Q

 いつになく真剣なソルヴェイを、ファースは横から黙って見守っている。後ろにいる狐も、今は口説くなんて雰囲気ではないのでそわそわしながら待っていた。

 乱雑に散らかった部屋でも、彼女にはどこに何があるか完璧に頭に入っているらしく、手早く必要なものを用意して作業に取り掛かっている。


 見知らぬ眼鏡の女のゴミ捨てを手伝ったファースだったが、その手についた血に違和感を覚え、再度捨てたものを確認しに行った。浅い川に浮き上がった袋の口から、人体の一部が覗いていた。


 さらに、血のにおいに違和感があると狐に言われ、嫌な予感がしたファースは協会に戻ってソルヴェイに鑑定を頼んだのだ。そのままにしていた血を布巾で拭ってもらったものを、ソルヴェイは一心に調べている。


「な、なんかわかった?」


 重い沈黙に耐えきれなかったのか、狐が質問する。返ってくる言葉など1つしかないことはわかっているはずなのだが。


 しかし、ソルヴェイの返答はいつもとは違っていた。


「……『Q』だな」


 短い言葉を紡ぐ彼女の顔はいやに憎々しげで、以前アイーダのデスクに悪質な嫌がらせをされたときの表情を髣髴とさせた。


「それって」


「ちょっと前に、ギャング連中の敵さんのとこで出回ってたシロモノ」


 ファースも詳細は知らないが、覚えがあった。当時、<ウェスタン・ギャング>が敵組織を攻撃するために、彼らの縄張りに流した麻薬。それが、「Q」と呼ばれるものだった。

 極めて依存性が強く、摂取すれば強烈な快楽と引き換えに正気を失い、暴力性を抑えられなくなる。薬で身体は蝕まれ、最後には廃人同然となる恐ろしい薬だ。


 そんなものを、なぜこの街の人間ではないであろうあの女が?


「でも、こいつはもっと効き目が強い。ギャング連中とは別の人間が作ったもんだな。うーん……わかんねぇ」


「そ、そのヤクってよぉ……元々はギャングのなんちゃらいうドクターが作ったんじゃなかったっけ」


「そういえば……エステルさんが、この街に潜む魔族がドクターの研究成果を奪ったって……」


 ファースの言葉に、全員が黙り込む。恐ろしい薬物が魔族の手に渡ったのだとしたら。

 あのお下げの女も、人間に化けた魔族なのだと考えれば辻褄が合う。



 緊迫したところにドアの開く音がして、3人は一斉にそちらを向いた。狐などは驚いたのか毛を逆立てていたが、そこにいた人物を見てほっと尻尾を垂らしていた。


「アイーダさん」


「こちらにいらっしゃると伺ったもので。<ゼータ>からの報告をまとめましたので、ご確認を」


 ファースはその報告書を受けとろうとするが、なぜかソルヴェイに制止されて手を止める。


「手帳の34ページ目を見てみろ。副支部長さんは非番だよ」


 アイーダはすぐさま手帳を取り出し、ぱらぱらと中身を確認する。


「……そうですね。失念していました。申し訳ありません」


「い、いえ……」


 なぜソルヴェイが手帳のページの内容まで把握しているのかまったく不明だったが、彼女なりにファースを気遣ってくれているらしいことは素直にありがたかった。


「そのー……報告書? 的なやつは、あたしが何とかしとくよ」


「そうですか。魔人に関するものは、今度から本部にも報告することになっているのですが」


「へぇ……わかんねぇ」


「では、お願いします」


 それでいいのかと疑いたくなるようなやり取りを済ませて、アイーダはさっさと退室してしまう。

 本当に仕事上だけの付き合いしかできないのだろうな、とファースは少し寂しさを覚える。


「……気に入られてんねぇ」


 含み笑いをしながら自分を見ているソルヴェイに、ファースは首をかしげる。


「え? な、何のことですか?」


「アイーダがあんなになつくなんて珍しい」


「いや、ボクのことなんて覚えてないじゃないですか」


「個人情報とかエピソードとかは忘れるよ。でも、信用できる人間とそうでない人間は無意識に覚えてる。信用できる人間には頻繁に話しかけるし、相談や頼み事もする」


「それは、ボクが副支部長だから……」


「前の支部長のときは、振られた仕事全部片づけた後にまとめて提出で終了だったよ」


 ファースはここに勤めてからのことを思い返す。名前を呼ばれるたびにびっくりしていたが、つまり彼女は何度も話しかけてくれたのだ。仕事の報告も逐一してくれたし、相談もよく受けた。さっきはわざわざ自分を探してくれた。


 頼られているのか。そう思うだけで、救われるような心持ちがした。


 同時に、ソルヴェイに対する認識も改めた。彼女は周りをよく見ている。アイーダとも付き合いが長いのだろう、手帳に何が書いてあるかも把握している。ファースにも一番欲しかった言葉をくれた。「会話を成立させるのも困難」と言ったのを反省した。


 それに、狐の言う通り――その笑顔は、確かに綺麗だった。


 しかし、当の狐はさっきからずっと落ち着かない様子でひたすらキョロキョロ辺りを見回していた。



  ◆



 こんな深夜に起きている人間は他にいないだろう。気配も、においもない。問題はないはずだが、それでも恐怖と緊張は拭えない。物音を立てないよう、暗闇の中を慎重に歩く。


 目的の部屋にそっと入れば、昼間と同じく鼻につく薬品の臭気。

 だが、どれが目当てのものなのかはすぐにわかる。ごちゃごちゃと並べられた瓶をかき分けて、奥へ奥へと手を伸ばす。


 カチャカチャとガラスが擦れる音はしたが、誰かに気づかれるほどではない。ゆっくりと腕を引き、懐へ移そうと――



 チク、と鋭利なものが首に当たる感覚がした。



 先ほどまではなかった人の気配がすぐ後ろに突然現れて、一気に血の気が引く。いつ? どこから? どうして?


「鼠じゃなくて狐だったか」


 普段からは想像もつかないような低い声に、狐は震えあがる。うまく噛み合わない犬歯をいったんぐっと噛みしめて、言葉を発する。


「い、いつからいたの?」


「においは化学物質、音は空気の振動だ」


 それらすべてを消し去っていたというのか。人間離れした所業に、恐怖が強まる。


「おっ……俺はただ、ここに忘れ物をしただけなんだ。ぶ、物騒なもんはしまってくれよ、ソルヴェイちゃん」


「何しに来たかはわかってるよ。――ヴォルケンシュタイン君」


 本当の名字を呼ばれて、心臓が跳ね上がる。彼女は自分の素性を知っている。


 ファースの手についた血から微かに漂ってきたもの。それと同じにおいを、この部屋の別の場所から感じ取った。もしや、と思って来た。組織のために。


「その、右手に持ってるのを作った人間を探してるんだろ。見つかった?」


「……き、君が、そうなのか」


「さあ……。ただ、その人は相当しんどかったと思うよ。こんなやばい薬を作れなんて言われて、実験室に缶詰にされてさぁ。逃げたくもなるよなぁ」


「こ、殺したのか。キングも、ジャックも……。魔族と組んで?」


「魔族はわかんねぇけど、その2人は死んで当然のクソ野郎だと思ってるよ」


「お、俺も……殺すのか」


 自分で言っておいてぞっとした。彼女が本当に自分たちの組織から逃げ出した人物ならば、どんな毒を盛られるかわからない。


「抵抗、すればいいじゃん。君の親父さんなら針が刺さるよりも前に顔を握り潰せる」


「……俺は……親父とは違う」


 情けなかった。獣人でありながら、臆病で喧嘩も弱い。今だって、足が震えて逃げることすらできない。荒々しく戦う武神のような父と、まるで正反対だ。


「へぇ……わかんねぇなー」



 ぐっ、と針が食い込んだ。



 全身の力が一気に抜けて、がくんと膝をつく。頭に靄がかかったような感覚がして、視界がだんだん黒に染められていく。

 かすかに残った聴覚で、その言葉を拾っていった。


「死にはしねぇよ。忘れるのが一番いい。……あんたも大変だろうしね、『エース』の息子君」

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