死体は雨とともに

 血の臭いが立ち込める職員寮の一室。すぐ外に来た時点で私はすでに気分が悪くなっていたが、人込みをかき分けてなんとか中に入る。


 そこには当然というべきか茫然としているアイーダさんと、なんとかこの場をまとめようとしてくれているらしいファースさんがいた。


「お、落ち着いて。無関係な方は入らないで。ええと、ここの物はむやみに動かさないように。アイーダさんも、じっとしててください」


 困り顔ながら的確に指示を出す彼の前にはロッカーがあって、そこからはみ出す大きなそれが嫌でも目に入る。


 あの熊男――だったもの。


 全身のあらゆるところにある刺し傷から、どす黒い血が流れ出ている。顔には苦悶の表情が残ったままで、そのおぞましい姿を見ただけで私は気を失いそうになった。


「あの……どういう、状況ですか」


「まず、早朝に……珍しく早起きした狐が、この部屋から異臭がすると」


 集まった人たちの中に、鼻をつまんで不快そうな顔をしている狐さんがいた。


「俺ぁ鼻がいいからな。遠くからでもすげぇ臭ってきてよぉ……二日酔いも吹っ飛んだぜ。そりゃあな、女の子の部屋だからもちろん躊躇いはしたぜ? だがよ、この街であまりにも嗅ぎ慣れた臭いだもんで。心配になってよ、失敬したんだ。そしたら、ぐっすり寝てるアイーダちゃんに……これ」


「それでボクが呼ばれて、アイーダさんを起こして話を聞こうとしたんですが……何を聞いても『わからない』と」


「ソルヴェイちゃんみてぇにな」


「狐!」


 ファースさんに軽口を咎められ、狐さんはバツが悪そうに閉口する。

 それと入れ替わりに、野次馬の誰かがぽつりと呟いた。


「本当に、あの女があいつをやったのか?」


「馬鹿、あんなバケモン大男に勝てるわけねぇだろ。それに、あんなに刺すか? フツー」


「魔法かなんか使ったんじゃね? あの女職員、いつも何考えてるかわかんねぇしよ」


 アイーダさんのことで好き勝手言う人たちは、私とファースさんが同時に睨むとすぐに大人しくなった。


 一方さっきからずっと黙ったままのアイーダさんは、この状況が理解できていないといった顔で、私たちのほうをぼーっと見つめていた。


「アイーダさん、何か思い出せることはありませんか? 関係のないことでもいいんです」


「いいえ、何も覚えていません」


 声だけはいつもの淡泊な調子だ。どうやって質問したものかとあれこれ考えていると――彼女は、予想もしなかった言葉を私たちに放った。



「……あなたたちは、誰ですか?」



  ◇



 小さめの会議室を借りて、私はファースさん、狐さん、そしてアイーダさんと――彼女のことを知っているソルヴェイさんに聞き込みをすることにした。一応、嘘の証言がないかロゼールさんにも同席してもらって。


 現場はマリオさんとヤーラ君に調べてもらい、ゼクさんとスレインさんに不審な人間がいないかを見回りに行ってもらっている。


 アイーダさんについて「わかるところまで」と断りを入れて聞くと、ソルヴェイさんはつらつらと説明してくれた。


「アイーダは1日ごとに記憶が全部消えるんだよ。生まれてからのことも覚えてないらしくて……。だから、覚えておくべきことは全部メモしてんの。朝はいつもそれのチェックしてるはずなんだけど、今日は時間なかったからなぁ。……なんでこの体質になったのかは、わかんねぇ」


 私ははっと気づいた。自分も含めていろいろな人のことをメモした紙。会った人のことも全部忘れてしまうから、全部書き留めてたんだ。


 毎日記憶が消える――それは、どれほど辛いことなんだろう。無表情の彼女からは、まったく想像もつかないけれど。


「アイーダ、というのが私の名前ですか」


「おー……。いつもは枕元に、朝一番に見る用のノートがあるはずなんだけど。前日のこともそこに記録してる、と思う」


「ボクらが起こしに行ったときは、ありませんでしたね」


「つまりよ、事件については手がかりゼロってこと?」


 狐さんの言う通りだ。どうしようかと困っていると、ロゼールさんが助け船を出してくれた。


「まずはここにいる人たちに簡単な質問をすればいいのよ」


「簡単な質問?」


 ロゼールさんは頷くと、ファースさんたち4人の顔を見渡す。


「この中に、あの男を殺した人はいる?」


 それはあまりにも直球で、全員が返答を忘れるほどだったが、ロゼールさんは構わず続ける。


「……じゃあ、この事件に関わっている人は? 私たちの知らないことを密かに知っている人はいる?」


 ロゼールさんの暗色がかった瞳は、1人1人をじっくり精査している。ファースさんや狐さんはその迫力に気圧されているように見えるが、そこまで怪しい感じはしない。


「……なるほどね」


「ロゼールさん、どうですか?」


「うーん……魔族の仕業ってことで、いいんじゃないかしら」


 なんともあっさりした結論に、私は拍子抜けしてしまった。でも少しほっとする。ここにいる4人は関係ないんだ。アイーダさんは、ちょっとわからないけど……。



 ドアが開き、私たちは一斉にそちらを向く。一通り現場検証が終わったらしいマリオさんとヤーラ君が顔を覗かせていた。


「あ、どうでした?」


「まず、はっきりしてることから言うね。彼の死因はわからない」


「……はい?」


 マリオさんの言葉に、私は思わず聞き返していた。あんなにたくさん刺されていたのに?


「あの刺し傷はね、合計で79か所あったんだけど、全部死んだ後についた傷みたいなんだよね。毒殺して、その注射痕を消すために刃物で刺したのかなって思ったんだけど、毒らしいものは検出できなかったってヤーラ君が」


 当のヤーラ君は、部屋に入ってきたときからずっと青い顔をして爪を噛んでいる。人の遺体を調べるなんてことをさせてしまったからだろう。ちょっと、申し訳なくなる。


「ただ、遺体には魔力の跡がいっぱい残ってたんだよね?」


「ええ、全身にくまなく……。普通の人の魔力量じゃないと思います。それ以外は、本当に何もありませんでした」


「やっぱり、魔族の仕業……?」


「きっとそうよ」


「いや、まだわからない」


 私の言葉に真逆の返事をしたロゼールさんとマリオさんが睨み合う。が、マリオさんはあまり意に介さず話を続けた。


「ここからは推測だけど……まず、彼がアイーダの部屋にいた理由。たぶん、別の場所で殺されてあのロッカーに運ばれたんじゃないかな。あんな大きな身体だから、あれを運ぶために何らかの魔術を使ったんだと思う。それなら辻褄が合うよね」


「じゃあ、犯人はアイーダさんに罪を着せるつもりだったんですね?」


 ファースさんが被せるように言う。同僚として疑いたくない気持ちがあるのだろう。


「そうだね。部屋に空の注射器が落ちてたんだ。中の残ったものを調べたら、睡眠薬だった。アイーダはそれを打たれてたんじゃないかな? そうでなきゃ、あんな死体のある部屋でぐっすり眠れるわけないと思うんだけど」


 マリオさんに促されて、アイーダさんは袖をまくっている。案の定、針の刺し痕のようなものがあった。


「なんてこった! 魔族のクソどもがアイーダちゃんを陥れようとしたってんだな!? 畜生、許せねぇ!! よし、今度から俺が一緒に寝て身の安全を――」


「誰かこの馬鹿狐を縛り付けてくれませんか」


「いいよー」


「ちょ、旦那? 冗談っすよ。……おいマリオ、俺たち友達だろ? おーい!」


 狐さんの軽率さにファースさんも呆れ果て、マリオさんは言われた通り束ねた糸を引っ張り出している。

 フォローする気にもなれず溜息をついていると、普段と変わらない淡々とした無表情を保っているアイーダさんと目が合った。


「あの、すみません。なんにもわからないのに、いろいろ質問しちゃって。アイーダさんのほうから、なにか聞きたいことありますか?」


「……いえ、何も」


 冷え切った鉄のような声音に、私は何も言えなかった。



 話もひと段落して、いったんみんなで集まって話し合おうと、見回りに出ていたゼクさんとスレインさんを迎えにロビーに行く。

 ちょうど帰ってきたところのようで、2人とも外の雨でびしょ濡れだった。


「すみません、こんな雨の中……。どうでした?」


「私は誰も見なかったんだが――」


 スレインさんがちらりと後ろを振り返る。平素から厳めしい顔のゼクさんが、いっそう表情を硬くしている。


「一連の事件は全部ヨアシュの野郎が関わってる」


 黒幕はゼクさんの弟のヨアシュかもしれない――前は可能性だけの話だったが、今ははっきりと断言している。


「そう言える根拠があったということですよね?」


「ああ。ヨアシュの奴だが――」


 ゼクさんは雨の降りしきる外を一瞥し、舌打ちを挟んでから、信じられないことを言った。



「ついさっき、会ってきた」

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