月夜の闇から
その日は一連の殺し屋騒動に疲れたのが半分、なんとなく気まずい空気になってしまったのが半分で、宿舎に帰ってからはみんなさっさと床に就いた。
私もなかなか寝付けなかったけれど、やがて疲労が眠りに誘ってくれて、短時間でもわりと深い睡眠がとれた気がする。短時間、というのは――目が覚めたのが、夜明け前の薄闇の中だったからだ。
深い眠りを覚ましたものは、隣室から聞こえる妙な声。
声色には聞き覚えがある。ゼクさんとヤーラ君だ。でも、何か穏やかならぬ雰囲気で、私はそっと廊下へ出た。2人の声が漏れてくるドアを、あまり音を立てないようノックする。
「すみません、どうかしました?」
ガチャ、とドア越しにゼクさんが顔を覗かせる。暗がりに見えた表情から、どうしたらいいかわからないという困惑が伺える。
「お前か。あー……なんだ、入ってくれ」
その短いやり取りの間にも聞こえてくる声が気になって、部屋にお邪魔させてもらった。中に入れば、それはより一層鮮明に私の耳に届いてくる。
「う……うぅ……ぅあ、あ……」
「……ヤーラ君?」
ベッドの上にうずくまったまま、苦しそうな呻き声をあげている。汗はびっしょりで呼吸も荒いけれど、声をかけても起きそうにない。
「さっきからずーっとこれだ。なんとかしろ」
言い方こそ粗雑だけど、ゼクさんも心配なのだろう。ヤーラ君は依然うなされたままで、悪い夢でも見ているのかもしれない。今度はその華奢な肩を優しく揺すってみた。
「ヤーラ君、起きて。大丈夫だから、ほら……」
「っ……うぐ……ぁ、う……あああっ!!」
叫び声を上げて飛び起きたヤーラ君は、何かとてつもなく恐ろしい目に遭ったときのような、ひどく怯え切った顔をしていた。やつれたような目が辺りを彷徨って、私のほうに向けられる。
「エ……エステル、さん……?」
「よかった。なんか、ひどくうなされてたみたいだから……。大丈夫?」
「あ……その、すみません」
「謝らなくていいんだよ」
乱れた呼吸を整えてもらおうと、そっと背中をさすってあげた。まだ不安そうに顔を俯けているけれど、さっきよりは落ち着いてくれたみたい。
「どうした? 何かあったか」
「ふぁ……ねむ……」
私がいないのに気づいたのか、スレインさんとロゼールさんもこっちに来てくれた。
「ヤーラ君がちょっと、具合が悪かったみたいで……。もう平気そう?」
「え、あ……」
「ダメそうね。エステルちゃん、一緒に寝てあげたら?」
「ちょっと、ロゼールさん!?」
私は頼まれたら別に構わないのだけど、ゼクさんまでぴくっと反応したので、さすがに同じ部屋で寝るのはまずいという思いに至った。
そんな話をしている間もヤーラ君はどこか上の空で、せめて飲み物でも持ってきてあげようと思ったとき。
「――待て。マリオはどこだ?」
私たちは一斉に、月明りに淡く照らされた空っぽのベッドに視線を集めた。
マリオさんがいない。どこに? いつから? どうして?
昼間のあのときから、何か考えているふうではあった。でも、突然姿をくらませるなんて。
眠たげだったロゼールさんが、はっと顔を上げた。
「まさか、あいつ――」
◆
大雨の後で晴れ渡った空には、大きな月が煌々と輝いている。もうすぐ満月だ。が、マリオにとっては「いつもより周りが見えやすい」以外に月夜に対する感想などなかった。
「最果ての街」は夜明け前でもまだ人影がちらほら見える。酔っ払った男たちや、良からぬことを企んでいそうな連中まで。
マリオはそんな街並みを、支部の建物の屋上から眺めていた。むろん、一睡もせずに。
自分が起きて待っていることは、先方も理解しているのだろう。我慢比べなら得意だ。1日2日寝ない程度では、何の苦にもならない。
そろそろ向こうが痺れを切らしてくる頃か。
床に腰掛けて、わざと眠そうに頭を揺らしてみる。近くで見ればかなり嘘臭い動きなのだろうが、この薄暗い中でなら――
案の定、それは突風のように目の前に迫ってきた。
予想しているなら避けるのは容易い。軽く身体をひねって、飛んできたそれを躱す。何にも命中しなかったその小さな刃物は、カッと高音を響かせて床に弾かれた。
すぐにナイフが飛んできた方向を計算する。すでにその場から移動しているだろうから、どの経路を通るか、どこから行けば追い詰められるか、瞬時に思考を巡らす。
結論が出たところで、糸を思いきり引っ張り出して近くの建物の突起に引っかけ、屋上からジャンプする。振り子の軌道を描いて十分な高さに達したところで、糸を離して別の建物の窓を蹴破りながら飛び込んだ。
無人の屋内の廊下を見回す。人の気配はなかった。敵がいたであろう場所に向かうと、窓が半分ほど開いている。ロープか何かを擦った跡があり、それを追って糸を駆使して飛び降りる。
着地地点の水たまりがパシャッと跳ねた。まだ乾いていない地面の足跡を注意深く追跡していく。
敵が逃げた方向は――
「マリオさん!!」
予想外の声に、はっと顔を上げた。
「よかった、無事だったんですね」
「どこほっつき歩いてたんだ、この糸目野郎」
暗がりからエステルとゼクの姿が浮かんでくる。黙っていなくなった自分を捜しに来たのはわかった。
「ぼくから離れて」
「え?」
エステルが聞き返すのと同時に、ゼクが膝から崩れ落ちるのが見えた。
「いっ……てぇ!?」
「ゼクさん!?」
膝の辺りに何かが刺さっている。急所を狙っていないということは、標的以外殺すつもりがないのだろう。
エステルは身を屈めてゼクの足を見ている。
「このナイフ……」
思い当たる節があるのだろうが、説明している暇はない。
「そこにいて。敵の狙いはぼくだから」
「マリオさん?」
返事も待たず、目的の場所へ堂々と歩いていく。
確実に誰かの気配がある。無防備だがその気配のもとへ近づいていけば、向こうも手を出さざるを得ない。
音もなく飛んできた一撃を魔道具で弾き返し、キン、という甲高い音だけが残った。
攻撃してきたということは、距離が狭まっているということ。マリオは遠慮なく走り出し、敵の隠れている場所へ詰めていく。
抵抗するように投げナイフがいくつも襲い掛かる。例の、カーブを描いた特殊な軌道を辿る投げ方だ。
あえて進行方向へ飛び込むように前転し、ギリギリのところで躱した。地面に刺さった1本を引き抜きつつ、立ち上がってすぐに地面を蹴る。
すぐそこまで迫ったところで、拾ったナイフを暗闇に向かって投擲する。
飛矢のように突き進んでいったそれは、黒に溶けて見えなくなった。
落ちた音がしないということは、命中したということだ。ゆっくりとその地点に近づいていく。もう反撃は来なかった。
閉店した酒屋の前に積み上げられた荷物の陰。血の臭いと、微かな息遣い。
身を乗り出してみれば、予想通りの人物が横たわっている。
「――やあ。また会ったね」
ランプの小さな灯りと軽い足音が近づいてくる。小さな光に照らされた暗殺者の姿を認識した彼女は、息を呑んで絶句していた。
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