上の意向

 廊下の奥にあるシンプルな作りの木製の扉を前にし、私は緊張で手汗をじっとりかきながら立ち往生していた。


 ドアのプレートに書かれているのは、「会長室」という短い文字列。

 私は勇者協会の職員ではあるけれど、まだこの部屋を訪れたことは一度もなく、まして中にいる人と話すのだって初めてだ。


 今日はウィルフレッド・ウェッバー会長に呼び出された日。本部最上階のわかりやすい場所にあったから、前みたいに迷うことはなかった。いや、自分の職場で迷うのはどうかっていうのは置いといて。

 時間は約束の15分前。早すぎかな? いや、会長なんだしそれくらいのほうが……。


 いやいや、余計なこと考えてる場合じゃないって。

 私は意を決して、震える手でノックをした。


「どうぞ」


 おっとりとした低い声が帰ってきて、ちょっと拍子抜けしてしまう。私は「はいっ」と変に上ずった返事をして、ゆっくりとドアノブに手をかけた。



 中にいたのは、少し痩せ気味で眉尻を下げた穏やかな風貌の――ごく普通の、優しそうな中年男性だった。


「こんにちは」


 その落ち着いた声にはっとした私は、慌ててぺこりと頭を下げる。


「こ、こんにちはっ。エステル・マスターズと申します」


「そんなに緊張しなくてもいいよ。さあ、かけなさい」


「し、失礼します」


 会長に促されて、高級そうなソファに腰掛ける。ゆったりと身体が沈む感覚が心地よかったが、それで私の緊張が解れることはなかった。



「今回の君たちの活躍は聞いてるよ。本当はもっと褒賞を上乗せするべきなんだろうけれど、他のパーティとの折り合いもあるからね」


「いえ、そんな……」


 この言い方からして、本当は私たちがサラを退けたことを会長は知ってるんだろうか。


「ドナート君に聞いたが、君はパーティをまとめるのが上手らしいね。旧<EXストラテジー>も、君のお陰で立て直せたのだとか」


「いやあの、私は特に、何もしてなくて……」


「謙遜することないよ。少し見ればわかる。君は人々を集め、正しい方向におのずと向かわせる――そんな力があると思う。君の兄、エリック君のようにね」


「……!」


 お兄ちゃんの名前を出されて、ちょっと顔が火照ってしまう。

 私なんか全然お兄ちゃんの足元にも及ばないと思っていたけど、ちょっとは近づけたかな……?



「それで……ここからはちょっと、仕事の話になってしまうんだが……。待遇を改善したいというのが半分、お願いをしたいというのが半分で、君たちに引き受けてもらいたいことがある」


「は、はいっ」


 たぶんここからが本題なのだろう、私は姿勢を正して会長の言葉を待った。


 今までの話の流れからして、そう悪い内容ではないだろうと――私は油断していた。



「君たち<ゼータ>を、勇者協会西方支部に派遣したい」



 私は返答どころか息をするのも忘れてしまった。


 勇者協会西方支部。田舎出身の私でも知っている。職員として採用されたばかりで希望勤務地を決めるとき、同期の誰もがそこの配属にならないよう必死で忌避していた場所。


 それもそうだ。西方支部があるのは、通称「最果ての街」と呼ばれる無法地帯だったのだから――



  ◆



 簡素なテーブルにぎこちなく置かれたティーカップから、芳しいハーブの香りとともにかすかな湯気がゆらゆらと立ち上る。

 口をつける気にもなれなかったので、ただその白い筋をぼんやり眺めていると――嫌というほど聞きなれた声が、2つ。


「あれあれあれ!? どうしたんだよっ。アモス兄がせっかく淹れた茶だぜ?」


「サラ姉ちゃん、珍しく傷心モードだね。まあ、失態といえば失態だけどさ」



 サラは声を発した弟妹たちに目線だけを向ける。


 ボサボサの長髪を適当に結わえた活発な少女――ダリアは、相変わらず知性の欠片も感じられない間抜けな顔でサラを覗き込んでいる。


 対して黒い髪を綺麗に切りそろえた少年――ヨアシュは、最年少であるにもかかわらず落ち着き払ったすまし顔で微笑を浮かべている。


 サラはどちらの態度も好みではない。ダリアは愚鈍が過ぎるのが癪に障るし、ヨアシュは冷静なのが妙に鼻につく。

 兄妹間で唯一敬愛できるアモスが、いつもの仏頂面でフォローを入れた。


「……戦略は悪くない。人間界を内部から崩壊させるというのは、成功すれば低いコストで大きなリターンが得られる」


「成功すればの話だよね。結局そんなうまい話はなかったわけだ」


「ヨアシュ、そういう言い方すっとまたサラ姉がキレるぞぉ」


 ダリアの警告通りサラはじろりと弟を睨んでおり、それを受けたヨアシュは顔色ひとつ変えずに「ごめんね」と謝罪した。


「で、で? ぶっちゃけなんで失敗しちゃったわけ? 頭のいいサラ姉がやらかすなんてよっぽどじゃねぇ? ね、ね、なんで?」


 先ほど自分が言った内容をもう忘れて、ダリアは傷口に塩を塗るようなことを食い気味に聞いてくる。サラは黙って目を細めて嫌悪感を表明するが、頭の鈍い妹は気づきもしない。


「それだけ、人間どもの――勇者どもの質が上がっているということだ」


「マジかよアモス兄! 人間がそんなに強くなってんなら、あたしも喧嘩しに行きてぇなあ!」


「サラ姉ちゃんを斬ったのって、ゼカリヤ兄ちゃんじゃなかったっけ」


「まっじでぇ!? 行く行く! ゼカリヤ兄と殴り合いしに行く!!」


「よさないか、ダリア。お前が出ると大ごとになる」


「えー……つまんねぇ」


 アモスに咎められたダリアは口を尖らせている。


「まあ……強いて敗因を挙げるとするならば――わかっているな?」


「……申し訳ありません、お兄様」


 サラの脳裏に浮かんでいるのは、あのこれといって特徴もない凡庸そうな少女――エステル・マスターズだ。


 そもそもアモスからも彼女は殺すなと言われ、部下のリベカからも狙わないほうがいいと告げられ、人間の間でも手を出してはいけないという噂さえ出回っていた。


 そこまで言われてはいかほどのものかと、逆に確かめたくなったのが運の尽きだった。あのエルフの女に看破され、あの場にいた全員に全力を出させてしまった。



「――魔王様も、エステル・マスターズには一切手出しするなとお達しだ。あれはゼカリヤ含め、周囲の人間にただならぬ影響力を与える。全員心に留めるように」


 アモスの言葉に恭しく返事をしたのはサラだけで、ダリアとヨアシュは気のない反応を返し、サラはますます頭にくる。


「だったらさあ、ゼカリヤ兄はどうやって連れ戻すわけ? 勇者どもは強いんだろ?」


 そんなことを聞いたって、ダリアはどうせ力ずくで解決する手段しか選ばないのだろう。


「……人間界に潜入しているレメクによれば、ゼカリヤのいる<ゼータ>は西方の街に派遣されるそうだ。そこは荒廃した無法の地だとも。我々にしてみれば、好機かもしれん」


「じゃあ、僕が行こうかなー。その女の子がいなくなったら、ゼカリヤ兄ちゃんがどうなるのか見てみたくなっちゃった」


 ヨアシュは年不相応の薄ら笑いを浮かべる。サラはたまらず口を挟んだ。


「話を聞いていなかったの? エステル・マスターズには――」


「わかってるよ。僕ならその子に何もせずに、兄ちゃんたちの前から消せるもの。それに、荒れた場所なら人間が何人死のうと関係ないでしょ?」


 サラはヨアシュの言葉の意味を飲み込む。確かに、彼の力ならそれができる。


「えー、いいなぁヨアシュ。せめてお土産買ってきてな!」


「検討しとく」


 愛想笑いで返したその少年の瞳は、無邪気に澄んでいるように見えて、この世のものとは思えぬほど濁っていた。

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