」
「で、でも、無理……なのよ。だって、一番……救われたい、のは、自分、だから……」
「黙っていろ、傷がひどくなる」
スレインさんの制止も聞かずに断片的な言葉を続けていたロゼールさんは、おもむろに口の端を上げる。
「かっ……可愛いと、思わない? ふふ、ごほっ!! あは、あはははははっ!!」
「喋るなと言ってるんだ!!」
血を吐きながら狂ったように笑う彼女は、どこか空恐ろしく、どこか寂しげだった。
ロゼールさんがヤーラ君に何をしたか、なんとなく察してしまった。そのことを責めるつもりは毛頭ない。
今の話――よくよく思い返してみれば、ヤーラ君が正気を失うタイミングはバラバラではなかった。決まって、敵に襲われたり事件が起こったりしている最中だった。
誰かを助けたいという思いと、弟さんを助けられなかった後悔が入り混じって、ああなってしまうのではないだろうか。
行かなきゃ。止められるのは、きっと私しかいないから。
◆
死の気配に包まれた村落の中を、ゼクとマリオは黙って進む。家々は血で塗装され、あるいは大穴を拵え、人が生活していた痕跡を失っている。そのわりに死体が見当たらないのは、あのホムンクルスの食料にされてしまったからだろう。
2人はある家の裏側から、ゴリゴリと何かがすり潰される音を確認した。
マリオが物陰からそっと覗くと、ヤーラの猫背が見える。足元には下半身のない女が転がっていて、生気のない眼で助けを求めるように手を伸ばす。
「いたか?」
「うん。あの人はもう助からないだろうし、どうしよっか」
「とりあえず、俺が出る。テメェはいつも通り陰でコソコソしてろ」
「オッケー」
そうは言ったものの、ゼクはヤーラを正気に戻すことはできないだろうとわかっていた。むろん、マリオも同じだ。
我を失った少年は、悲しげな目でもう息絶えてしまった女を見下ろしている。
「よお」
声をかけるが、俯いた顔はそのままに鈍色の瞳を動かすだけだった。
「こいつら、こぞって追いはぎみてぇな真似してたらしいじゃねぇか。そんなクソども放っといて、さっさと帰ろうぜ」
「……」
光を失った眼差しは、再び女のほうへ戻る。自分の言葉が届いているのか、そもそも誰だかわかってくれているのか、ゼクには自信がなかったが――
「ゼクさん」
夜闇に消え入りそうなおぼろげな声だったが、仲間の判別はできるらしい。ホムンクルスは硫酸のような唾液を垂らしながら、じっと佇んでいる。
「この人たちは……人を殺したから、クソ野郎、なんですか。それなら……僕、だって……」
少年の視線の先にいる、無残な女の亡骸。悪事に加担していたのなら、同情の余地はない。
しかし、その脇に抱えられていたものに気づいて、ゼクの顔が強張った。
眠ったように動かない、赤ん坊。
「お前っ……」
「僕が、殺しました。泣き声が……うるさいから」
見たこともない、冷酷な眼差し。心を喪失してしまったのか、それとも何かの感情が溢れて収拾がつかないのか。
「……俺だって……こっちに来る前は、何人も殺したぜ。勇者だった奴も」
ゼクは魔界での暗黒の日々を思い返す。正義を信じてやって来た人間たちを、父の命で葬った。人間界に出たあとも、信頼していた仲間を殺すはめになった。
「嫌だったでしょう、あなたのことだから」
「……テメェだってそうだろうが」
「でも、エステルさんは……許してくれますよ」
「そうだな。お前が何しようが、あの馬鹿は受け入れるだろうぜ」
ヤーラは悲しげな顔だが、わずかに微笑んでみせた。思いの外会話が通じるようで、ゼクは内心ほっとする。
優しい笑みを浮かべたまま――少年は鈍色の瞳を向ける。
「だから、僕は……あなたのことが、嫌いです」
大槌のような腕が、ゼクの背後から振り下ろされる。
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