皇女と魔族

 石壁と棚で囲まれた薄暗い部屋。棚にはよくわからないガラス容器などが並んでおり、まるで――というより、まさしく実験室そのものであった。


 意識を取り戻したカタリナは、自分が寝台のようなところで寝かされていたと気づく。


 記憶はまだおぼろげで、先刻まで礼拝堂にいたような気がしていたが、何かのショックで気を失っていたのかもしれない。


 カタリナは第一に兄のことを考えた。兄は無事なのか、どこにいるのか――それを知るためには、自分がいるこの部屋を特定しなければならない。


 ――でも……宮殿にこんな場所なんてあったかしら……?


 実験室だとして、連想される人物がいる。

 その人物は、静かにカタリナの傍に歩み寄った。


「お目覚めでございますか、カタリナ皇女殿下」


「オットリーノ……」


 はっとカタリナは思い出す。宮殿に蔓延る魔物たちを仕込んだのはオットリーノではないかと、兄が疑いをかけたことを。



 咄嗟に部屋を飛び出そうとしていた。


 老人の脇を抜けて重そうな扉の取っ手を掴むが、当然というべきか、そこには鍵が掛けられていて、少女のか細い腕の力では開けることができない。


「逃げ場など……どこにもございません。大人しくなさっていてくだされ。それが身のためというものです」


 皺だらけの手が、華奢な手首を掴む。


「い、嫌っ!! お兄様に会わせて!!」


「おやめください。そう暴れられては、こちらも――」


 オットリーノの手には注射器が握られている。カタリナがその針を目にし、戦慄したとき。


 ゴォン、と扉の一部がひしゃげて飛び出す。


 2人して山なりに突起した鉄板に釘付けになっていると、鐘を打ち叩くような音は幾度も繰り返され――とうとう、頑丈に閉ざされた部屋に光が差した。



「……どこだ、クソあばずれ女ぁ!!!」



 野獣のような咆哮。その主もまた、顔に大きな傷のある猛々しい獣のような大男。

 その荒々しさと自分に向けられた鬼のような赤い眼に、カタリナはすくみ上った。


「テメェ、サラか!?」


「ひっ……い、ぁ、わたくしは……カ、カタリナと申します」


「ああ、ちびっ子皇女サマのほうか」


 乱暴な言葉遣いながら戦意を収めた男は、ひょっとすると敵ではないのかもしれない、とカタリナは淡い期待を抱く。


「しょうがねぇ、とりあえずこっち来い」


 大きな手を差し出されて、反射的に握り返そうとするカタリナだったが、しわがれた低い声がそれを制止した。


「なりません、殿下。そやつは魔族です」


 びくっ、とカタリナは手を引っ込める。


「なっ!! テメェ……サラの仲間だな? 錬金術師のジジイってのはテメェか、ああ!?」


 男が否定しなかったことで、彼が魔族だというのは本当ではないかとカタリナは再び恐怖する。

 しかし、オットリーノとて信用できない。無力な少女は震えながら小さく後ずさる。


「おい待て、チビ! 俺は……だあっ、クソ!!」


「きゃあっ!!」


 その細身は筋肉質な腕に軽々と持ち上げられ、皇女カタリナはあっという間にその地下室から連れ出されてしまった。



  ◆



 サラは人の身体を乗っ取る術を使う、というのはゼクもトマスから聞いていたことだった。

 追い詰められたサラはまた誰かを乗っ取ってその中に隠れている可能性が高く、隠れ蓑にされているのはやはりカタリナなのではないか、とも。


 目の前の少女が突如変貌して襲い掛かってくることも考えられる。だが、サラが意識を占拠していないうちは真偽を確かめることもできず、監視下に置くしかない。


 ゼクは廊下の隅に座り込んで、小動物のように怯えているカタリナを見やる。


「……あのな。俺がテメェをどうにかしようと思ってんなら、とっくにやってるだろ。いい加減立って歩けや、チビ」


「もっ……申し訳、ありません……」


 まだ信用されていないのか、ただ萎縮しているだけなのか、カタリナは謝罪しつつも足が言うことを聞かないようで、小さな背をさらに縮めてうつむいている。



 トマスによれば、宮殿には緊急避難用の隠し部屋のような場所があるらしい。ゼクは動けないカタリナをおぶって、ひとまずそこに置いておこうと決めた。その部屋は対魔族用の仕掛けがあり、仮にサラが取りついていたとしても、そこでは手が出せないはずだった。


 ゼクは再び彼女を担ごうとして――何かの気配を感じ、振り返った。


 荒波のようにうごめく、黒い魔物たちの群れ。


「チッ」


 舌打ちを1つ、背の大剣を抜く。


「チビ、そっから動くなよ!」


 粗雑な警告だけ飛ばし、ゼクは真っすぐ黒い塊に突っ込んで巨大な刃を存分に振るう。

 散り散りに裂けた身の残骸が床一面を真っ黒に染め上げていた。


 だが、ゼクは何か妙な感覚がして手を止める。


 これだけ斬っているのに、敵の数が減らない。距離を取って辺りを見回す。

 ――と、斬ったはずの残骸がもぞもぞとうごめき、身体が再生されて再び動き出していた。


 黒い波の隙間から、間違いなく――錬金術師の老人の姿が見えた。


「あのジジイ……!!」


 この魔物たちが錬金術の産物なら、創造主のオットリーノは魔力の続く限り奴らを復活させることができる。

 イタチごっこだと悟ったゼクは素早く踵を返し、カタリナを攫い上げた。


「ひゃあっ!?」


「逃げるぞ。しっかり捕まってろ!!」



 黒い魔物たちはゼクの足にはついてこれず、すぐに引き離すことができた。


 が、すぐにもっと厄介な敵の戦術にはまってしまったと気づいたのは、床に刺さった数本の矢に足を止められたときだった。


「いたぞ!! 皇女様を誘拐した魔族だ!!」


「なっ……!?」


 武装した近衛兵たちが、わらわらと集まってきている。ゼクを誘拐犯だと吹聴し、彼らを仕向けたのは間違いなくオットリーノだった。

 しかし、彼らが敵側なのかどうかはわからない。むやみに手を出すこともできないゼクは、やはり逃走するしかなかった。


「待ってください!! この方は――」


「皇女様、今お助けいたします!!」


 カタリナがいくら叫ぼうと、近衛兵たちは聞く耳を持たない。


 やがて1本の矢がゼクのふくらはぎの辺りを貫いた。痛みに顔を歪めるも、力強く地面を踏みしめて速度を落とすことはしない。ただ一心に、走り続けた。



 ようやく2人は隠し部屋の手前まで辿り着く。壁の一部を外したところから入れる細い通路の、さらにその奥に固く閉ざされた扉がある。

 カタリナを下ろしたゼクはポーションをぐいっとあおり、瓶を投げ捨てた。


「……なんだよ。とっとと中入れ」


「いえ、あの……」


 言い淀んでいた少女は、やがて意を決したように水晶のような瞳をゼクに向けた。


「あなたの、お名前は……?」


「あ? ……ゼクとでも呼んでくれ」


「ゼクさん、ありがとうございます。先ほどの失礼な振舞いをお詫びいたします」


「……。知らねぇよ、早く行け」


「はいっ」


 失礼を詫びなければならないのはどう考えても皇族に乱暴な口を利いているゼクのほうだったが、真面目なカタリナは咎めることなく礼を尽くした。そういうところがエステルに似てるかもな、とゼクは苦笑する。


 さて、本命のサラはどこにいるのか。今まで出てきてもいいタイミングはあったが、そうならなかったのはカタリナに取り入っているわけではないからか。だとしたら、誰に――



「きゃあああああっ!!!」


 耳をつんざくような悲鳴は、今別れたばかりの少女のものだった。

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