湿った世界

 昨日から降り続く雨は、より勢いを増して地面を叩きつけていた。足場も視界も悪い中、協会の建物周辺を二手に分かれて見回っていたゼクとスレインが合流する。


「こっちは異常なしだ。そっちは?」


「誰もいねぇ。クソッ、どこに隠れていやがる」


 雨水の幕の向こうには、往来する街の人間や軒下で降雨を凌ぐ物乞いがわずかばかり見えるだけ。


「……一連の殺人に、人を幻惑させる魔術を使っているのなら――わざわざこの近くまで見に来ることはしないかもしれないな」


「いや、来る。ヨアシュのクソガキは絶対来るんだよ。人間がパニクって苦しんで喚いてんのを見るのが好きなんだ、あの変態野郎は」


 ゼクは魔界にいた頃の最悪の日々を思い返す。

 自分の母含めて定期的に人間が連れてこられ、魔族たちに嬲られ虐げられて悲惨な最期を遂げていった。

 その光景を、楽しむでもなく、咎めることもなく、ただ世を儚むように虚しく笑って眺めていた幼い少年。


「……情報屋の小坊主の言う通り、ヨアシュが親父に許し貰ってちょっかいかけに来てんならな。あいつは絶対にエステルを狙う。そういう奴だ」


 自分で話しておいて、ゼクは怒りがこみ上げてくる。

 <ゼータ>の中で一番強いのは自分だと勝手に自負しているゼクは、エステルを守る義務があるのも自分だと単純な責任感を抱いていた。


 気障ったらしいスレインのことだから、気取った台詞の1つ2つ吐くのだろう――と思っていたが、ゼクの耳に入ってきたのは雨音ばかりだった。


 それもそのはず――今の今まで一緒にいたはずのスレインの姿が消えていたのだ。


「……!?」


 異様な雰囲気に、ゼクは辺りを見回す。暗い。天候では説明のつかないこの暗さは、まるで夜闇だ。

 人の気配は一切掻き消え、ゼクは突然別世界に独りで迷い込んでしまったかのような錯覚を覚えた。雨粒が身体に触れる感覚も、むっとした湿気の感じも、確かにある。



「ゼカリヤ兄ちゃんは、雨は嫌い?」



 不気味なほど澄んだ静かな声に、ゼクは振り返る。記憶にあるままの、いかにもお坊ちゃん風な黒髪の魔族の少年が幽霊のように立っていた。


「ヨアシュ……!! テメェ、何考えてやがる!!」


「先に質問したのは僕だよ。雨は嫌いかな」


「雨もテメェも大ッ嫌ぇだよ」


 そう毒づいても、ヨアシュは表情1つ動かさない。ゆっくりと黒一色の空を振り仰いで、顔一面に水滴を浴びている。


「僕は好きだけどね。魔界は……雨も降らない、貧しい土地ばかりだから。そこに住む人たちの心も満たされないで、荒れていく。この街とそっくりだよね。ここは、雨がたくさん降るのに」


 物憂げな語り口。しかしゼクは、ひとかけらの共感もしない。


「僕は見てみたいんだよ。満たされない人間が、失っていく人間が、どうなってしまうのかを」


「……ともかく、テメェが何かやろうってんなら、ぶっ殺すだけだ。特に、うちのリーダーに手ぇ出すつもりならな」


 おもむろに背中の大剣を抜いたゼクは、薄暗い中に浮かぶ小さな少年を真っすぐ見据える。

 殺意に満ちた視線を突き刺されたヨアシュは、冷笑で返した。


「エステルっていう子なら、僕も興味があるんだ」


 それだけで、怒りに触れるには十分だった。ゼクはその小柄に直進し、剣を振り上げ――



 気がつけば、朝のほのかな明るさに包まれた街並みが戻っており、ゼクも剣など抜いておらずそこに突っ立っているだけだった。

 まばらな人影も、傍のスレインの姿もちゃんとそこにあった。ヨアシュだけが、どこにも見当たらなかった。


「どうした? 早く中に戻るぞ」


 スレインが不審そうに声をかける。


「……ああ」


 気のない応答をしつつも、あれがヨアシュの幻惑の魔術かとゼクは考えた。確かに、使い方次第では人に殺人を仕向けられるかもしれない。


 だが、あの不気味な少年がそれで何をするつもりなのかは、見当もつかなかった。



  ◇



「少なくとも、俺の体感では雨もあのガキの姿もリアルだったし、剣抜いたときの感触も重みも間違いなく本物だったぜ」


 アイーダさんの部屋から遺体が見つかったことについて話し合うため、私たち6人は宿舎に集まって、まずはヨアシュと遭遇したというゼクさんの話を聞いていた。


「傍目から見ていたが、君は剣を抜くどころか、話している様子もなかったぞ」


 同行していたスレインさんが指摘する。


「どうも、精神に働きかける能力みたいだねー」


 マリオさんの言う通りなら、これまでギャングを殺した人たちの不可解な言動も理解できる。ヨアシュの手で、誤った事実を本当だと思い込まされていたんだろう。

 じゃあ、アイーダさんの件は?


「ゼクの話によれば、そのヨアシュというのは人間が混乱する様を楽しみたいようだが――一連の殺人には何らかの意図がある。ギャングのボスを狙ったこと、研究成果を盗んだこと……ならば、今回の目的はいったい何だ?」


 スレインさんが疑問を提示すると、まずはマリオさんが見解を述べた。


「そのヨアシュ君が術をかけたっていうなら、間違いなく殺された被害者のほうだろうね。彼に何かを探らせて、用が済んだから消したんじゃない?」


「あの後アイーダさんの部屋で、いつも朝に確認するっていうノートを探したんです。机の上にあるのを見つけたんですけど――1ページだけ、破かれていました」


 ヤーラ君の補足も含めて推測すると、その破かれたページには、敵にとって重要なことが書かれていたのかもしれない。


「他に、変わったところはなかったか?」


「ないね。逆に言えば、なさすぎて不自然」


 どういうことだろう、と私たちは一斉にマリオさんに注目する。


「前調べた家では、足跡や家具を動かした跡なんかそのままだった。今回はそういうのが何もない。意図的に消したんじゃないかって思ってる」


「そんなん魔術で消せんのか? 犯罪やり放題じゃねぇか」


 自身は魔術なんて使わないゼクさんが口を挟む。


「ぼくも詳しくはないけど……そもそも、あの大量の刺し傷。恨みがあって滅多刺しにしたいのなら、刺し痕は1か所にまとまるはずなんだけど――あの遺体は胴体も手足もまんべんなく刺されてた。だから、注射痕をごまかすためかと疑ったんだ」


「でも、毒は検知されなかったんですよね?」


「体内から消し去ることはできる。そうだよね、ヤーラ君?」


 名前を呼ばれたヤーラ君は、言いにくそうに爪を噛んでいる。


「理論上は、錬金術でできますよ。毒も含めて痕跡を消し去ることも……。でも、そんなのよほど高等な技術を持っていないと、無理です」


 高等な技術を持つ錬金術師――と聞いて、1人、思い当たる人がいる。


「死体だって、魔力に変換すれば移動は簡単にできるよね」


 マリオさんはきっと、前にヤーラ君がそうやって死体を処理していたことを踏まえて言ってるんだろう。


 でも、私にはどうしてもあの人を疑うことはできない。

 何を考えてるかわからないけど――ソルヴェイさんは、絶対に悪い人じゃないと思う。根拠はやっぱりないけれど。



「はぁ……くだらないわ」


 最初からこの話し合いに乗り気じゃなかったロゼールさんが、不意に溜息を漏らす。


「ロゼール、君はエステルと一緒に聞き込みをしてたんじゃなかったか?」


 スレインさんが促すも、ロゼールさんは心底つまらなそうにそっぽを向いたまま、髪の毛をくるくると指で巻いている。


「ロゼールさん、ファースさんたちに聞いてましたよね。あの人を殺したのか、とか、隠し事をしてないかって……」


 この話を持ち出したのはまずかったのか、彼女はまた嘆息するが、観念したように話し始めた。


「……記憶のないアイーダは除くとして。1つ目、殺したかどうか。これは全員がノー。2つ目、隠し事があるか――これは、全員がイエス」


 え……?

 ファースさんも狐さんもソルヴェイさんも、殺してはいないけれど、全員事件に関して秘密にしていることがあるってこと?


「けど、悪意がありそうな人は1人もいなかったわ。どちらかというと、3人ともアイーダを庇っているように見えた。男連中は、ただの下心かもしれないけれど」


「なんだ、よかった」


 私は心底ほっとした。ファースさんたちはいい人だってずっと信じていたし、疑いたくなかったから。

 そんな私を見て、ロゼールさんはぷっと噴き出した。


「ふふふっ……。エステルちゃんはそれでいいのよ。人を疑ったり勘繰ったりするのは、そこの殺し屋にやらせときなさい」


「うん、任せてー」


 素直に請け負うマリオさんを、ロゼールさんがちらりと睨む。喧嘩になりそうな雰囲気を察したのか、スレインさんが話題を変える。


「ロゼール。君から見て、ヨアシュというのはどうだ? 何を考えてるかわかるか?」


 話を振られたロゼールさんは、しなやかな白い手を頬に当てて目線を落とし、しばらく考え込んでから顔を上げた。


「きっと、魔族も含めて……弱くて、浅ましくて、どうしようもなく儚い人間っていう生き物が、大好きなんだと思うわ」

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